#05
「僕は君が好きだよ。……たった一人、君だけが好きなんだ」
それは今度こそ疑いようのない、颯の告白だった。
颯はそれを伝えると、芽榴の肩を支えて自分と向き合うように芽榴を立たせた。
「これが僕の本心。……笑いたくなるくらい簡単だっただろう?」
颯はそう言って切なく笑う。芽榴の心を締め付けるように、悲しげに笑顔を携えた。
「うそ……だよ。だって、神代くんはみんなと同じように好きだって。私の思い違いだって……」
颯は確かにそう言っていた。あの修学旅行で、颯の気持ちに気付きかけた芽榴へ、颯は確かにそう言ったはずだ。
「そうでしょ……?」
そして芽榴はまた、あのときと同じように「そうであってほしい」と颯にすがるような顔をしていた。でも今度こそ颯はその芽榴の願いを叶えてあげない。
「芽榴はそう言ってほしかったんだろう?」
それは芽榴の図星だった。颯の問いかけに芽榴の鼓動はドクンと一際大きく鳴り響く。颯は芽榴の心を見透かしていた。
「あのときも、芽榴は僕に否定してほしかったんだよ。僕の好きな人が君じゃないって……。良き友人として君を好きだって、僕がそう言うのを芽榴は待ってた」
芽榴の肩に颯の力がかかる。穏やかな口調とは裏腹に、颯のこもった手の力は何かを必死に堪えているみたいだった。
「今だって、芽榴は僕に告白を撤回してほしいんだ」
「そんなこと……」
颯の顔が悲痛で歪んでいる。そんな顔をさせている自分が嫌になるのに、芽榴はそれでも「そんなことはない」と「嬉しい」と、そんな単純な言葉すら口にできなかった。
それくらい芽榴は動揺していて、少しだけでいいから落ち着く時間と考える時間を与えてほしかった。でも余裕がないのは颯も同じで、もしかしたら芽榴以上に颯は余裕がなかったのかもしれない。
「芽榴の中で答えは決まってるだろう?」
「え……」
芽榴は答えなど知らない。芽榴さえ知らない答えを颯は決めつける。芽榴が泣きそうな顔で見上げると、颯はそんな芽榴の顔から目を背けた。儚い瞳ごと鼻にかかる前髪の奥に颯は隠してしまう。
「僕のことは友だち以外の何とも思っていないって、そう言いなよ」
言葉でそう言っても颯の声音は、ひたすら「言わないで」と願っているように、芽榴には聞こえる。颯がそんなことを言うのは、颯が芽榴の気持ちをそうだと思い込んでいるから。それでもわざわざ芽榴の口から肯定するように願うのは、本心ではそれを否定してほしいと思っているからだろう。
だから芽榴がはっきり肯定してくれたら、颯の甘い考えは全部壊れてなくなる。粉々に壊れてしまえば、颯だって何の心残りもなく前に進める。
「芽榴がそう言ってくれれば、諦めもつくんだ。……そしたらこんなふうに芽榴のことで頭の中をかき乱されることもなくなって、芽榴のことなんて忘れて――」
颯はそれを口にしてすぐに言葉をやめた。脳を通さずに感情的に口にした言葉は、容赦なく芽榴を傷つける。それを知っているから、颯は途中で言葉をやめた。けれどすでに放たれた言葉だけで芽榴が傷つくには十分だった。
それが、芽榴を忘れたい、というのが颯の本心なのだ。颯の気持ちに答えられないなら、颯は芽榴を必要としない。芽榴との思い出も全部いらない。
颯がどういう意味で言ったのかは颯にしか分からない。そういう意味で言ったんじゃないとしても、芽榴にそう響いたのなら取り消すことはできない。
「……友だちのままなら、私は神代くんの重荷にしかならない? ずっと、そうだった?」
芽榴の瞳には、変わらず颯の顔が映っている。でもその瞳には涙が溜まっていて、瞳の中の颯も歪んでしまっていた。
「……違うよ」
否定する颯の声はとても小さい。もどかしいほどにお互いの言葉が、想いが、すれ違って重ならない。
颯はいつだって、芽榴のことを分かってくれていると思っていた。芽榴の気持ちを全部分かって、すべて受け止めてくれると。それが芽榴と颯の最初の約束で、無責任な甘えだと知りながらも、芽榴は颯に変わらぬ信頼を抱いていた。
でも、その信頼が壊れていくように、お互いの気持ちも全部、すれ違う。
