225 暗示と白紙
3日目の朝がくる。
むくりと布団から起き上がり、周囲を見渡すも芽榴以外の班員は徹夜話の疲れでいまだ気持ちよさそうに眠っていた。この分ではおそらく修学旅行の残りの日もすべてこんなふうに過ぎて行くことだろう。
芽榴はそんなことを思いながら洗面道具を持って部屋を出て行く。残り少しの時間くらいみんなにちゃんと眠ってほしくて、芽榴は明かりを落として部屋を後にした。
「今日は、研修班で小樽観光かー」
顔を洗って、今日の日程を頭に浮かべる。けれどそのことに関してはそれ以上考えることが何もない。することも考えることもなく、芽榴は完全に手持ち無沙汰になってしまった。
明かりを落としているため、部屋にはしばらく戻れない。だからなんとかして起床時間までの時間を潰さなければならない。
「……広間でお茶でも飲もーかな」
広間にやってきた芽榴はその場に用意されている湯呑みを持って、急須の在り処を探す。すると、ポットの近くに急須を持って佇んでいる先約が目に映った。
「……あ」
少し暗めの明かりで、髪の毛が赤みを帯びる。
――好きな子には……――
そこに立つのは芽榴が今あまり顔を合わせたくない人物――颯だった。芽榴はふと思い出した情景を頭から振り払う。
しかし彼にしては珍しく、芽榴が広間に足を踏み入れたことにも気づいていないらしい。ボーッと茶葉を急須の中に放り込んでいるようだが、その様子は少しばかり――否、かなりおかしい。
踵を返そうとした芽榴だが、そんな颯の様子が気になってそのまま足を前へと進めていた。
「神代くん」
静かに颯の背後から芽榴はそう呼びかける。おどかすつもりもない、本当に静かな声かけだったのに、颯の肩は大げさなほどにビクリと跳ねた。
「……っ、芽、榴」
「びっくりしたー……」
大きな目をもっと大きく開いて、芽榴はそんな反応を返す。颯以上に、颯の反応を受けた芽榴のほうが驚いていた。
「芽榴。どうしたの……。まだ起床時間には早いよ」
「神代くんこそ。それより……」
芽榴は颯の手にする急須の中を覗き込んで軽く指摘するようにして口を開いた。
「そんな苦そーなお茶飲むの?」
芽榴がそう言うと、颯は「え?」と小さく声をもらし、急須の中に視線を向ける。先ほどからずっと見ていたはずの急須の中を見て、颯はギョッと目を丸くした。
どう考えても美味しいと感じる茶葉の量ではない。お湯を注ぐ前だったのが幸いだ。
「……何してるんだろうね、僕は」
颯は額に手をあてる。一昨年の夜から、颯はこんなミスばかり続けている。豆腐は醤油の海に沈め、昨日の自由行動ではボーッとしすぎて班員に心配され通し、今日は出だしからこれだ。
「急須貸して?」
「え」
「私もお茶飲みたいし、私がお茶淹れるから神代くんは座ってて」
颯の不審な行動の原因が自分にあると知らぬまま、芽榴は颯の手から急須を奪い、そつない動作で美味しい茶を淹れ始めた。
2人で向かい合うようにして席につき、芽榴は颯の分の湯呑みにも茶を注いで彼の目の前に置いた。
「ありがとう」
「うん。……でも、珍しいね。神代くんがボーッとしてるの」
芽榴がそう言うと、颯は少し困ったように頬をかいて「いつもはね……」と苦笑まじりに答えていた。
「ここ2日くらい、こんな調子が続いてて、僕自身戸惑ってるよ」
肩を竦めながら颯は湯呑みに口をつける。お茶が美味しかったのか、ただ茶の温もりが心地よかっただけなのか、いずれにせよ先ほどより颯の顔色がよくなったのを芽榴は感じた。
「……えっと、熱でもある、とか?」
沈黙が訪れないように、芽榴は慌てて繋がる会話を見つける。けれど芽榴のその問いに颯は「ないよ」と即答してしまった。
再び訪れる沈黙も、もう芽榴には破ることができない。
「……えっと……」
視線を彷徨わせ、芽榴は会話を見つけようとする。颯と2人でいるときの沈黙は珍しいことではない。だから普段の芽榴ならこれくらいの沈黙を気にすることは絶対になかった。
それを察したのか、颯はどこか困ったようにクスリと笑った。
「なんで笑うの……」
「え? ああ、まあその、なんていうか……らしくないのは僕だけじゃないみたいで、少し安心した、からかな」
