#09
有利の賭けを聞いて、颯は目を見張る。
賭けの内容はどうせ「芽榴と仲直りしろ」とか「芽榴を泣かせるな」などといった、単純なものだろうと心のどこかで颯はそう決めつけていた。
「有ちゃん……」
「神代くんが勝ったら、僕が楠原さんを諦めます」
それで賭けは平等になるだろうと有利は言う。お互いに賭けるものは同じで、芽榴に対する想いも2人のあいだにほとんど違いはない。公平さで言えば完璧な賭けだ。
「芽榴への気持ちを賭けるのかい?」
颯はそれを渋っていた。勝つか負けるかは1/2。そんな半分の確率のために大切な気持ちを捨てるというのか。
「有利の芽榴への想いは、負けて簡単に捨てられるものなの?」
颯の声が道場にシンと響く。その問いを聞いて、有利の手に力がこもった。
「……僕はそんな弱気な想いで好きになっていませんから」
有利は深く息を吸い込む。そして大きくそれを吐き出した。有利を囲む雰囲気が一気に変わる。
「こっちは負ける気なんて、さらさらねぇんだよ」
有利のスイッチが入った。颯ですら気圧されてしまいそうなほどの気迫を有利は放つ。それは単に武道スイッチが入っただけの有利が放つオーラではない。
それは、本気の有利が纏う空気――。
颯が急いで竹刀を構える。そして来羅の開始の合図とともに、有利は「やぁーーーーーっ!」と大きく太い声を上げた。
パァンッと竹刀がぶつかる音が響く。面へと降りてくる竹刀を颯はしっかり受け止めた。あらかじめ面しかとらないと言われている以上、そこを守りさえすれば颯に負けはない。
面をかばうように颯が竹刀を構える。有利が颯の面を打突できないように、颯はしっかり竹刀を構えて降りかかる有利の竹刀を抑えた。
「……颯」
来羅には、颯が押されているようにしか見えない。不利な条件下にあるのは有利のはずなのに、有利の竹刀の動きは止まらない。連続的に、颯に反撃する暇を与えないように何度も竹刀を振り下ろす。
「……くっ」
「そんなもんかよ! そんな構えで……勝てると思ってんのか!?」
有利の声が道場に響く。その声は竹刀のぶつかる音に紛れることなく、颯の耳まで届いていた。
颯に負ける気などない。けれど有利は強すぎて、さすがの颯にもこの状況を打開する術がなかった。
竹刀を擦りあい、有利と颯は近接する。竹刀越しに見つめあって、颯は有利の顔をにらんだ。
「有利……。どうして……あんな賭けを選んだ?」
「そうしてほしいからに決まってんだろうがよ」
有利は唸るようにして返事をする。対する颯は苦しげに眉間を寄せた。有利の竹刀にかかる力が増して、颯の竹刀に一層負荷がかかっていく。
「……僕が芽榴を諦めたら、また芽榴が笑ってくれるから?」
颯の顔が悲痛に歪む。その理由は竹刀に負荷がかかっているから。でもそれだけではない。
颯が芽榴を好きでいる以上、芽榴は心から笑えない。それほどまでに芽榴が颯の想いを重く感じているから。そんなふうに思い込んで、苦しげに揺れる颯の瞳を、気持ちを、有利は見透かしたように眉を寄せた。
「……馬鹿野郎が。あいつの顔見て……どうしたら、そんなふうに思うんだ!? ああ!?」
ギリッと唇を噛むと、有利は自分の竹刀越しに颯の竹刀に体重をかけた。
「てめぇが避けるから、あいつは泣きそうな顔するんだろうが! てめぇが他の女に優しくするから嫉妬したんだろうが!」
有利の叫びが響くけれど、颯にはそれを理解できない。言葉の意味を理解できても、それを信じることができなかった。
「嫉妬? 馬鹿言わないでよ。芽榴は僕に嫉妬なんか……」
「ふざけんな!!」
一際大きい声が有利の口から出て行った。そして有利はそのまま俯いて小さく口を開く。
「あいつの顔見て、んなのも分かんねぇなら諦めろよ……」
有利は顔を伏せて道場の床板を見つめながら、颯に言う。絞り出すような声は、どこか震えていた。それとともに竹刀越しに感じていた有利の力がどんどん和らいでいった。
「有……」
「好きなら、分かるはずですよ。……楠原さんが、どんな気持ちであんな顔をするのかも。どんな想いであんなことを言ったのかも」
有利のスイッチは切れていた。いつもの優しい有利がそこにいる。竹刀を颯の竹刀と擦り合わせたまま、有利の声が弱々しくもれた。
「分かるよ。分かるから……芽榴が僕のことをなんとも思ってないって……」
「本気でそう言ってるなら……神代くんに楠原さんを好きでいる資格なんて、ないですよ」
有利は颯の言葉を遮る。まるで颯の返事など聞きたくないとでも言うように。有利は竹刀越しに颯に体重をかけ、颯から飛び退いた。
颯の1メートル後ろに下がって、有利は颯を見つめる。
「僕が誰かに告白されても……楠原さんがあんなふうに動揺してくれることなんて、絶対に、ないんです」
そう告げる有利が切なくて、来羅は視線を下げる。悲しそうに2人から目をそらした。
対する颯は、そんな有利の顔を見て瞠目していた。
「なんとも思われてないっていうのは……そういうことを言うんですよ」
