#07
同じころ、芽榴と来羅は委員会の後片付けをしていた。来羅が各クラスの委員長から会誌を受け取って内容を確認し、その一方で芽榴が会議室の清掃をする。
「るーちゃん、全部会誌まとまったわ」
「はーい。こっちもほとんど終わったよー」
芽榴が会議室の窓が閉まっていることを確認してカーテンを閉める。そして「よしっ」と手を叩いて黒板の近くにいる来羅のところへと歩み寄った。
「ごめんね。1年生がなかなか会誌書き終わらないものだから、後片付け全部るーちゃんに任せちゃって」
「仕方ないよー。今日書くこと多かったし」
もちろん会誌がなかなか集まらなかったのはそれだけが理由ではない。男バージョンで登校するようになった来羅を、できるだけ視界に入れたいということでわざと会誌をゆっくり書いている委員も何人かいた。
本格的に男子として過ごし始めた来羅には新たにファンが現れ始めていて、他の役員と違ってこれからもっと増えていくことだろう。
「大変だねー」
「何が?」
首を傾げる来羅に、芽榴は「こっちの話ー」と笑って答えた。
会誌が全部そろったことで、委員会の後片付けも終盤に入る。芽榴と来羅は黒板に書いてある連絡事項を消していった。
「でも前に蓮月くんが担当のときはもっと大変だったよねー」
「あの頃は風ちゃんのファンクラブがすごかったものね。誰かが犠牲になってたし」
芽榴も過去にその犠牲になったことがある人物の1人だ。今でこそ、風雅が委員会担当でも委員長と出席を代わる女子はいなくなったが、あのころは本当にいろんな意味ですごかった。
「注意しても変わらないからって、放置してたけど、今思うと異常な人気だったわよね」
「ずば抜けてたねー」
風雅がずば抜けて人気があるのは今も変わらない。けれどあの頃は人気の果てのファンの行動すらずば抜けていた。それを芽榴は誰より知っている。
「まあ、颯がるーちゃんと風ちゃんの委員会担当ずらしてたのが幸いだったけど」
来羅がそう言う途中で、芽榴がビクッと肩を揺らして黒板消しを手から落とす。床に黒板消しが落ちて少しだけ粉が舞った。
「ケホッ。ごめん、来羅ちゃん」
芽榴はアハハと笑って、床に落ちた黒板消しを拾う。来羅はその様子を見て、心配するように目を細めた。
「大丈夫? るーちゃん」
来羅は自分の白いズボンの足元を軽く払って、芽榴に尋ねる。拾った黒板消しで再び黒板を消し始めていた芽榴は「え?」と不思議そうに首を傾げた。
「手が滑っちゃっただけだよー」
それ以外に黒板消しを取り落した理由はない、と芽榴は笑う。けれど来羅は芽榴の空笑いを見逃さなかった。見逃すこともできたのに、あえて来羅は芽榴に問いかける。放っておけなくなるほど来羅の目に映る芽榴の姿は不安定だったのだろう。
「……颯に何か言われた?」
来羅は名指しで問いかける。舞子と同じで、来羅も芽榴が誰のことで落ち着かないのか分かっていた。同じ生徒会室で仕事をしていて、気づかないほうがおかしいとも言える。
「来羅ちゃんは、神代くんから何か聞いた?」
芽榴が黒板を消す手を止めて静かに問いかけると、来羅は「ううん」と首を横に振った。
「でも、何があったかは分かるよ」
来羅がそう言い、芽榴は来羅に視線を向ける。すると来羅は薄く笑った。
「颯が変になるのは、るーちゃんのことが好きすぎてどうしようもないときだけだから」
来羅はそう言って芽榴の目を見つめる。いつもの芽榴ならその言葉を「友だちの好き」と受け取って軽く受け流すのだ。
今、芽榴の目が大きく見開かれたのは、芽榴がその「好き」の意味を明確に知ってしまったから。来羅は少しだけ芽榴に鎌をかけたのだ。
「颯に、ちゃんと言われたんだね」
来羅の笑顔は綺麗で、綺麗すぎて、そのことを喜んでいるのかも悲しんでいるのかも芽榴には分からなかった。
「……知ってたの? 来羅ちゃんは、神代くんの気持ち……」
「そりゃあ、颯とは中学から一緒にいるんだもの。見てたら分かるわ」
