#03
松田先生との話も終わり、芽榴はそのまま生徒会室に直行する。生徒会室には颯と有利がいた。どうやら芽榴よりも先に颯の話のほうが早く終わっていたらしい。
「楠原さん、お疲れ様です」
「おつかれー。ごめんね、先生の書類不備があって遅くなっちゃったー」
芽榴は有利の目の前の席に座りながら、芽榴は困り顔で笑う。
資料室では必要書類とその説明を受け取るだけだったのだが、松田先生が「書類が足りない!」と慌て始め、結局職員室まで書類を探しにいく羽目になったのだ。
「大変でしたね」
「もう慣れたよー。にしても今日人少ないね。あ、委員会かー?」
遅れてきたというのに、生徒会室には颯と有利しかいない。芽榴がそう尋ねると、会長席の颯が「そうだよ」と静かに答えた。
「翔太郎と来羅が委員会担当。で、風雅は……補習」
真っ黒なオーラで颯が風雅の補習を知らせてくる。芽榴は顔を青くし、有利は平静の顔でそれを聞く。今朝芽榴だけに風雅の補習通告をしたときとは放つオーラがまったく違った。
昼に風雅と翔太郎が言っていたことの意味をなんとなく理解して、芽榴は苦笑する。
「でも確か最近、蓮月くんは楠原さんのクラスで勉強してるんですよね?」
「うん。ちゃんと勉強してるよー。だから次のテストでは成果が出るんじゃないかなー」
芽榴がそう言うと、颯も有利もうんうんと頷いていた。芽榴が教えるとなれば、風雅の気合いの入り方も違う。
「あいつのそういう単純さは、羨ましいところだよ」
颯はそう言って視線を机の上の書類に向けた。その言葉はよく聞くものなのに、なぜか芽榴には自嘲気味に聞こえた。
「楠原さん?」
ボーッと会長席を見つめる芽榴に、有利がほんの少し不思議そうな顔をして呼びかける。芽榴は手放しかけていた意識を掴み直してアハハと笑った。
しばらくして仕事にひと段落つくと、有利が書類の山を持ち上げた。華奢な体つきなのに、軽々と本やファイルの山を持ち上げる動作は何度見ても違和感がある。
「じゃあ、僕はこれ提出してきますね」
「ああ。頼むよ」
「いってらっしゃーい」
芽榴は颯と2人で有利を見送る。
有利が持って行った書類は各学年棟の職員室に持っていかなければならないため、有利が帰ってくるには少し時間がかかるだろう。
有利が出歩いているあいだにある程度仕事を済ませようと、芽榴はペンを滑らせた。
「あれ……」
計算機を打っている途中で、芽榴は書類と睨めっこしながら首をかしげる。書類に書いてある会計の金額があわず、芽榴はもう一度計算機を叩くがやはり合わない。暗算でももちろん合わなかった。
ごく稀にある不備書類を持って芽榴は会長席へと歩み寄った。
「神代くん。この会計、間違ってる」
「ああ、了解。不備書類なんて久しぶりだね。あとで事務室に確認しにいくよ」
颯は「ありがとう」と言ってそれを受け取る。そして会長席横のプリンターのほうをボーッと眺めた。おそらく今はUSBに入ってるデータを印刷しているところだ。
普段の颯なら印刷しているあいだにも他の仕事に手をつけているはずなのだが、やはりいつもと様子の違う颯が気になった。
「ん、どうかした?」
会長席の前に立ったままでいる芽榴に、颯は首をかしげて尋ねてくる。優しい顔で尋ねられて、芽榴は「うん……」とぎこちなく返事をした。
「本当に、大丈夫? 体調」
「そんなに具合悪そうに見える?」
芽榴の質問に颯は薄く笑って、質問で返してきた。
「悪そうっていうか……その……」
芽榴は続きの言葉を躊躇っていた。聞きたいことはもう決まってる。松田先生から聞いた颯の現状はどう考えても颯らしくない。でもなぜか、それを直球で聞くことはできない。
言葉を選んでいる芽榴を見て、颯は伏し目がちに笑った。
「芽榴が心配してるのは……僕の成績のこと、かな?」
言い当てられて芽榴は顔を上げる。すると見事に颯の視線と交差した。それだけで颯は芽榴の肯定を受け取っていた。
「生徒指導室に入るの、見たんだろう?」
「なんで……」
