208 修学旅行と一悶着
修学旅行一日目の朝。
旅行の準備を済ませた芽榴が楠原家のリビングに顔を出す。
「本当に何も用意していかないけど、大丈夫ー?」
遅い出勤の重治とお茶を飲む真理子に芽榴はそんなふうに声をかけた。
「大丈夫大丈夫!」
「おう、任せろ」
芽榴の問いかけに、重治と真理子は笑顔で答える。
芽榴は自分が修学旅行に行っているあいだの料理を作り置きしておこうと考えたのだが、それは重治に止められた。これから芽榴は留学して楠原家には長期休暇に戻って来られるかも分からない状態になる。彼らも今後のことを考えて芽榴なしでの生活に慣れなければならないのだ。
「芽榴、楽しんでこい」
「お土産よろしくねー!」
芽榴が自分たちのことを気にかけることなく、楽しんで来られるように重治と真理子は芽榴よりもはるかに楽しそうに笑って芽榴を見送る。だから芽榴もそれ以上は何も言わす「行ってきます」と挨拶をしてリビングを後にした。
少し重たい荷物を持って、芽榴は玄関で待つ圭のところへと向かう。
「お待たせ、圭」
「ううん、行こう」
集合場所は麗龍学園であるため、芽榴はいつものように圭と途中まで登校を共にする。学ラン姿の圭と麗龍の制服を着た芽榴はもちろん顔も似ていないため、まるでカップルのようだった。
「芽榴姉、ちょっと緊張してる?」
いつもの道を歩いていると、圭が芽榴を見て薄く笑う。その問いかけに、芽榴が「え?」と返事をすると、圭が芽榴の手元を指差した。
「キャリー持つ手、真っ白」
芽榴はキャリーバッグを転がしているのだが、力を込めすぎて手が白くなっていた。一週間分の荷物が入っているとはいえ、基本行動は制服であるからそれほど重くもない。そうなれば芽榴の手に力が入っている理由を言い当てるのも容易い。
「修学旅行なんて初めてだから……なんか緊張しちゃって」
真剣な顔で可愛いことを言う芽榴に、圭は照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「でもよかったね。最後に、楽しい思い出が作れる」
圭がそう言うと、芽榴はピタリとその場に立ち止まる。芽榴の足音が消え、圭も芽榴の2、3歩先で立ち止まった。
「最後じゃないよ」
「え?」
「これからもっとたくさんいい思い出作るよ。そのために、私は少しのあいだ、もうこれ以上ないってくらい死ぬ気で勉強して、その後はその分の幸せ全部奪い返してやるって決めたから」
芽榴はそう言ってキャリーをゴロゴロと引きずり、圭の隣に並ぶ。
「圭との思い出も、これから作っていかなきゃ」
圭は面食らったような顔で芽榴を見下ろし、次の瞬間には困ったように笑っていた。
「だね。だから早く帰ってくるんしょ?」
「もちろん、最短だよー」
芽榴はVサインで圭に笑顔を向ける。
そして、芽榴と圭はそれぞれの通学路への分かれ道に差し掛かった。
「じゃあ芽榴姉、修学旅行の写真いっぱい撮ってこいよ? ちゃんと芽榴姉も写ること」
「はいはい。分かってます」
修学旅行行きを決めてからずっと約束していたことを確認し、芽榴と圭は互いに手を振って別れる。
圭に背を向けた芽榴は一度も振り返らない。けれど芽榴に背を向けた圭はもう一度芽榴を振り返り、芽榴の姿が見えなくなるまでその背中を見送っていた。
麗龍学園に着くと、空港行きのバスがクラス分すでに到着していた。来た順に乗りこむということで、芽榴はさっさとバスに乗り込み、すでに来ていた舞子の隣の席に座った。
「おはよー、舞子ちゃん」
「おはよ」
「おっはよーっ! 楠原さんっ!」
芽榴が舞子に挨拶をしていると、芽榴の到着に気づいた女子クラスメートが後ろから芽榴たちの席に乗り出してそんなふうに挨拶をする。
