#08
「知らないよ。神代くんなんか……」
芽榴の頼りない声が聞こえる。
「……楠原、さん」
芽榴と颯の口論を有利は目の当たりにしていた。事務室に書類を届けるつもりで、生徒会室を出たら階段のところで2人がもめていた。
颯が誰かに告白され、芽榴はそれをどう思ったかと問いかけられて、あんなふうに答えた。
泣きそうな顔の芽榴と、真剣な顔の颯がそこにはいて、芽榴は颯の手を振り払っていた。
芽榴が颯にそんな態度をとっている姿は、有利を驚かせる。でもそれ以上に、芽榴の反応がある一つの感情を宿しているように見えて、その衝撃のほうが遥かに大きかった。
「……何やってるんですかね、あの人は」
有利は独り言のようにして呟く。
今の芽榴の姿も言葉も、有利には芽榴の嫉妬にしか見えなかった。衝撃的なほどに、分かりやすく芽榴はそれを態度で表した。
だから、颯よりも有利のほうが精神的ダメージを受けているはずなのに、なぜか前方にいる颯のほうがボロボロに見えた。どう捉えたらそんな憂鬱な顔になるのか。
「……神代くん」
有利は階段のほうへと歩いて行き、そこに佇む颯に話しかける。
「有利……。ああ、ごめん。そこでクラスの女子に呼び止められて遅くなった」
それは嘘ではない。でもあえて芽榴のことを隠した颯に、有利は苛立った。
「見てられないですよ。今の神代くんも、楠原さんも」
そして有利はそんな言葉をもらす。生徒会室で颯と翔太郎が芽榴の話をしていたとき、有利は話に入らなかった。
芽榴の反応や颯の姿を見ていれば、なんとなく2人の間にあったことは理解できる。そしてそれが自分を傷つけるものだということも。
けれど今2人の姿を改めて目にして、放っておいてどうにかなるようなものではないと感じた。今の2人は時間が解決するとかいう次元にはいない。
お互いの気持ちがすれ違いすぎていて、見ているほうが辛くなるレベルだ。
「……明日の土曜日、僕の家に来てください。話があります」
有利はそう言って、書類を抱えたまま颯の横を通り過ぎた。
次の日は土曜日で学園も休み。
颯は有利に言われた通り、有利の家へと足を運んでいた。
「颯さん。お久しぶりです」
颯を玄関口で迎え入れるのは功利だ。いつものように清楚な感じを漂わせる和服を身にまとって、颯の前に現れる。
「久しぶり。受験で忙しいのに、お邪魔して悪いね」
功利は今年麗龍を受験する。高等部の受験は2月の中旬で、もうすぐだ。
「いえ、呼び出したのは兄様のほうだと聞いていますから」
功利はそう言って薄く笑う。こういうところは有利と似ていて、功利も表情から感情を読み取れない。
「受験、大丈夫そうかい?」
「藍堂有利の妹が落ちたら、兄様の名に傷がつきますから」
功利は静かにそう言った。つまりは「大丈夫」ということだろう。颯もその答えを分かっていて尋ねているため、功利の返事に笑って返す。それでも功利に無駄な時間をとらせるわけにもいかないため、颯はそのまま功利に有利がいる場所まで案内してもらった。
「おじいさんはいないのかい?」
「ええ。ちょうど出稽古があって……たぶん兄様もそれを知ってたから今日颯さんを呼び出したんじゃないですか?」
功利が彼女なりの推測を語りながら、廊下を歩く。そうして功利に連れていかれたのは本邸の庭を挟んだ場所にある武道場だ。
「こちらで、兄様が待ってます」
功利がそう言って道場の玄関口の扉を開ける。扉の先――颯の目の前に真っ先に映ったのは、紫がかった黒い髪。男姿の来羅が私服でそこに座っていた。
「颯、遅かったじゃない。待ちくたびれたわあ」
来羅がいつもの調子で颯に話しかける。来羅がそこにいるとは思っていなかったため、颯は少し面食らった顔をしていた。
「来羅……。お前も呼ばれてたのかい?」
「ううん。呼ばれてないけど、有ちゃんが呼んだって聞いたから私も行かなきゃと思って」
どうして有利が颯を呼び出したら来羅までそれについてこなければならないのか。颯がそんな疑問を浮かべて困り顔をすると、来羅は目を伏せて小さく笑った。
「暴走したら手を付けられない2人には、ストッパーが必要でしょ?」