「芽榴が廊下に来たの見えてた」
そこから芽榴が松田先生から事情を聞いたところまで颯はすでに察していた。本当にすごい人だと思う。でもそのすごささえ、今は曇っていた。
「ただのケアレスミスだよ」
「……ただの、ね」
それは誰にでもあるミス。でも颯だからこそ、そのミスは「ただの」という言葉では済まない。それを颯自身が一番分かっているはずなのに誤魔化そうとしているのが、芽榴の心に引っかかって抜けない。
「僕もちゃんと人間だったってことだよ」
颯はその話を早々に終わらせようとしていた。終わらせるように呟いた次の言葉は颯にとっても芽榴にとっても地雷に近かった。
「大丈夫。次の定期テストで君に負けるようなことには――」
――ならない。そう言おうとして颯は言葉をやめていた。次のテストは2月の終わりにある期末テスト。それは実質芽榴がこの学園で最後に受けるテストだ。
最後、という話題に触れない。それが修学旅行が明けてからの生徒会役員の暗黙の了解だった。それを考えると自然にすべてが暗くなるから。
現に、今の颯と芽榴のあいだに漂う空気は静けさの中に気まずさしかなかった。
「君の前でこんな情けない姿は晒したくないんだけどな」
颯は机に肘をついて顔を覆う。疲れと苛立ち、いろんなものを隠すように颯は自らの顔を芽榴の視界から隠した。
「神代くん……。ねえ、本当に大丈――」
芽榴は颯を心配するように手を伸ばす。颯の腕に触れようとした芽榴の手は、逆に颯によって掴みとられていた。
「大丈夫じゃないって言ったら……君は僕のそばにいてくれる?」
その声は静かな生徒会室に大きく木霊する。颯のいう「そばにいる」がどういう意味なのか芽榴には推し量れない。物理的な意味か、あるいは精神論的な意味か。
颯は一度隠したはずの顔を、再び芽榴の前にさらす。その瞳は熱を帯びていて、すがるような視線から芽榴は目をそらせない。
芽榴の口から声は出ない。言葉だって思い浮かばない。下手な肯定も否定も颯は求めていない気がしていた。
「……なんてね。言ってみただけだよ」
ゴクリと芽榴が唾を飲み込んだのを見て、颯は諦めるようにそう言った。
きっと今のは本当に颯の冗談なのだろう。でも冗談だというのに、颯の顔はとても切なくて寂しい。颯にそんな顔をしてほしくなんかない。
そう思っても芽榴に言える言葉は少ない。何を言っても綺麗ごとにしかならない気はしていた。
「神代くんは、いつだって自分でなんとかできる人だよ」
それでもそんなことを口にしたのは、自分の言葉で少しでも颯の気持ちが落ち着けばいいと思ったから。でも所詮それは自惚れにすぎない。
「そうかな。まあ……そうかもね」
颯は自嘲気味に笑う。芽榴の言葉は優しかった。けれど同時に言い残すような、投げやりなものでもあった。
「僕が大丈夫じゃなくても、芽榴には関係ないしね」
颯の手が芽榴から離れる。その言葉を聞いた芽榴は目を丸くして固まっていた。
修学旅行の最後の夜「何も変わらない」とみんなで笑いあった。その言葉が芽榴の頭をよぎる。よぎって、芽榴の頭の中で音を立てて壊れた。
「なんで……関係ないの?」
芽榴の小さな声に颯はハッとした顔をしていた。その反応で今の言葉が口から思わず出てしまっただけのものだということは分かる。でもだからこそ、それが颯の本心なのだということも。颯が弁解しないのが芽榴の考えのすべてを肯定していた。
「さっきのプリント貸して。私が持ってく」
芽榴は颯に渡した不備書類をほぼ無理やりに奪った。あからさまではないけれど、芽榴の怒りは溢れている。あからさまではない分、余計に溢れている気がした。
「芽榴、待って」
「いや」
芽榴は颯に背を向けて、静かに拒絶する。怒りの震えも悲しみの震えもない。芽榴の声は嫌になるくらい綺麗だった。
「今の神代くんと、話すことなんてない」
芽榴はそう言って生徒会室を出て行く。扉が閉まる音はまるで芽榴と颯の距離を表すみたいに重く響いていた。