「有利……」
「それでも神代くんは、楠原さんが自分のことを何とも思ってないって言い張りますか?」
そして有利が再び颯に竹刀を振り下ろす。けれどスイッチの入っていない有利が振るう剣にキレはない。
その剣筋なら振り払える。颯がそう思い、竹刀を構え直す。そのとき颯の目に映った有利は儚げに、けれど薄く笑っていた。
「……っ!」
颯の竹刀が有利の竹刀を弾く。すでに有利は竹刀を持つ手に力を込めていなかった。颯に弾かれた竹刀は有利の手から離れ、宙を舞う。そしてカンッと音を立て道場に転がった。
「有利、今のは……」
「僕の反則です」
有利は目を伏せて告げる。自らの手から竹刀を取り落とした有利の反則負けだ。
けれど、こんな勝負に納得できるほど颯は自分に甘くなかった。
「最初から、僕の気持ちを試すつもりで……こんな手合わせを?」
颯はたった一つ思い浮かんだ考えを有利に問う。でなければ、有利は負けない。芽榴への気持ちが賭けられているのに、わざと竹刀を弾かせるような真似はしないはずだ。
「僕は……楠原さんが好きです」
有利は落としてしまった竹刀を拾って呟くようにそう言う。素直にはっきりと、有利はその気持ちを偽らない。
「僕のことを好きにならなくても、僕を男として見てくれなくても、僕は……好きです。幸せそうに笑ってる楠原さんが、僕は好きなんです」
この道場には、芽榴も足を踏み入れたことがある。あのときよりはるかに強くなった有利の想いは、けれども芽榴に届くことはない。
「楠原さんがまた笑ってくれるなら、それはきっと……神代くんの、隣にいるときだと思います」
その言葉を有利はどれほどの思いで口にしているのか。それがとても苦しくて心まで裂いてしまいそうな辛いものだと、颯は知っている。
「だから……楠原さんへの気持ちは突き通してください」
有利は最初からそれを伝えるために、ここへ颯を呼び出したのだ。最初から彼は芽榴への気持ちを颯に預けるつもりで――。
「話は、それだけです」
それだけ告げると、有利は竹刀を元の場所に戻して、置き去りにしていた木刀を手にする。芽榴からもらった革鍔をジッと愛おしむように眺め、そして道場を後にした。
有利が道場を出て行くと、庭の腰掛に座って単語帳を眺める功利の姿があった。
「……功利」
その有利の声は微かに震えていて、呼びかけに反応した功利は困ったような顔をした。
「藍堂家の男がなんて顔をしてるんですか」
功利は単語帳を腰掛に置き、持ってきていた綺麗な藍色のタオルを有利の頭にふわりと被せる。すると有利の情けない顔をタオルが覆った。
「厳しいですね……功利は」
有利がタオルで自分の目元を拭う。それを見て、功利は肩を竦めた。
「こんなとき……楠原さんなら、優しくしてくれますか?」
功利の問いかけに有利の手が止まる。そして有利は功利の肩に自分の額をぶつけた。功利は着物越しにじわりと湿り気を感じる。しかし、功利は有利を押し払う気にはなれなかった。
「……そうですね」
有利が鼻をすする。その音が功利の耳にしっかり届いて、功利は切なげに目を伏せた。
「きっと笑って……『ありがとう』と……言ってくれると思います」
震える有利に肩を貸して、功利は綺麗な青空を見上げた。
「……颯」
有利が去って、そこには来羅と颯だけが取り残される。来羅の声は小さくて、彼が今どんな顔をしているのか、視線を向けなくても颯には分かった。
「私も、有ちゃんと思ってることは同じよ」
来羅はそう言って、颯の肩にタオルをかける。そしてまた3歩くらい後ろに下がった。
「颯はいつだってるーちゃんの気持ち、分かってあげられてたよね。それは颯が、るーちゃんのことを分かりたいと思ってたからでしょ?」
好きだから、芽榴のすべてを分かりたいと思っていた。それは颯に限った話ではなくて、みんなそうだった。
けれど今の颯は違う。
「颯は今、るーちゃんの気持ちを知りたくないんでしょ? 勝手にフられるって思い込んでるーちゃんから逃げてるだけじゃない」
颯が今でも、芽榴の気持ちを全部分かろうとしているなら、見落とすはずがない。有利も来羅も、おそらく翔太郎も風雅も気づいた芽榴の変化を。
芽榴の気持ちを――。
「今の颯は、嫌い」
来羅ははっきりとそう言った。その言葉に颯は目を丸くして、後ろを振り返る。
「私の憧れた颯は、目に見えてるものだけに囚われるような人間じゃないわ」
そして来羅は道場の玄関口へと歩いていく。
「有ちゃんの想いも、私の想いも……無駄にするような男じゃないでしょ?」
有利と同じように、颯をそこに置き去りにして、来羅は最後の言葉を言い残した。
みんなの想いが通じるわけではない。それは最初から分かっていたことだ。
そして通じない想いはどうしたって身を裂くような苦しみを含んでしまう。
「僕も……こんな自分は、嫌いだよ」
それでも後押ししてくれた彼らは、本当に男らしくて、自分の情けなさが際立つ。
颯は目元を覆って、一人つぶやいた。




