#01
修学旅行から帰ってきて、いつも通りの日常が始まる。もうすぐ高3。もうじき受験生となる彼らにはその圧力がかかり始めるものの、特に何かが変わるわけでもない。
ただ一つ、変わることは芽榴がもうすぐいなくなるということだけ。
もうすぐ1月も終わる。空気の寒さはピークを迎えていて、朝の冷気は特に鋭い。
神代颯は、たった1人で住むマンションの一室で霜の張る窓を見つめ、温かいコーヒーを飲んでいた。カップからあがる白い湯気がその寒さを顕著に表していた。
しばらく颯が窓を見つめていると、パソコンから小さな音が鳴る。メールの受信音を聞いて、颯はコーヒーを持ったままパソコンの前の椅子に腰掛けた。マウスをダブルクリックし、メールを開くと、予想通りと言うべきか、叔母からのメールだった。
修学旅行が終わっても、颯はしばらく叔母にメールを送っていなかった。送らなければならないとは思っていたのだが、あまり文章が浮かばなかったのだ。いつもなら特に考えなくても叔母を安心させられる文章を書けるのに。
「……さすがに返信はしないといけない、か」
颯は小さく溜息を吐いて、パソコンのキーボードを打った。いつもの倍以上の時間をかけて、颯は叔母へメールを返信する。いつもはこんなことで疲れることもなかったのに、そんなことを思いながら颯は椅子に深く座り込んで背を預けた。
修学旅行が終わってからというもの、何もかもうまくいかない。修学旅行の浮かれ気分が抜けているとか、そういう意味ではないのだ。
「アメリカ、か……」
パソコンの隣に飾っているのは文化祭の写真。自分の隣に写る芽榴の姿を見て、颯は目を細める。
こんなに近くにいても、近くで笑っていても、心の距離は芽榴の隣とは程遠いところにあった。
けれど今までは、形だけでも芽榴の隣にいられたから、颯はそれでよかった。気持ちを誤魔化し続けられたのも、芽榴の隣にいられるという、そんな甘えがあったからに過ぎない。
でももう少し経てばそれすら叶わなくなる。
なんとなく芽榴が遠くに行くことは分かっていた。新学期が始まって、芽榴の様子がおかしくなって、時を惜しむような彼女の顔から、それくらいのことは予測できた。
「……こんなふうに君の隣にいることさえ、できなくなるんだね」
呟いた颯は寂しそうに目を伏せた。
「いってきまーす」
朝、いつもの時間に芽榴は家を出て行く。芽榴が笑顔で家を出て行くと、真理子が玄関に走ってやってきて「いってらっしゃーい」と手を振ってくれる。
「芽榴姉、待って! 俺も行く!」
玄関を出た芽榴を追いかけるようにして、圭が慌ただしく玄関を出てきた。
「ちゃんと待ってるから、ゆっくり靴履きなよー」
靴を履きながら芽榴の元に走り寄る圭に、芽榴は苦笑しながらそう言う。すると圭は「ありがと」と言って、その場にしゃがみこんでしっかりスニーカーを履き始めた。
圭との登校距離は長くもない。けれど圭は必ず時間があえば、芽榴と一緒に登校しようとしてくれる。
いつも圭が話題を作ってくれるため、圭と登校する日は芽榴も楽しい。
「あ、そういえば……芽榴姉、最近家帰るの遅いんだろ?」
話の途中で、圭がふと思い出したようにそう尋ねる。すると、芽榴は「あー……うん」と少し考えてから肯定した。
「生徒会の仕事最後までやってるから」
いつもは夕飯の支度で生徒会の仕事を終わらせてから、途中帰宅をしている。でも今は重治と真理子が家事の練習をするということで、生徒会の仕事を最終下校時刻までしているのだ。遅いといっても、圭が部活を終えて帰ってくる頃には家に入るため、圭は芽榴の帰りが遅くなったことを昨日真理子から聞いて知ったのだ。
「じゃあ部活終わった後、俺迎え行くよ」
「ははっ。家通りすぎてこっちまでくるとか疲れるでしょー?」
「何言ってんの。余裕」
圭は爽やかに笑って芽榴を見下ろしてくる。きっとこういうところがモテるのだろうな、と思いながら芽榴は首を横に振った。
「大丈夫。いつも誰かが送ってくれるから」
「……役員さん?」
「うん。いいって言ってるんだけどねー」
