222 ココアとアイコ
聖夜と2人でたわいない会話を繰り広げていると、聖夜のスマホが着信を告げた。
「……仕事の電話や。ちょっと外すな」
「はい」
聖夜は面倒そうにスマホの画面に発信者を確認し、奥の人気のない廊下へと足を進めた。
一人になった芽榴はとりあえず、近くにあるソファーに腰掛け、ボーッと正面を眺める。すると突然、頬に生暖かい感触が触れた。
「…っ!?」
驚いて芽榴は即座に顔を離す。すると、芽榴の座るソファーの後ろに慎が立っていたことが分かった。
「簑原さん、驚かさないでください」
「うわ、ひっでぇの。ココア買ってきてやったのに」
そう言って慎は、先ほど芽榴の頬に押し付けたココアのペットボトルを芽榴の手の上に乗せた。展望台の中は暖房が効いているものの、少し肌寒い。ゆえに慎の気遣いはありがたいのだが、慎がするから芽榴は素直に感謝できなかった。
「……さっき口説いてた女の人たちはいいんですか?」
聖夜が芽榴の前からいなくなる直前まで、慎は別の女の人たちと話をしていたはずだ。そう思って芽榴が慎に尋ねると、慎は「あー……」とどうでもよさそうな返事をした。
「まぁいいんじゃね?」
「なんですか、その適当な反応」
芽榴は慎からもらったココアで手を温めながら、無愛想な返事をする。それに対して慎はケラケラ笑いながらソファーの背もたれに腰を預けていた。
「楠原ちゃん」
「はい」
「さっきの聖夜とのジャンケン、負けてたら本当に手繋いでた?」
変わらない楽しげな声音で慎は尋ねる。芽榴はその質問に少し驚いた顔をして、次の瞬間には苦笑していた。
「負けること考えてなかったです。でも考えてみても、たぶん負けてたら驚いて抵抗する思考も回らないと思いますよ?」
「……ふーん」
自信満々にそう答える芽榴に対し、慎はそっけなく返す。自分から聞いてきた割に、慎が適当な返事をするため、芽榴は少しムッとした顔で慎を睨んだ。
「ははっ。楠原ちゃんって、ほんと俺の前だと感情抑えねぇよな」
「気を遣うだけ無駄だと思ってますから」
芽榴はプイッと他所を向いて、淡々とそう言い残す。
「でも楠原ちゃんが俺にそんな態度をとるのが、俺の軟派な態度のせいならさ……。もし俺がいきなり真面目な人間になったら楠原ちゃん、どーすんの?」
慎が首を傾げながら芽榴に視線を落とす。すると芽榴も再び慎に視線を戻して、2人の視線が絡まった。
「そんな姿が想像つかないから、私は簑原さんが嫌いなんです」
「じゃあ、想像ついたら好きになる?」
問いかけられた芽榴は黙る。すると慎は天井を見上げてクスリと笑った。
「楠原ちゃんが俺を嫌いな理由はさ、最初こそ俺が軟派だったからだろうけど、今は違うだろ」
「……じゃあ何だって言うんですか」
芽榴が問いかけると、慎は彼らしい読めない笑みを浮かべて手を振りかざした。
「楠原ちゃん、じゃんけん」
「はい?」
「じゃーんけん……」
慎は理由を説明することなく、芽榴にじゃんけんを挑む。先ほど芽榴がじゃんけんで負けないと聞いたにも関わらず、慎はあえて芽榴にじゃんけんを仕掛けた。
「ぽん」
驚いた芽榴の顔が、その結果。
グーを出した芽榴に対して、慎はパー。
「つまり、こーいうこと」
慎はそう言って楽しげに笑った。
慎が本気を出せば芽榴を負かしてしまうこともできる。それなのに慎が馬鹿なフリをする姿は、芽榴の嫌いだった自分と似ていて、だから芽榴は慎が嫌いなのだ。
「……勝つと思って、仕掛けましたか?」
「ん? まあ、不意打ちなら。今やってもひたすらアイコになるんじゃね?」
慎はケロッとした様子でそう告げる。慎の言うとおり、もう一度しっかりジャンケンをしてみたら、3回ともアイコになった。
「つか本当に嫌いなら、嫌いなやつからもらったココアで手を温めたりしねぇだろうし?」
「な……っ!」
慎がニヤニヤしながら芽榴の手にするココアに視線を落とし、芽榴は即座にココアを目の前にあるテーブルに置いた。
「楠原ちゃん」
「何ですか……」
今度は何を冷やかすのかと芽榴が半目になると、慎は「ちげぇよ」と笑った。
「楠原ちゃんのお望み通り、今度はちゃんと真面目な話な?」
慎はこちらへと戻ってくる聖夜の姿を目にしながらゆっくりと口を開く。
「楠原ちゃんが上に行くなら……俺も上を目指すよ」
「え?」
慎はソファーの背から腰を離し、茶色のマフラーをひらめかせて、今度は体ごと芽榴の視界に真正面から映り込んだ。
