16 熱と賭
体育祭の日が近づくにつれ、体育祭の準備に占める時間の割合が増えていく。もちろんそれは生徒会も例外ではなく、普段の仕事にプラスして体育祭の設営もしなければならない。風雅と来羅が応援団練習でいない中、残りの役員のオーバーワークが続いていた。
「神代くん?」
生徒会の仕事を担当している芽榴と颯は職員室に仕上げた書類を届け、生徒会室に戻る途中だ。
「……ん? 何?」
「……もしかして、具合でも悪い?」
「そんなことはないけど、どうして?」
優しい笑みを向ける颯はいつもと変わらない。そんな颯を見ていると、どうしてそんな風に思ったのか芽榴自身分からなくなる。
「なんとなく、だけど。神代くん、うわの空だったから珍しいなーって」
「うわの空だった?」
「うん。私の話、全然聞いてなかったでしょ?」
芽榴はある疑問について颯に話しかけていた。しかし、颯は珍しくもボーッとしていて芽榴は思わずあんなことを颯に尋ねたのだ。
「あぁ……。すまない。少し考え事をね。で、芽榴の話は何だったんだい?」
颯に問われ、芽榴は窓の外に目を向ける。窓の外は土砂降りの雨だった。
「体育祭練習が梅雨時期と被っちゃうのにどうして7月に体育祭をするのかっていう去年からの疑問についてー」
芽榴が右手を胸元で小さく挙げる。颯は何度もこういう質問をされているからか、芽榴の疑問に明確な答えを示してくれた。
「二学期は文化祭があるからね。二大行事を分割したいという考えのもと、一学期に体育祭実施を決定したんだ」
けれど一学期のどこで実施するかというのがまた問題になったらしい。エスカレート式とはいえ一年生は高等部進学で忙しく、芽榴のように外部入学生もいるから、四月に行うのは難しい。
それに中途半端な時期に行うと、定期テストの前後でどちらも身が入らない。梅雨時期とはいえ応援団以外は個人練習であるため、いざとなれば隣接している中等部の体育館を借りて練習ということも可能。
「あとは期末テスト期間を少し早めれば問題解決。というわけで体育祭がこの時期になったんだ。体育祭本番は梅雨もあけて夏の到来。合理的な実施日ってわけさ」
まさかここまで正確で根拠のある理由を示されると思っていなかった芽榴は少し驚いていた。しかし、すぐに冷静になって期末前のトランプ大会は大丈夫だったのかと問うと、颯が「お姫様を手に入れるには止むを得なかったからね」と笑うので芽榴は黙った。
そんなことを話しているあいだに生徒会室に着き、芽榴と颯はそれぞれ自分の席について仕事をしていた。
しかし、一度考えてしまったからには些細なことさえ気になるものだ。横目に颯を見れば、芽榴には少し顔が赤いように思えるし、いつもより息も荒い気がする。仕事のスピードだっていつもに比べれば遅い。
芽榴は大きなため息をついて颯のいる会長席に近づいた。
「どうしたんだい? 芽榴……?」
芽榴は会長席に乗り出す形で颯の額に手を当てた。そして芽榴はまた盛大にため息をつく。予想はしていたが、それよりも遥かに熱いのだ。
「僕は基本的に体温が高いんだ」
「いいから休んで」
「僕が休んだら仕事が終わらないと思うけど?」
「……神代くんの体調不良が続くよりマシ」
芽榴は颯のデスクにある書類の山と自分のところにある書類を見て顔をひきつらせるが、病人が仕事をしているという事実に気を取られ、現に作業能力が著しく下がっているのだからこの選択は芽榴の中で最善だろう。
「だから、仕事ストップー!」
芽榴が颯の手元にある書類を取り上げようとすると、その手を颯が掴んだ。熱っぽい目で芽榴のことを見つめ、颯は薄く笑った。
「芽榴がキスしてくれたら……言うことを聞いてあげるよ」
「は?」
「そうしてくれたら僕の調子もよくなるだろうしね」
芽榴は限りなく目を細めた。風雅が言いそうなことを言ってしまう颯は余程体調が悪いのだろう。さっきよりも遥かに顔が近くなり、颯の荒い呼吸がありありと分かる。