芽榴が言う隣で、圭は目を細める。芽榴が首をかしげると、圭は「なんでも」と首を横に振った。
「夜道を1人で帰るのは危ないし。役員さんが送ってくれるならそれに越したことないよ」
「圭も女の子送ったりするんだ?」
「……俺のことはいいの」
圭は芽榴の顔をグイッと手で押して、拗ねたように言う。芽榴はそんな圭のかわいい反応にカラカラと楽しげな笑い声をあげるのだ。
圭と途中で別れ、芽榴は1人で学園までの道を歩く。すると学園の近くで見知った後ろ姿を見つけた。
「神代くん」
芽榴は少し駆け足で颯の横に並び、彼の肩をポンと叩いて「おはよー」とあいさつしながらふわりと笑った。
「……芽榴。おはよう」
芽榴に肩を叩かれ、颯は一瞬すごく驚いた顔をしていた。けれどすぐにニコリと笑顔を携えた。
「今日も寒いね」
「うん。お昼は暖かくなるかなー?」
白い息を吐きながら、2人でたわいもない話をする。天気のことや今日の授業のこと、特に話題にしなくてもいいことを話しながら麗龍の門をくぐっていた。
「日が落ちるのも早いし、できるだけ生徒会も早く終わらせたいんだけど」
「あの仕事量じゃそうはいかないよねー」
靴を履き替えて、芽榴と颯はまた合流する。今はちゃんと靴箱を使えている芽榴に、颯は少し安心したような顔をしていた。
「加えて、風雅は補習に引っかかってるらしいから、仕事分担を考えないと」
「あらら……。じゃあまたみんなでお勉強会?」
「それも視野にいれないとね。そしたら余計に早く切り上げるのは難しいし……どうしたものかな」
困ったような颯の顔を見て、芽榴は苦笑する。
颯の顔はいつも元気そうなわけでもないのだが、それにしても最近は少し血色が悪い気がしていた。そのせいで、冗談で見せてる困り顔さえ、本当に困っているように見えるのだ。
「はあぁ……」
今日会って、2度目の欠伸を颯がする。口を覆ってうつむきがちに、小さく息を吸い込んでいた。
「寝不足?」
芽榴がそんな颯の様子を見て、首をかしげた。颯のことだから普段も十分な睡眠はとっていない気もする。だからこそ颯が寝不足なら、ほとんど睡眠時間をとっていないのではないか、と芽榴は心配そうに颯を見上げた。
芽榴の心配そうな顔に、颯は苦笑する。
「最近、寝つけなくてね」
「……風邪、かなー?」
最近は特に冷気が鋭いため、学園でも風邪を引いてる人が多い。芽榴が颯の寝不足の原因を真剣に考えていると、颯が芽榴の頭をポンポンと優しく叩いた。
「……ありがと。でも大丈夫だよ」
その顔はとても優しくて、だから芽榴の心配も自然とやわらいでしまう。
「早く治さないとね。神代くんがダウンしたらみんな困っちゃう」
芽榴は特に何も考えることなく、いつもの芽榴らしく颯を気遣うような言葉をかける。けれどそれを聞いた颯は少しだけ目を見張っていて、芽榴はそれを不思議に思った。
変なことを言ってしまったのか、と芽榴が首をかしげる。すると、颯は感情の読めない顔で小さく口を開いた。
「……芽榴も、僕がいなかったら困る?」
その質問の意味は、まったく理解できなかった。颯はその答えなど聞かずとも分かっているはずだ。芽榴が「颯がいなくてもいい」なんて言うはずもない。
それを分かっていて、どうしてそんなことを聞くのか、芽榴には分からない。どうせまた颯流のからかいか何かかと思い、芽榴は肩を竦めた。
「当たり前でしょー」
芽榴が眉を下げる。すると颯の顔がほんの一瞬だけ憂いを帯びた気がした。でもそれは本当に気のせいと思わせるくらい一瞬のことで、颯はすぐに「嬉しいね」といつものように薄く笑った。
「神代くん?」
颯の様子が胸に引っかかってしまって、芽榴はもう一度首をかしげる。けれど颯は芽榴の疑問に答えようとはしなかった。
「じゃあ、また放課後」
そこは2階から3階にあがる階段のところで、A組は2階、F組は3階なのだからそこで颯と芽榴が別れるのは自然のこと。
「うん……。またね」
けれど、なぜか芽榴は颯がわざと芽榴との会話を切り上げたように思えてならなかった。




