217 寝癖と距離感
修学旅行2日目の朝。
ほとんど眠らずに朝を迎えた芽榴は眠そうに欠伸をしながら洗面室へとつながる廊下を歩いていた。
「ふあぁあ、眠いー」
他のメンバーはみんな起床時間ギリギリまで眠ろうと現在は爆睡中。芽榴は1時間だけ眠ってすぐに起き上がり、朝の準備を始めているのだ。
「でも、楽しかったなー」
眠る前まで、クラスメートと話していたことを思い出し、芽榴は嬉しそうに笑う。みんなと徹夜で話をして朝を迎えることは芽榴にとって初めての経験だったけれど、想像していたよりもはるかに楽しくて、話してる最中は眠気などまったく気にならなかった。
「あれ、芽榴ちゃん?」
軽い足取りで廊下を進んでいると、背後から声をかけられる。麗龍で芽榴のことをそう呼ぶのはたった一人しかいないため、芽榴はその人物の姿を頭に浮かべながら振り返った。
「蓮月くん、おはよー。早起きだね」
「うん。目が覚めて……って芽榴ちゃん、ちゃんと眠った?」
芽榴が風雅に笑顔で挨拶をするが、芽榴の顔を見た瞬間、風雅は眉間にシワを寄せ、芽榴の姿を怪訝そうに見つめた。
「クマできてる」
「え、ほんと?」
風雅が自分の目元を指差してそう告げ、芽榴は自分の目元に触れてみる。あまり眠っていないのは事実なのだが、楽しくて浮かれている自分に少し照れ臭さを感じて芽榴は苦笑した。
「みんなと朝までおしゃべりしてたから、楽しくて夜更かししちゃった」
そう言って芽榴はペロッと舌を出す。すると風雅は少し驚いたように目を丸くして、でもすぐに「よかったね」と、まるで自分のことのように嬉しそうに笑った。
「オレなんか、昨日めちゃくちゃ疲れちゃって布団に横たわったらすぐ寝ちゃったよ」
「……雪の上で倒れちゃうくらいだから相当疲れたと思うよー」
芽榴の言葉で、風雅の肩がガクッと下がる。雪の上で倒れてた話はイコール慎に惨敗した話であるため、風雅にとっては昨日の散々な1日の中でも特に不快な話だ。
「昨日はスノボでかっこよく決めて芽榴ちゃんにいいとこ見せる予定だったのに……」
拗ねたように唇を尖らせる風雅に芽榴はクスリと笑う。
「蓮月くん」
「ん?」
「寝癖、ついてる」
芽榴が立ち止まると、風雅も同時に立ち止まる。芽榴は少し背伸びをして、ピョンとはねた風雅の髪の毛に手を伸ばした。
「蓮月くんっていつもちゃんとしてるから、珍しい」
「まあ、寝起きはいつもこんなもんだよ」
「そーなの?」
芽榴はどこか感心したように「へぇー」と声をもらし、風雅の明るい髪を細い指先で梳く。すると芽榴を見下ろす風雅の顔がニヤけているのが視界の端に映った。
「何ー?」
「なんかこれ、幸せだなあって」
また意味不明なことを言い出したものだと芽榴の目が細くなる。その反応も最初から分かっていたかのように、風雅は変わらず笑っていた。
「お互いに寝起きの状態で顔合わせるとかさ、新婚さんみたいじゃん」
「な…っ」
風雅が何のためらいもなく、そう告げる。それを耳にした芽榴は頬を薄く赤に染めてしまい、慌てたように風雅の髪から手を離した。
「こんなの、新婚さんじゃなくて姉弟のやり取りだよ」
芽榴が照れ隠ししながら言葉を選ぶ。芽榴との新婚夫婦像を思い浮かべていた風雅は芽榴の言葉で一気に泣き目になった。
「夢くらい見させてよ!」
「夢でも恥ずかしいこと言わないで」
呆れるように芽榴が言葉を返すと、風雅はハッと何かに気づいたように眉を上げた。
「姉弟ってことは……もしかして圭クンの寝癖もこんな感じで直してるの?」
「え? まあ、たまに洗面所で会ったらねー」
芽榴はケロッとした顔でそう答えた。今までの風雅なら「圭クン羨ましすぎる!」と口にするところだが、今は違う。風雅は複雑そうに頬をかいて笑った。
「……たまったもんじゃないだろうなぁ」
「え?」
「圭クンがすごいって話」
独り言を芽榴に聞かれてしまい、風雅は若干慌てるがなんとか冷静を装って言葉を取り繕う。けれど芽榴はそんな風雅の様子を疑うことなくパアーッと顔を明るくした。
「圭はすごいよ。私の自慢の弟だもん」
「……圭クンにとっても芽榴ちゃんは自慢のお姉さんだと思うよ?」
「だといいんだけどねー」
芽榴はそう言って苦笑しながら視線を床へと落とした。
「全然姉らしいことできてないから……」
溜息を吐く芽榴の前で風雅は目を細める。家事をすべてこなし、弟の弁当を作って、たまには勉強も見てあげる姉が姉らしくないはずがない。風雅は自分のワガママな姉のことを思い浮かべて、さらに目を細めた。
「オレの姉ちゃんなんか、ひどいよ? ほんと芽榴ちゃんの爪の垢を煎じて飲ませたい」
「いやそれは……。あ、そういえば蓮月くんのお姉ちゃんってどんな人なのー? いつも聞きそびれちゃってるけど」
芽榴が首を傾げると、風雅が「うーん」と視線を上へとあげる。そして何かを思いついたように、風雅はポンッと手を叩いた。