「……いいよ」
芽榴が告げると、颯は目を丸くした。
「本当に?」
「うん。ただし……」
芽榴は颯のデスクの上にあったそれを掴まれていないほうの手で取った。
「オセロで神代くんが勝ったらね。私が勝ったら潔く休んでねー」
芽榴と颯は会長席の隣にある小さな席につく。そういえば、初めて颯とオセロをした日もこんな土砂降りの雨だったな、と芽榴が思っていると颯も同じことを思っているようだった。
「引き分けのルールも考えておくかい?」
「ううん。今回は決着つけるからいらないよ」
芽榴が黒石を盤の上に置くと、颯は満足げに笑った。
十分後。芽榴の言った通り、オセロの勝敗が決した。
「はい。神代くん、おやすみターイム」
芽榴は部屋の横端にあるソファーに颯を引っ張る。連れてこられた颯は結果が信じられないのか芽榴のことをジッと見ていた。
「誰かに負けるなんて生まれて初めての経験だよ」
颯は前にもそんなことを言っていた。
「……神代くんは病人で、私は正常なのに僅差の勝敗なわけだから、ノーカウントにしなよー」
横になった颯の頭を芽榴は優しく撫でた。もちろん颯にそんなことをできるのは世界中探しても芽榴だけだ。
颯はまだ何か言いたげな顔をしていたが、やはり体がきついのか瞼は重くなり、すぐに閉じた。
「……くん、神代くん」
微睡みの中、聞こえてくる芽榴の声に颯はゆっくりと目を開けた。そしてすぐに起き上がり、颯は時計に目を向ける。時刻はもう8時、最終下校時刻だ。
「すまない。眠りすぎた、ね」
他人がいる空間でここまで熟睡できたことに颯は驚いていた。しかし、相手が芽榴だったからか、とそんな理由で納得してしまった自分が一番の驚きだった。
「もっと早く起こしてくれればよかったのに」
「気持ち良さそうに寝てたから。でも、そろそろ帰らないと家族がお腹すかせてるんだよね」
芽榴は時計を見ながら苦笑する。
「あぁ。本当にすまない。後は僕が引き受けるから。……気をつけて帰るんだよ」
「はーい」
芽榴が帰り支度を始めると、颯はソファーから立ち上がり、自分の会長席へと足を向けた。
「体調は? どう?」
帰り支度を済ませた芽榴が会長席に腰掛けた颯に尋ねる。颯は芽榴にのみ向ける優しい笑みを見せた。
「おかげさまでね」
「ならよかったー」
芽榴はいつもの颯の様子に本当に安心したようで、颯に微笑み返して生徒会室を出て行った。
颯は部屋に一人になり、さっさと残っている仕事を終わらせようとデスクの上に目を向けた。しかし、デスクの上に乗っている書類はすべてサインがされており、作成途中だった資料も完璧に出来上がっている。予想外のことに驚く颯は一番上のプリントに貼ってあった付箋に目を向けた。
《1/∞=0》
颯は思わず笑ってしまった。負けたことがないといった自分の発言を芽榴は気にしていたのだろう。そのメモに書かれた数式の意図はつまり、颯の生涯の勝ち数を考えれば今回の負けはなかったことになるということだ。
「颯? 何笑ってるの?」
応援団練習が終わって風雅と来羅が生徒会室にやってきた。もうすぐ翔太郎と有利も設営を終わらせて戻ってくるだろう。颯は付箋をズボンのポケットに直した。
「お疲れ。生徒会の仕事は終わったよ」
「残っててもする体力は残ってないわ」
肩を押さえる来羅には疲労が感じられるが、部屋に入るや否や首をグルグル動かす風雅にはそれが感じられない。
「どうしたんだい? 風雅」
「芽榴ちゃん。……帰っちゃった?」
「あぁ。さっきね」
「はぁ……すれ違いすぎてオレ死んじゃう」
ぺたりと座り込む風雅を相変わらず単純なヤツだなと颯は思う。しかし、風雅以外に芽榴の行動一つで心を動かされてしまう人間の存在を知ってしまった颯は苦笑した。
「単純、か」
颯はポケットの中の付箋を優しく握りしめた。