颯は頬杖をついて芽榴の顔を正面から見つめる。整った顔立ちにジッと見つめられ、芽榴は思わず視線をそらしてしまった。
ただ、芽榴が芽榴らしくない行動をとってしまうのは一昨日の颯の発言のせいだ。それを指して颯が「僕だけじゃない」と言っているなら、颯も一昨日の発言を気にしていることになる。そのことに気がついて、芽榴は颯から視線をそらしたまま口を開いた。
「神代くんは……どういうつもりであんなこと言ったの」
「あんなこと?」
颯はニッコリ笑顔で尋ね返す。どこかワザとらしい颯の態度に芽榴は恨めしげに頬を膨らませた。そんな芽榴の反応を颯は楽しげに、けれどどこか儚げな様子で見つめた。
「じゃあ……逆に聞いてもいいかな?」
静かな颯の声はなぜだか芽榴の姿を求めているように聞こえて、芽榴はゆっくりと顔をあげる。視線が交差すると、颯の姿はより一層寂しげに見えた。
「……芽榴は僕の『好き』にどういう意味があると思ったの?」
颯の質問に芽榴は瞠目する。すぐにその問いに答えることができなかったのは、答えが分からないからでもなく、答えが恥ずかしいからでもなく、颯が言わんとしていることを分かってしまったから。
「……そう、だよね」
芽榴はゆっくりと口を開き、緊迫感で怒ってしまった肩を撫で下ろした。
「神代くんにとって蓮月くんも来羅ちゃんも、役員みんな『好きな子』だもんね」
自分もその括りの一人で、『たった一人の特別な存在』と言うわけではない。そんなふうにして颯に確認を取る芽榴は『そうであってほしい』と願っているようにも見えた。
「その通り」
颯はその願いをくむように、何の躊躇もなく肯定の言葉を残した。
「……僕は風雅も来羅も、有利も翔太郎も……大切だから、誰も失いたくないんだ」
颯は視線を微かに落としたまま自嘲気味に笑う。けれど芽榴はそんな颯の笑みに気づかないまま、優しく颯に微笑んだ。
「分かってるよ。神代くんが、みんなのこと大事にしてることくらい。実際、神代くんのそーいう優しさに私は何度も助けられてる」
芽榴はそう言って、やっと彼女らしい落ち着いた様子で茶を飲み始めた。颯の残した謎めいた言葉の重みが心から抜け落ちて、芽榴は再びいつもの穏やかな様子で颯の前に居座る。
「……そう」
颯は淡々と相槌をうつと、芽榴の淹れたお茶を一気に口の中に流し込んだ。
「神代くん?」
「お茶ありがとう。まだ時間もあるし、僕はもう一眠りするよ」
颯は優しく笑って、芽榴の頭をポンポンと撫でる。頭上にのる颯の大きな手はやはり芽榴の心を落ち着かせてくれた。
「そっか。寝坊しないよーにね」
「誰に言ってるの、それ」
不敵に笑い、颯は今度こそ「じゃあね」と別れの挨拶を告げて広間から出て行った。
颯がいなくなるのを確認し、芽榴は再び颯の消えた目の前の席を見つめる。まだ茶が残っている急須とその席に視線を交互に向け、芽榴は寂しげに目を細めた。
「……お茶、淹れすぎちゃった」
自分の湯のみにお代わりの茶を注ぎながら、芽榴は感じたことのない急須の重みを味わっていた。
部屋の前までたどり着いた颯は部屋の戸を開けず、その代わりに目の前の戸に力なく拳をぶつけてみせた。
「逃げなきゃ自分らしくいられないなんて……本当に滑稽な話だね」
芽榴に思わず『好き』という気持ちを伝えてしまった。芽榴がどう受け取ろうとも颯の中でその事実は変わらない。けれどそのことばかり考えて何も手に付かなくなって、颯は颯らしくなくなってしまった。
だから芽榴が気づきかけた自分の想いを白紙に戻して、そうしたら元の自分を取り戻した。
「臆病を全部あいつらのせいにしてる僕の、何が優しいって言うんだろうね……」
颯は戸に押し付けた拳に自らの額をのせる。ヒンヤリとした手を握りしめて、颯はハハッと乾いた笑いをこぼした。
「でも、いくら僕が臆病で嘘つきでも……あそこまでホッとした顔されたら……結構こたえるよ……」
颯が『好き』という言葉を放棄したときの、芽榴の安心した顔が頭から離れない。
そうなることを願って吐いた嘘なのに、これでよかったとも思うのに、結局後悔しか残らない。そんな自分を、颯は愚かだと言ってまた嘲笑った。




