#02
「――原、楠原。聞いてるのか」
少し不機嫌なその声で、芽榴は手放していた意識を戻す。ハッとした顔で前を見ると、ムスッとした顔の翔太郎が立っていた。
今は昼休みで、翔太郎はいつかのときと同様、F組の委員長に渡してほしいと芽榴に資料を持ってきていたのだ。「いい加減委員長にくらい渡せるようになればー」などと話していた途中だった。
「いきなりボーッとするな。俺が1人で喋っているみたいだろう」
「あはは、ごめんねー」
芽榴は頭を掻きながら、翔太郎から資料を受け取った。残り一言二言の文句を言い終えると、翔太郎は次に芽榴の隣の席に視線を向けた。
「で、貴様はわざわざ上の階にまで来て何をしている。蓮月」
翔太郎は眼鏡のブリッジを押さえ、心底呆れるような顔で風雅を見ていた。
最近の昼休みはいつもF組に風雅がいる。といっても、芽榴にラブアタックをしているのではなく、芽榴の隣の席で勉強しているのだ。ちなみに芽榴の隣の席の女子は「風雅くん、ぜひ座って!」と喜んで席を提供している。
「何って勉強だよ!」
風雅は「心外な!」とでも言いたげにドーンと翔太郎の前に参考書を見せた。そのページは今度全クラスである英語の小テストの範囲だった。
「自分のクラスでできないのか」
「だってここだったら、芽榴ちゃんと、植村さんまで教えてくれるから!」
風雅はそう言って現在風雅の前の席に座って、英語の指導をしている舞子を指差した。舞子としては学年一のイケメンに勉強を教えられるなら役得だ、という考えだ。
もちろん風雅が勉強を名目にして、四六時中芽榴と一緒にいようとしていることくらい、誰もが分かるのだが。
ちゃんと勉強しているのだから、特に咎める必要もない。
「まー、いい傾向じゃん。ちゃんと勉強してるから」
芽榴が翔太郎をなだめるようにそう言うと、翔太郎は限りなく目を細めた。そして「貴様は甘い」だの「だから蓮月が調子にのる」などのお説教が始まり、芽榴は耳を塞いだ。
「ちょっと、翔太郎クン! 芽榴ちゃん怒らないでよ!」
「うるさい! 貴様が馬鹿なのが一番悪い!」
「だからバカ脱出しようとしてるんじゃん!」
今度は風雅と翔太郎がギャーギャー騒ぎ始める。「喧嘩するほど仲がいい」と言うがまさにそんな感じだろう、と2人のことを見ながら芽榴はうんうんと頷いた。
「それに、勉強するのは当然だ。この状況で貴様が勉強しないのなら、俺はその根性にある種尊敬するぞ」
翔太郎が風雅との口論に疲れたのか、ため息を吐きながら小さな声でそう言う。すると風雅も途端に顔を青くして「ハハハ」と笑った。
「この状況?」
芽榴が首をかしげると、翔太郎がうんざりした顔になった。
「神代だ。今回は異常にピリピリしてるぞ」
翔太郎がそう言い、芽榴は「あー…」と声をもらして視線を落とした。さっきもボーッとする前に翔太郎との話の流れで颯の名前があがったのだ。
今朝の颯の様子が気になってそれを考えていたら翔太郎の話が耳に入ってこなくなっていた。
「私はあんまりピリピリしてるって感じなかったけど……」
「貴様の前では取り繕ってるからな。……いつものことだが」
翔太郎は半目で言った。芽榴の前と役員の前とで、颯の態度がだいぶ違う、というのは芽榴も分かっている。でもそれはあくまで芽榴が女の子であり、その分の贔屓に過ぎないと芽榴は思うのだ。
「颯クンの機嫌が悪いのはオレの成績だけの問題じゃないと思うんだけど……」
風雅はシャーペンをくるくる回しながら唇を尖らせて言う。翔太郎もそれには納得しているみたいで「だから神代の逆鱗に触れるようなことをするな」と眼鏡を押さえながら付け加えた。
「寝不足って言ってたから、それが原因かもねー」
芽榴が苦笑まじりに言うと、風雅と翔太郎の視線が交差した。そして2人で何かを察したように、深く息を吐く。
「「寝不足……か」」