「ねね、バスの出発まで時間あるし、舞子と楠原さんもトランプしよーっ! 絶対楠原さん強いからババ抜きオンリーだけど!」
「やるやる」
「い、いいの?」
ノリノリの舞子の隣で、芽榴は遠慮がちに尋ねる。女子クラスメートが「もちろん」と当たり前のように返事をし、芽榴たち女子はバスが出発する前からトランプを始めていた。
「っはよー」
「はよ、滝本。お前ちゃんと眠れたかー?」
バスの奥の席では滝本を中心とした男子がすでにハイテンションで喋っている。どうやら今日から始まる修学旅行が楽しみすぎて夜眠れなかった男子がF組には多数いるようだ。
「小学生か、あいつらは」
「なんでうちには各クラスに一人いるイケメン役員様がいらっしゃらないのやら……」
「目の保養にもならん」
トランプをしながら悪態をつく女子に、芽榴はカラカラと笑う。その隣でジョーカーを引いてしまった舞子は、無表情を装いつつ軽く息を吐いた。
「まあその代わり、うちには天才役員様がいらっしゃるじゃない?」
「そうそう! 楠原さん、今日から一週間寝かせないからね!!」
芽榴を見て同じ宿泊班のクラスメートが数名ニヤリと怪しげな笑みを浮かべる。その怪しさに芽榴は首を傾げるが、同時にバスの前列から委員長の声が響いた。
「みんな、点呼するから座席についてください。はい滝本くん、補助席は使わない」
「えぇー、補助席のほうがみんなと喋れんじゃ」
「問答無用です」
キリッとメガネを押し上げて委員長が仕事をこなす。滝本も委員長のギラリと光る視線を受けて静かに仲の良い男子の隣に座った。
「松田先生、全員います」
「おう。じゃあお前も座れー」
委員長から点呼終了の合図を受けた松田先生は、通路の幅に体をぴったりフィットさせてみんなの前に立つ。
「お前ら、楽しい修学旅行が始まるが、はしゃぎすぎるなよ」
「まっちゃんもなー」
松田先生の真面目な話に、滝本がいつものようにツッコミをいれ、松田先生が「うるさいぞ、滝本!!」と騒ぎ始めた。おかげでF組のバスはすでに賑やか極まりない。
「ああまったく! 聞き漏らしても知らんぞー。空港についたら2便に分かれて出発することになってるが、F組はD組とE組と一緒だからはぐれるなよ。あとのことは宿泊施設についてから連絡する。じゃあ、お前ら……」
松田先生が深く息を吸い込む。
「修学旅行楽しむぞーーーっ!」
誰よりも無邪気かつ楽しげに松田先生が右手を振り上げる。
松田先生らしい声かけに、F組生徒はみんな大笑いして「おーーっ!」と大きな声をあげた。
同じ頃、B組のバスの前では一人の男子が暴れていた。もう空港に出発する時間だと言うのに、新堂先生と男子生徒会役員4人が同じ男子生徒会役員に説教をしている。
「ほんと、お願いしますっ!」
生徒会役員、蓮月風雅が暴れている理由は至って簡単で、単に芽榴と同じ飛行機に乗りたいというものだ。F組の男子生徒に負けず劣らず小学生並みの発言、否、小学生でさえ言わないワガママを言い始めたのだ。
「たった一時間だから我慢してくれ、蓮月」
犬のようにキャンキャンとおねだりするイケメン役員に、担任である新堂先生は困り顔だ。新堂先生一人では収まらないと判断したらしく、原因因子である芽榴以外の役員様が全員そこに集まっていた。
「風雅、いい加減にしろ。これ以上はみんなに迷惑がかかるよ。先生の言うとおり、たった一時間の話じゃないか」
会長である颯が冷静にそう指摘するが、風雅は「うーっ」と唸って颯のことを恨めしげに睨んだ。
「じゃあ颯クンは芽榴ちゃんと違う飛行機で文句ないの!? オレがこれで芽榴ちゃんと一緒の飛行機になったら羨ましいって思うでしょ!」