来羅はそう言って苦い笑みをこぼす。そして来羅は芽榴にたった一つだけ問いかけた。
「るーちゃんは、颯になんて返事したの?」
来羅は芽榴の答えを待つ。その顔はとても真剣で、緊張していた。
「……まだ、答えてない」
芽榴が颯の告白を受け入れることも拒絶することもしていない。そのことを知ると、来羅は驚いた顔をした。
でもすぐにその驚きは消えて、来羅は「そっか」と目を伏せた。まるで何かを悟ったように――。
「るーちゃんは、あんまりそういうことで迷わないのにね」
「え?」
来羅は黒板消しを置いて、パンパンと手を叩く。
「滝本くんからの告白も、山本くんからの告白も、るーちゃんは『ごめんね』ってすぐに言えたでしょ?」
2人の告白に芽榴はすぐに答えた。風雅の告白ですら芽榴は何度も拒否していた。だから風雅はいまだに芽榴に好きだと言い続けている分、芽榴に返事を求めない。
芽榴が返事を躊躇したのは、実質的に颯が初めてだ。
「それは……だって……」
芽榴の中にその続きの言葉はない。颯の告白に答えられない理由は、答えが見つからないから。そして答えが見つからない理由を芽榴は知らない。
言葉に詰まる芽榴を見て、来羅は儚げに笑った。
「きっと、その理由が分かれば……答えはすぐに見つかるよ」
まるで来羅は芽榴の答えを知っているかのように、そう言った。優しく、芽榴にヒントを与えてくれた。
「来羅ちゃ……」
「会誌、私が職員室に持って行くから……るーちゃんは先に生徒会室に戻ってて」
来羅がそう切り出した時、すべての後片付けが終わっていた。だから来羅は回収した十数冊の会誌を持って、扉の方へと向かう。
「来羅ちゃん、待って。私も行く……」
「大丈夫よ」
来羅は彼らしく笑って、芽榴にばちんとウインクをした。そうして来羅は扉を出て行き、芽榴は会議室に一人取り残された。
来羅が仕事を全部請け負ってくれたため、芽榴は一人で生徒会室へと帰る。
階段をゆっくり降りて生徒会室のある階にたどり着くと、そこから折り返して階段を5段ほど降りた場所――踊り場の方から女の子の声がした。
放課後の本棟に生徒会役員以外がいることは珍しいため、芽榴は少し驚いた様子で声のする方に顔を向ける。けれど手すりのついた壁が邪魔をして、芽榴のいる場所からはそちらの姿は見えない。
「あ、ありがとう。ごめんね、ふらつちいちゃって」
そう遠くもない距離で声がするため、自然と言葉が聞こえてしまう。どうやら女生徒が貧血を起こして階段のところで倒れかけたところを、誰かが支えたらしい。
そのこと自体は特に気にすることでもないため、芽榴は廊下のほうへと足を向ける。
「気にしないで。保健室に連れて行かなくて大丈夫?」
けれどその声で、芽榴の足が止まった。
聞き間違えるはずもない。それは颯の声だ。
生徒会室からどこかの職員室に書類を持って行っていた途中だったのかもしれない。颯がそこにいる理由は簡単に想像がついた。
「だ、大丈夫だよっ。心配してくれてありがとう」
少し興奮ぎみの女生徒の声がやけに大きく聞こえる。そんな女生徒の前で優しくクスリと笑う颯の声までちゃんと芽榴には聞こえた。
「うん。本当に大丈夫そうだね。じゃあ、僕はもう行くから……」
颯はそう言ってその女生徒と別れようとする。そのままでは颯が階段を上ってきて鉢合わせてしまうため、芽榴は生徒会室に戻ろうとした。
けれど颯の言葉にかぶせて響いた女生徒の言葉に、芽榴の足は縫い付けられて動かなくなった。
「か、神代くん。待って」
女生徒は颯のことを呼び止めた。変わらず興奮ぎみの女生徒に対して、颯の「何?」と問い返す声はとても冷静だった。
「あの……えっと、神代くん」
「うん?」
颯の声は優しい。女生徒が今から何を言い出すのか、それは芽榴にもなんとなく分かる。だから颯にも絶対に分かっているはずなのに、颯は優しく女生徒に話の続きを促した。