その言葉に、颯の目がほんの少しだけ見開かれる。有利に呼び出された時点で、だいたい彼が何の話をするつもりなのか、颯は分かっていた。その話が場合によっては有利か颯か、あるいはどちらの火薬にも火をつけかねないことも。そしてそれを来羅も分かっていて、わざわざここにやってきたのだ。
さすが、と言うべきか。
「颯さん」
颯と来羅の話にひと段落ついたのを察して、功利が2人のあいだに入り込む。そして功利は颯の前に袴を差し出した。
「これに着替えて、道場にあがってくださいね。更衣室はあちらですから」
功利は淡々と颯にしてほしいことを伝えると、すぐに道場の外へと出ていく。颯は功利から受け取った袴を見て苦笑しつつ、道場に設置してある更衣室で私服から道着へと着替えた。
再び颯が玄関口に戻ってくると、来羅はひょいっと立ち上がって颯の横に並ぶ。そして颯とともに道場の前で一礼して中へと足を踏み入れた。
道場の中に入ると、有利が正座で待っていた。藍堂流の信念が書かれた掛け軸を前に、有利は目を瞑って穏やかな様子で座っている。
「有利」
そんな有利の背中に颯が静かに声をかける。颯の声が聞こえると、有利の肩がピクリと反応した。そしてゆっくり有利は顔だけ颯たちのほうを振り返った。
「すみません。出迎えもせずに」
「いいよ。……稽古をしていたんだろう?」
颯は有利のほうを見て苦笑する。真冬だというのに、有利の顔にはうっすら汗がにじんでいた。髪もいつもより湿り気がある。それだけで有利が今の今まで稽古に励んでいたことも、その稽古の内容が半端なものではないことも分かった。
「僕を道着に着替えさせて、手合せでもするつもりかい?」
颯が道場に飾ってある竹刀の前に立って、そう問いかける。来羅が2人の邪魔にならないように道場の隅へと歩いて行くと、有利は颯だけを見て「他にありますか?」と静かに問い返した。
「僕は神代くんのように口で説き伏せるのは苦手ですから」
有利はそんなふうに言って手にしていた愛用の木刀を掛け軸の前に置く。
「僕だって得意なわけじゃないんだけど」
颯はそう言いながら、飾ってある竹刀の一つを取り上げる。有利の道場で竹刀を握るのは颯も初めてだ。何度も有利の祖父に手合わせをせがまれたが、颯はすべて拒否していた。
学校の授業で何度か剣道はさせられているため、ルールも要領も得ているが、有利が相手ではそんな経験はないに等しい。
「まさか、経験者が『ハンデなし』とは言わないだろう?」
颯が眉根を下げて有利に問いかけると、有利は「はい」と颯の目を見ることなく、返事をする。芽榴からもらった革鍔のついた木刀を置いて、代わりに稽古用の竹刀を手に取った。
「これが僕の手加減です」
木刀から竹刀へ、それが有利の颯に与えるハンディーキャップ。確かに竹刀になれば木刀よりは威力が落ちる。けれど竹刀を使う颯相手に、最初から有利が木刀を使わないことは決まっていて、それは何のハンデにもならない。
藍堂流の免許皆伝者にしてはあまりにも大人げない条件。隅でその条件を聞いていた来羅も思わず苦笑していた。
それでも颯は肩を竦めて有利に相対する。
「審判はどうする? 来羅、できるかい?」
「授業で審判ばっかりやってたから少しはできるけど……完璧にはできないわ」
2人の手合わせの審判となると、身体の細部までしっかり見ていないといけない気がして、そんな細かい審判はできないと来羅が言う。
すると、それを聞いていた有利が静かに、けれど大きな声で言った。
「安心してください。僕は面しかとる気ないですから」
有利はそう言って始めの姿勢に入る。
打突部位を「面」一本に絞り込む、それは有利が口にしなかった、最大のハンデだ。面しか打たないなら、防ぐのは簡単。そんなハンデを与えてでも有利は負ける気がないということだ。
それを知り、颯の纏う空気が変わる。
「……勝負するなら、何か賭けるんだろう?」
目を細めて颯は有利に問いかける。すると有利は「はい」と静かに返事をして、一つの賭けを提案した。
「もし僕が勝ったら――――」
それが有利の願いであり、けじめだった。
「楠原さんのことを諦めてください」
 