風雅の言葉で久々に颯が言葉に詰まる。そんな颯を見て、来羅はクスリと笑い、有利はほんの少しだけ目を細めた。
「風ちゃん。先生たちがB組をF組と同じ飛行機にしなかった理由くらい分かりなさいよ。るーちゃんが風ちゃんのクラスの女子と同じ飛行機なんていろいろ気まずくなるでしょうが」
本日も絶賛美少女来羅が風雅の頭をコツンと叩いてそんなふうに諭す。B組といえばやはり風雅ファンクラブのメンバーが多数いたクラスだ。嫌がらせ事件以来、収まりはついているが、先生たちにもいろいろあって風雅ファンクラブのメンバーと芽榴の接触は極力避けているのだ。
「そうですよ、蓮月くん」
「じゃあ有利クンとオレが交代し」
「嫌です」
風雅のお願いを早すぎる勢いで有利が断った。あまりの即答具合に風雅は「わーん」と喚き始める。
「蓮月、もう諦めたらどうだ。たかが飛行機一緒なくらいで何も変わらんだろう。楠原はF組の生徒と同席なのだからまず話す機会も……」
「じゃあ翔太郎クン、代わってよ! そこまで言い切るなら代われるよね!」
風雅が翔太郎の肩をグラグラと揺すり、翔太郎は「離せ!」と怒る。しかし、その意見を面白いと思った颯と有利、来羅は新年のとき同様タッグを組んだ。
「それはいい案だね。見事な利害の一致だ」
「ですね。葛城くんは飛行機がどれでも構わないみたいですし」
「だったらやっぱり『これに乗りたい!』って言ってる人に代わるべきよねぇ」
「貴様ら……」
いつか見た光景に、翔太郎はうんざり顔でため息を吐く。けれど、時間が迫っていることが気になる新堂先生は風雅を宥めるのに必死で、役員に便乗して自分まで翔太郎に「代わってくれ!」と頼み始めた。
「先生。そんなことを許したら規律が乱れます」
翔太郎の意見はもっともだ。が、代わりたくない理由が別にあると分かっている役員衆は白々しい言い訳を立てた翔太郎を半目で見つめた。
「な、なんだその目は……」
その視線が辛く、翔太郎は眼鏡を押し上げながらムッと表情を歪ませる。
すると、F組のバスがあるほうから「みーんなー」と叫ぶ綺麗な声が聞こえてきた。その声に反応した役員は全員、ほぼ同時にそちらへと視線を向ける。
役員の視線の先では、F組のバスの窓から顔を出して芽榴が彼らに手を振っていた。彼女にしては珍しく積極性のある行動だな、と不思議に思いながら役員は芽榴に手を振り返す。
「蓮月くーん」
そして手を振り終えた芽榴が、大きな声で風雅の名を呼び、風雅はキラキラした顔で芽榴のことを見つめ返した。風雅のキラキラな笑顔に対し、遠くにいる芽榴は苦笑しながら声を張り上げていた。
「みんなに迷惑かけないようにねー」
今まさに必要としていた言葉を芽榴が風雅に送りつける。その芽榴の言葉を聞いた瞬間、分かりやすすぎるくらいに風雅の肩がギクリと揺れた。
「わ、分かってるよーっ!」
さっきまでの暴れ様がまるで幻だったかのように、風雅はさっさとバスの中に戻っていった。
「うわあ……るーちゃん効果偉大……」
誰の言うことも聞かなかった風雅が、芽榴のまさに「神の一声」によって、さっきまで問題にしていた飛行機の件を素直に受け入れてしまった。
「でもまたバッチリなタイミングでしたね」
有利がそう言うのと同時、F組のバスから降りているC組担任の鈴木先生が新堂先生に向かってグーサインを送っているのだ。
「なるほど」
いろいろ納得した4人の役員はそれぞれ困り顔になったり肩を竦めたり半目になったり、あるいはクスクスと可愛らしく笑っていたり、と彼らしい反応を残して、自分たちの乗るべきバスへと戻っていった。




