232 動物園と迷子
あの後、有利としばらく一緒に過ごした芽榴は有利に部屋の前まで送ってもらい、先生に見つかることなく無事に部屋へと戻ってくることができた。
部屋に戻ると、班員から事情を聞いたのであろう舞子がすごく心配してくれた。
帰ってきた芽榴を見て、宮田あかりは複雑そうな顔をしていたけれど先生にバレてしまうほど騒いでしまったことに対し「ごめんね」と芽榴に謝ってきた。仕方のないことだったとはいえ、芽榴は有利と一緒に部屋を出て行ってしまった。そのことで宮田と気まずくなってしまうことを危惧していた芽榴は、そんな宮田の一言でだいぶ安心することができた。
宮田がいるということもあってか、その後も有利とどこで何をしていたのか、班員は誰も聞いてこなかった。少しばかり質問攻めにあうことを想像していた芽榴はホッと肩をなでおろし、その日は夜更かしもせずすぐに布団の中で眠りについた。
そんなこんなで3日目の夜は更けていき、修学旅行4日目の朝が訪れる。
起床時間までぐっすり眠った芽榴たちは、今日の観光場所へと向かうため朝から貸切バスに約2時間揺られた。そうしてバスがたどり着いたのは、旭川。
旭川で有名な観光スポットである動物園にて、芽榴は舞子たちとともに楽しい時間を開始する。
「うーっ、動物園の匂いがする」
入場してすぐに班員の1人が鼻を押さえて顔を顰めた。確かに動物園は独特な匂いがするし、決していい匂いとは言いがたいのだが、あからさまに嫌そうな顔をする班員を委員長がなだめた。
「そのうち慣れますよ」
「鼻曲がりそう……」
目の前で繰り広げられる会話を耳にしつつ、芽榴は手をこすり合わせ、ハーッと白い息を吐く。水色のマフラーと紺色のコートを着ているが、足や顔のように外気と触れる部分から徐々に熱が奪われていった。
「芽榴、寒い?」
隣を歩く舞子が芽榴のその仕草に気づいて、心配そうに尋ねてくる。舞子も似たような防寒着だが、彼女はそこまで寒くないらしい。
「うん、少し。歩いてたら温かくなると思うんだけど……」
「確かに。でも、冬の北海道で動物園なんて苦行よね。せめて、水族館とかにしてほしかったわ」
舞子はそんなふうにほんの少しの不満を口にした。舞子も寒いか寒くないかで言えば寒く、やはり動物を見るにしても室内のほうがいいらしい。
「水族館かー……」
舞子の発言で、芽榴は先日自分が水族館に行っていることを思い出す。いろいろあって遠い日のことのように思えるが、水族館に行ってからまだ1ヶ月も経ってないのだと芽榴はしみじみと実感していた。
「芽榴、どーかした?」
「ううん、何も。それよりあっち、キリンいるー」
芽榴は前方を指差し、軽い足取りで動物を見て回る。寒いけれど動物を見るのは嫌いじゃないため、芽榴は班員を連れて案内図を見ながらスタスタと歩みを進めていく。そんなふうに、ほんの少しだけはしゃいだ様子の芽榴を見て、舞子は笑っていた。
一方、園内の別区画――ペンギンたちが生息する館では、他から見たら「麗龍のベストカップル」と言っても過言ではない2人が歩いていた。
「ペンギンって可愛いわよねぇ。そう思わない? 翔ちゃん」
「歩き方が癇に触る」
翔太郎の腕を引きつつ来羅が問いかけると、翔太郎は眼鏡のブリッジを押し上げながら淡々と答える。
元々、来羅と翔太郎は動物園観光の班が同じではなかったのだが、ちょうど来羅の班の男子と翔太郎の班の男子が仲良しということもあって、合流して回ることになっていた。
「すごく可愛いのに。どうせ翔ちゃんは『可愛い』の感覚ないんでしょ」
「俺も人間だ。その感覚くらい少しはある」
「るーちゃんとか?」
ニヤリと笑みを浮かべて、来羅が言う。すると翔太郎は反射的にだろうか、来羅の頭を叩いた。
「いったぁい!」
「貴様のそういうところは蓮月よりも性質が悪い」
翔太郎はそんなふうに言って来羅を睨みつけるが、対する来羅はそれでもニコリと笑ったまま。翔太郎が怒っても否定しなかったことを楽しんでいるのだ。
翔太郎の鋭い視線を受けても心が折れないのは、およそ役員くらいだろう。そんなことを思いながら、来羅と翔太郎の班の男子たちは2人の会話を背後から聞いていた。
「葛城、いいなぁ……。柊さんの隣キープとか……」
「ずっと同じ班行動してるけど、柊さんが男だと思う瞬間ねぇわ。マジで惚れそう……」
来羅に可愛らしく腕を引かれる翔太郎に、班の男子たちは羨ましそうな視線を向けていた。