「私を肯定してくれる神代くんは、もういないんだね」
最初からいなかったのかもしれない。
あの日、颯が言ってくれた「すべてを肯定してくれる」という言葉は、芽榴にとってかけがえのない大切な支えだった。
けれどそれさえ、颯に無理をさせて芽榴が押し付けただけの思いだったのかもしれない。
「芽榴……」
俯く芽榴に颯の手が伸びてくる。でも、芽榴はその手を払った。夜の闇にパンッと芽榴が颯を拒絶した大きな音だけが響く。
「神代くんの、バカ……」
芽榴はそれだけ口にして、走り出す。颯から逃げるように全力で、芽榴は家へと繋がる夜道を駆けて行った。
颯はそんな芽榴の後を追いかけない。
視線ですら、その後を追わない。
追いかけられるわけがなかった。最後に見た芽榴の顔は涙で濡れていて、芽榴にあんな顔をさせたのは誰のせいでもなく颯だから。
こんな形で想いを伝えたくなんかなかった。
電柱を殴ると、颯の左手には鈍い痛みが走った。どうしようもない後悔の渦を颯は痛みで埋めようとしていた。自分の手が赤く腫れていくことも、どうでもよかった。
「……忘れたいに決まってるよ。僕の想いなんて……君を傷つけるだけなんだから」
もれた声は切なくて、紡がれた言葉は悲しい。
颯の「好き」という気持ちはこんなにも溢れているのに、芽榴にうまく伝えることすらきなかった。
そうして不器用な想いはガラスのように脆く壊れた。
「重荷になんてなるわけないのに……どうして伝わらないかな」
目を伏せ、颯は自嘲気味につぶやく。
全部が空回りして、すれ違ってしまった心は、行き場をなくして彷徨うことしかできなかった。
ガチャ
楠原家の扉が開く。いつも芽榴が帰ってくる時間よりは少し遅い。真理子はいつもと同じように芽榴を迎え入れるため、パタパタとスリッパの音を立てて玄関先にやってきた。
「芽榴ちゃん、おかえりー! 夕飯はもう少しで重治さんが作り終わ……」
「ごめんね、お母さん。ご飯はあとでいーや」
真理子の楽しげな声にかぶせて、芽榴は淡々と言葉を並べる。いつもの自分らしいのんびりとした声音で言ってみたのに、声が震えてしまう。
「芽榴ちゃん?」
やはり真理子は芽榴の様子がおかしいことに気づく。不思議そうな顔で、真理子は下を向いてる芽榴の顔を覗き込もうとしていた。
けれど芽榴は真理子にも誰にも、今の自分の顔を見られたくなくて、靴を脱ぎ捨てると俯いたまま部屋へと続く階段を駆け上がった。
バンッ
部屋の明かりをつけ、扉を閉める。自分一人だけの空間が出来上がると、途端に肩の力が全部抜けていった。
「……っ、はあ」
ゆっくりと息を吐きながら、芽榴は扉に背を預けてズルズルと座り込んだ。フローリングがひんやりと冷たい。心地よい冷たさと感じてしまうほど、芽榴の体は熱くなっていた。
「うっ、ふ……ぅ」
堪えているのに嗚咽がもれる。芽榴は顔を両手で覆って、頬をつたう涙を拭った。涙なんて滅多に流すことはないのに今は全然止まらなかった。
それくらい悲しくて、辛くて、颯の顔を思い出すと、それだけで涙はどんどん溢れてくる。
颯のことは大好きだった。すごく信頼していて、だからこんなことで気まずくなんてなりたくない。
「……いやだよ、神代くん」
そんなことを言ったって、芽榴の声は颯には届かない。颯との間に、埋まらない距離ができたことだけは確かだった。
――好きだよ――
頭の中で颯の声がする。その言葉をきっと颯は何度も芽榴に伝えようとしていた。その言葉の意味も、全部。
颯はずっと芽榴への気持ちを誤魔化してきた。そう思い込んで、決めつけて、本当は全部芽榴がそうさせたのだ。颯に嘘をつかせたのは、芽榴だった。
「……私の、せいだったね」
颯の優しさに甘えるだけ甘えて、自分が返せるものが何もない。颯を失いたくないとは思うのに、自分の気持ちは何一つ見えなかった。
指先で触れた唇には、颯の熱が今もまだ残っていて、涙はどんどん溢れていく。
「……神代くん」
初めてのキスは、涙で濡れて苦しかった。