「ダメなのは……分かってるけど、でも、あたし、やっぱり神代くんのことが……好き、です」
発言からして、その女生徒は一度颯に告白したことがあるようだった。颯に断られて、それでもなお颯のことが好きだとその女生徒は言っているのだ。
一度フられたとはいえ、好きな人にあんなふうに優しく心配されれば再び想いはもれてしまうものだろう。
「ごめんなさい。何回も言われたって、迷惑だよね……」
女生徒の声は悲しそうで、でもすごく可愛かった。声音も選ばれた言葉も全部女の子らしさで溢れていて、芽榴には真似できないものだった。
「迷惑なわけないよ。ありがとう。気持ちには答えられないけど……すごく嬉しいよ」
詰まることなくサラッと颯はそんな言葉を言ってのける。颯の姿は見えないけれど、彼が爽やかに笑っているのが想像できた。
颯が風雅に及ばずとも、よく告白されていることは知っていた。でも実際にそれを目にしたことはなかった。
そして今、実際に耳にして、芽榴は呆然とする。
颯の対応は優しすぎて、逆に惚れさせるようなものだ。芽榴の前で理性を抑えきれなくなった颯の姿など、どこにもない。
芽榴にはあんな優しい言葉をくれなかった。それは颯に余裕がなかったからなのかもしれない。あの女生徒たちはそれでも颯に「好き」と言われるほうが嬉しいのかもしれない。
けれど、芽榴はあんなふうに颯に優しくされてる女生徒を羨ましく思った。前までは芽榴もあんなふうに優しくされていたのに。
芽榴にはあの女生徒みたいな女の子らしい反応をすることはできない。もしあんなふうに可愛いらしい反応ができていたら、あの日も颯は優しく想いを伝えてくれたのだろうか。
怒って、全部颯のせいにして、告白すらまともに聞き入れずに、あの日颯の前にいた芽榴はどれだけ可愛げなく映っていただろう。
「……芽榴」
ただ、颯のことだけを考えていた。
夢心地に颯の声がして、そして芽榴は意識を戻す。目の前には颯がいて、芽榴は目を丸くした。同時に心臓はうるさいくらいに波打った。
芽榴がボーッと考えているあいだに、颯と女生徒の会話は終わっていて、颯が階段を上がってきていたのだ。
「どうしたの?」
颯にまともに話しかけられている。でも芽榴は「あ……」と挙動不審な声しかもらせない。
颯のことを考えていた、なんて芽榴には言えない。
「もしかして、今の聞いてた?」
颯にそう問われて、芽榴の動揺が瞳に映る。揺れる芽榴の瞳は言葉で語らずとも、颯に真実を伝えてしまう。
「あれは……」
「あ……会議室に忘れ物。取りに行かなくちゃ」
なんとも下手な言い訳だ。芽榴は自分でそう思った。でもそんな嘘でも吐かなければここから逃れられない。逃げないと心がもたない気がした。
芽榴は降りてきた階段を再び上がろうとする。でも颯が芽榴の肩を掴んで、それを止めた。
「や……っ」
「……僕が告白されてるの見ても、やっぱりなんとも思わない?」
颯は真剣な顔で聞いてきた。颯が芽榴をからかうつもりでないことだけは分かる。ただ、本当にその問いかけの答えを知りたいだけなのだろう。
颯が告白されてるのを見て、なんとも思わなかったならボーッと颯のことなんて考えたりしない。
――嫌だった。
でも、芽榴にはそんな恥ずかしいことを言う勇気がなかった。
「知らない……」
そして芽榴の口からもれるのは、また可愛くない答え。
「知らないよ。神代くんなんか……」
泣きそうになる。理由は簡単で、自分が颯から逃げることしか考えていないから。
芽榴は颯の手を振り払って階段を駆け上がる。駆け上がって、颯の姿が見えなくなると、立ち止まって大きく息を吐いた。
「こんなの……ただのワガママだから」
気持ちに答えないのに、颯が他の女の子に告白されるのは、優しくするのは嫌だ。それはただのワガママで、ただの独占欲で――ただの、嫉妬だった。
頭の中はどうしようもない自分の気持ちでいっぱいで、芽榴は颯との会話を見ていた人物の姿に気づくことができなかった。