「芽榴ちゃんは、どんな人だと思う?」
尋ね返されて芽榴は返答に困る。風雅から想像する姉はやはり風雅と似た性格なのだろうか、そんなことを思いながら芽榴は風雅の姉の想像を口にしていた。
「そーだなぁ。……綺麗な人」
「うーん、まあオレが言うのもなんだけど、たぶん顔は綺麗な方かな。じゃあ、性格は?」
「性格はー……うーん、素直で、人懐っこくて、気配り上手……とか?」
芽榴は顎に手を当て、考えるようにして言う。すると風雅がまたしてもニタァっと嬉しそうに笑ってきた。
「な、何?」
「芽榴ちゃん、オレのことそんなふうに思ってくれてるんだーって」
芽榴が風雅のことを連想して姉の姿を想像したことは、風雅にもちゃんと分かっていたらしい。それはそれで恥ずかしくて、芽榴はプイッとそっぽを向いて再び足を進める。
「あぁ! 芽榴ちゃん、待って!」
「どーせ、それ聞きたくて言わせたんでしょ」
「そうだけど……って、わわっ、ごめん! ごめんなさい!」
芽榴が半目で睨むと、風雅は本気で謝る。
そうして風雅は寝癖のついた無造作な髪の毛を揺らし、芽榴の隣に並んで廊下を再び歩き始めた。
「まあ、姉ちゃんは芽榴ちゃんが想像してるのとは正反対の人だよ。世界は自分中心に回ってるって信じてやまない人」
「……それはまた、すごい人だね」
芽榴が反応に困って苦笑すると、風雅はそんな芽榴を愛おしむように見つめた。
「でもオレの世界だって、芽榴ちゃん中心で回ってるよ」
風雅が冷静な声音でそう言う。ふざけた言葉でもその声音からして風雅が真面目な話をしようとしていることは芽榴にも分かった。だから芽榴はそこに立ち止まり、横目で風雅のことを見つめた。
「芽榴ちゃんのこと考えるだけで嬉しくなったり悲しくなったり楽しくなったり辛くなったりしてさ……」
芽榴のことを想うだけで、風雅の心には様々な感情が溢れて入り乱れる。それはかつて芽榴と出会う前の風雅が絶対に感じることのなかった言い知れない感情の渦。
「それなのに今のオレはいつも幸せで、どんな形でも芽榴ちゃんがそばにいてくれたらオレはそれだけで満足できちゃうんだと思う」
風雅の言葉はいつだって真っ直ぐで、だからこそその言葉が突き刺さる。
彼氏という立場になれたとしても、友達のまま終わることになったとしても、それでも芽榴にそばにいてほしい。
しかし、最大限の譲歩から生まれた風雅の優しい想いさえ、今の芽榴は受け止めることができない。
「……じゃあ、私がそばからいなくなっちゃったら、蓮月くんどーするの?」
旅行中は絶対に考えないようにしようと思っていた留学の話が頭をよぎる。一気に現実に引き戻された感覚に陥りながらも、芽榴は笑顔を取り繕った。冗談に見せかけて空元気を装う。
けれど震えた声もぎこちない笑顔も、すべてが芽榴の不安を表に出してしまっていた。
「……ははっ、なーんて……」
「そんなことありえないから考えつかないよ」
芽榴が誤魔化そうとする前に、風雅がそう言った。実際にこれから起こりえることだからこそ芽榴は言っているのに、風雅は自信満々に「ありえない」と告げる。その意図が分からず、芽榴が困った顔をすると、風雅は芽榴の手を握った。
「だって芽榴ちゃんがどんなに遠くに行っちゃってもオレがちゃんと追いかけるから」
まるでその言葉を待っていたかのように、芽榴の不安で溢れた心が落ち着いていく。
「だから芽榴ちゃんが拒絶しないかぎり、芽榴ちゃんがオレのそばからいなくなるなんて、ありえないよ」
そして風雅は芽榴を安心させるようにニッと笑ってみせる。風雅なら本当にそうしてくれる気がして、芽榴も思わずニッと笑い返していた。
「うん。そーだね」
風雅にそう告げ、芽榴は一息つく。そして芽榴は頭を落ち着かせ、少し戯けたようにして小首を傾げた。
「それで、蓮月くんは洗面室にまでついてくるの?」
「え」
芽榴が尋ねると、風雅が不思議そうな顔をする。もうそこは洗面室の前で、風雅は顔を赤くして立ち止まった。
「ち、違うよ! 話に夢中で気づかなかっただけだから! さすがにそこまで変態じゃないよ、オレ!!」
「いや、そこまで言ってないよ……」
芽榴はそう言って苦笑する。そのまま風雅に別れを告げ、洗面室の扉を開けた芽榴は、もう一度だけ風雅のほうを振り返った。
「蓮月くん」
「ん?」
「一回しか見られなかったけど、ちゃんとかっこよかったよ。スノボ」
芽榴がサラッと告げた一言に、風雅は眉を上げる。
芽榴からの予想もしていない言葉に驚いて口を閉ざしていた風雅だが、やっと芽榴の言葉の意味が理解できたのか、顔を赤く染めた。
「じゃあ、また朝食でー」
芽榴はそう言って今度こそ洗面室の中に消える。
そのあと一人廊下に残った風雅がスマホを握りしめて「録音したかったー!」と叫んでいるのが扉越しに聞こえて、芽榴は困ったように笑っていた。