最後の言葉を放った男子に至っては、両手で顔を抑えて「落ち着け」と言わんばかりに左右に頭を振り続けている。多くの時間を過ごしていれば少しくらい「ああ、男なんだな」と思う瞬間がありそうなものだが、来羅に関してそれはない。
女装中は完璧だ。そこらの女子よりも女子らしい。
そんな来羅が言う「ペンギンが可愛い」という発言はやはりペンギンよりも何百倍可愛らしく、普通の男子には映るのだ。もちろん、そんな彼を独占している眼鏡男子はまったくそんなことを思ってはいないのだが。
「まあ、あいつもペンギンは可愛いと言っていたが……俺には分からん」
「え?」
翔太郎の発言に、来羅は一瞬不思議そうな顔をする。翔太郎の言う「あいつ」は1人しか考えられないが、彼女といつペンギンの話をしたのか。その理由を考え、来羅は「ははーん」と目を眇めて笑った。翔太郎はその顔ですぐに「しまった」と悟るのだが、もう遅い。
「動物園に来て、るーちゃんと一緒にいった水族館を思い出してるんだぁ?」
「別に……ふと思い出しただけだ」
「ふと、ねぇ……」
来羅はクスクスと笑っている。翔太郎はそんな来羅の笑いに文句を言おうとしたが、今は口を開くと余計なことを言って自分で自分の首を絞めてしまいそうなため、翔太郎は渋々口を噤む。
「あら、あそこ植村さんがいるわ。ってことは、るーちゃんも……」
ペンギン館から抜けるとすぐ、来羅は前方まっすぐを見て呟く。翔太郎も来羅が見ているほうに視線を向けるが、近くに麗龍の生徒はいない。遠く前方に女子の集団があるだけだ。しかし、顔まではっきりとは分からない。改めて翔太郎は来羅の視力のよさに感嘆する。
「あら? るーちゃんがいないわ」
「は?」
来羅が不思議そうに呟く。来羅のことだから、芽榴のことを見落とすわけもない。芽榴は舞子とすべて同じ班のはずで、班行動をしている今、舞子と一緒にいるのが妥当だ。
「もしかして……また誰かに捕まったかな」
来羅が目を細め、ぷーっと頬を膨らませる。翔太郎はすぐには来羅の言葉の意味が分からず、分かった時にはすでに足を動かしていた。
「翔ちゃん?」
「おい、葛城。どこ行くんだよ」
翔太郎は来羅や他の班の人の疑問の声には答えない。スタスタとまっすぐ歩いて、気づけば舞子たち女子班のところまでやってきていた。
「おい。楠原はどうした」
「え、あ、うわっ、葛城くん?」
話しかけられた舞子は驚いていた。それもそのはず。翔太郎は今の今まで遠くに立っていて、彼女からしてみればいつのまにか背後に現れたようなものだ。加えて女子嫌いで有名な翔太郎が声をかけてきたとなれば驚くのも無理はない。
舞子や他の女子が挙動不審になっているあいだに、来羅も翔太郎を追いかけてその場にやってきていた。
「るーちゃん、どうかしたの? 他の人と回ってるとか?」
翔太郎の問い方では不安だったのか、来羅が彼らしい言葉でもう一度舞子に尋ね直す。すると、舞子はどこか安心したような、けれどやはり焦ったような顔で首を横に振った。
「それが、今さっきはぐれちゃって……」
「え?」
まさかの返事に来羅は間抜けな声を出す。翔太郎も驚いて眉をあげた。舞子いわく、先ほど猛獣館を出たら芽榴がいなくなっていたのだと言う。入るまでは一緒だったのに、気づいたらいなかったと。
「他の人と一緒なら、その人にスマホ借りて連絡してくると思うんだけど……それもないからまだ1人なのかなって、あ、葛城くん!?」
舞子がそこまで言うと、翔太郎は何の返事もなく走り始めていて、舞子の声などもう彼には届かない。
まさか翔太郎がそんな行動に出るとは思っておらず、来羅は少し面食らって反応が遅れる。そして自分も芽榴を探しに行こうとするのだが、それを同じ班の男子に止められた。
「柊さんまでいなくなったら、俺らの班行動めちゃくちゃだって!」
「葛城なら、後で合流すればいいし!」
男子がそう言って必死な様子で来羅の腕を掴む。もはや来羅からしてみれば1人消えても2人消えても同じような気がしてならないのだが。
けれどこれ以上班行動を乱すわけにもいかず、何しろ男子が来羅の腕を離してくれそうにない。
「今日は私がるーちゃんをさらう予定だったのに……」
来羅は視線を地面へとそらし、低い声でボソリと呟く。目の前にいる舞子にはそれが聞こえたらしく「え」と驚いた顔をしていた。しかし、来羅はそんなことも気にしない。
「……この格好じゃ、るーちゃんを捕まえられないってことか」
来羅はスカートの裾を掴んで、大きな溜息を吐いた。