2人とも同じタイミングでそう言い、見事にハモった。今度はそれに苛立ったらしい翔太郎が、風雅に「真似するな」などと無茶な文句を言って怒り始めた。
2人の反応に少しの疑問はあったけれど、芽榴は翔太郎と風雅の口論をなだめるのに夢中で、そのことを考えるのをやめていた。
放課後になり、芽榴は社会科資料室へと向かう。留学の件でいろいろ手続きの話があるということで、ホームルームの後そこに来るよう松田先生から言われていたのだ。
「資料室に行くのも慣れたなー……」
芽榴はそう呟きながら階段を上る。松田先生のパシリになってからというもの、資料室に行くのは恒例になっていた。嫌々ながらに上っていた頃は足が重かったのに、今はその足取りも軽い。
そんな些細な変化すら今はしみじみと感じてしまう。芽榴は敏感になり始めた自分に苦笑しつつ、階段を上り終えた。
「神代です。失礼します」
上り終えた廊下の先で芽榴は颯の姿を見つける。資料室のさらに奥の部屋をノックして颯はその中に入っていった。
そこは生徒指導室。その部屋に呼び出されるのは、だいたい成績不振者だったり、素行が悪かったりする生徒だ。
だからその部屋と颯が結びつかなくて、芽榴は少し驚いた顔をしていた。
「失礼します、楠原です」
生徒指導室のほうを眺めながら、芽榴はその手前にある資料室の戸をノックした。中から松田先生の「入れー」という声がして、芽榴はゆっくりと資料室の扉を開けた。
「すまん。昼休みに呼び出そうと思っていたんだが、いろいろ資料を整理するのに手こずった」
「ははっ、先生なら資料整理を私に手伝わせそうなのにー」
芽榴が冗談っぽく笑って言うと、松田先生が「その手があったんだった!」と本当に悔しそうに叫んだ。どうやら芽榴をパシリにするという考えを忘れていただけで、覚えていたら芽榴を使っていたらしい。
「先生……」
「それより、座れ。お前も生徒会の仕事があるんだろ?」
先生にそう言われ、芽榴は「はい」と返事をして先生の前の席に座る。机の上には社会科の資料がたくさん置いてあって、肝心な芽榴に渡す書類を置くスペースが小さかった。
「ああっ、この資料が邪魔だ! 生徒指導室が使えたらよかったのに!」
松田先生は資料の山を押しのけながら文句を言う。ただでさえぐちゃぐちゃな資料の山にさらに資料を重ね、汚さが倍増した。
松田先生の発言で、先ほど生徒指導室に入った人物のことを思い出し、芽榴は自然とそのことを松田先生に尋ねていた。
「今生徒指導室にいるの、神代くんですよね? あの人、何かしたんですか?」
まさか、とは思いつつ、芽榴はそんなふうに質問する。颯に限って生徒指導行きになるようなことをするとは思えなかった。
「ああ……。まあ、たいしたことはないんだがな」
予想外に肯定されて、芽榴は目を丸くした。芽榴の驚いた顔を見て、松田先生は落ち着かせるように「大事ではない」と急いで付け加えた。
「神代が、ここ2回の小テストでどっちも満点じゃなかったんだ」
「え」
颯といえば、小テストどころかあらゆるテストで満点をとる人だ。その彼が1回ならともかく2回連続で満点を取り逃がすならそれは少し気になるところだ。
「満点じゃないと言っても、9割はとってるから全然生徒指導の対象じゃないんだが……他でもない神代だからな。念のために話でも聞いておこう、と中井先生が呼び出したらしい」
松田先生自身、たいして心配してる様子もない。小テストとはいえ、麗龍の問題は常に難しい。補習組の小テストは簡単でも普通の小テストは難問が多いのだ。だから満点をとれないのが普通といえば普通。芽榴と颯が異常な部類なだけだ。
「そう、ですか」
でもトップであることへの執着が薄れたとはいえ、颯が何の理由もなく満点を逃すとは思えない。
本当に体調が悪いのではないか。様子のおかしい颯のことが心配で、芽榴は松田先生の話にほとんど集中することができなかった。