「簑原家に戻る。父さんに頭下げて、兄さんに抗ってちょっと頑張ってみようかな〜なんて」
慎はそう言って芽榴に「どう?」と尋ねる。軽い言葉で言っているが、慎にとってそれを口にするのがどれほど重大な決断だったか、芽榴には分かる。
「……それで、いいんですか?」
自由に生きたいから簑原家から、兄の縛りから逃げた慎が、もう一度その場所に戻る。その決断を両手をあげて後押ししていいのか芽榴には分からない。不安げな顔をする芽榴を見て、慎は薄く笑った。
「楠原ちゃん、聖夜にこう言ったんだろ? 『楠原芽榴として上にあがる』って」
慎は聖夜が嬉しそうにそう語っていたことを思い出す。そしてそのまま今度は自分の決意を芽榴にぶつけた。
「じゃあ、俺は簑原慎として自由に生きてやるよ」
簑原家から逃げて得るちっぽけな自由はもう十分満喫した。聖夜はこれからもっと大変になって、芽榴もアメリカに行って自分と向き合い始める。自分の近い人間が頑張るなら、慎は今度こそ仮初めの自由なんかじゃなく、本当の自由を掴む努力をしようと思った。
「あんたにイイ格好されるのも癪だし、俺のほうが先に聖夜の隣に並んでやるよ」
慎は挑発するように目を眇める。そんな慎の視線を受けて芽榴は困ったように息を吐いた。
「私のほうが先ですよ」
「んじゃ、賭けてみる?」
そう言ってケラケラと笑う慎は、いつか見た心から笑う慎の姿と同じで、芽榴はどこか嬉しそうに笑っていた。
そんなことをしていると、あっという間に時は過ぎて2人と別れる時間が来ていた。
「ほんまにここでええんか?」
慎からスマホを借りて、舞子と連絡をとった芽榴は、班メンバーとの待ち合わせ場所まで2人に送ってもらった。
「はい。というか、ここまでついてきてくれてありがとうございます」
芽榴はそう言って聖夜にペコッと頭を下げる。
「何言うてんねん。当たり前やろ」
聖夜は肩を竦め、芽榴に顔をあげさせた。するとその隣で慎が「俺にはお礼言わねぇの?」と茶化してくるため、芽榴は完全に無視を決め込んだ。
「んな可愛げねぇことしてっと、聖夜に愛想つかされるぜ?」
「お前への愛想がつきるわ、ほんま」
「うっわ、ひっでぇ」
言葉とは裏腹にまったく傷ついていない様子の慎に、聖夜は大きな溜息を吐く。
「あ、あれ舞子ちゃんかな」
遠くのほうから班メンバーがやってくるのが見え始めた。さすがに自分たちと一緒にいるところを見られたくはないだろうと踏んで、聖夜と慎は班メンバーがここにたどり着く前に芽榴と別れようと考えた。
「ほな、俺たちは帰る」
「はい。気をつけて帰ってくださいね」
「ああ」
そう言って聖夜は先にタクシーへと乗り込む。慎は聖夜の後に続いてタクシーに乗り込みながら芽榴のほうを振り返った。
「まあ、旅行終わってさみしくなったらラ・ファウスト来いよ。話し相手くらいにはなってやるぜ?」
「お言葉だけ受け取っておきますー」
芽榴は満面の笑みでそう返し、対する慎もケラケラと笑ってタクシーの中に消えた。
走り始めるタクシーと同時に「芽榴ー!」と舞子の声が聞こえて、芽榴は体を反転させる。
「みんな、ごめんねー」
班メンバーとの時間を削ってまで、2人に会いに行った甲斐はあった。そんな感想が持てるくらい楽しい自由時間を芽榴は彼らと過ごした。
「おい、慎」
帰りのタクシーの中、聖夜は小さな声で慎に呼びかける。すると慎は「ん?」と小首を傾げた。
「さっき芽榴に言うとったん、本気か?」
「何? 聞こえてた?」
慎は笑顔で問い返す。慎が『放蕩息子』をやめる話は、聖夜が芽榴の元に戻ってくる直前にしていたため、どうやら聖夜にも聞こえていたらしい。
「安心しろよ。簑原家に戻ったって、俺は聖夜のそばから離れねぇから」
「……別に聞いてへんわ、そんなん」
そう言いながらも聖夜は、慎の言葉にどこか安心するように肩を撫で下ろしていた。慎が簑原家に戻るということはつまり、わざわざ慎が聖夜のそばにいる必要がなくなるということ。けれど慎は簑原家に戻っても聖夜のそばにいることを約束してくれた。
「……慎」
「んー、なになに?」
「……兄貴に苛められとう場合ちゃうで。お前もはよう上ってこい」
聖夜は頬杖をつき、窓の外を見つめながらそう告げる。
そんな聖夜の言葉を聞いて、慎は瞠目し、次の瞬間にはいつものように笑っていた。
「待ち遠しくて泣くなよ?」
「黙れ、しばくぞ」
そうして2人仲良く言葉を交わしながら北海道の街を発つのだった。




