206 無謀と野望
すべてのことにケリをつけた芽榴は東條とともに楠原家へと向かう車の中にいた。
一つの大きな問題を終わらせ、新たな道を切り開いた芽榴の前には、また巨大な壁が立ちはだかっていた。
窓の外を呆然と眺める芽榴は、流れゆく風景に何の感情ものせてはいない。芽榴が考えていることは、東條本家で祖母に告げられた、芽榴が東條家の後継になるにあたって必要最低限の条件についてだった。
芽榴に後継権を認めた祖母は、少しの時間をおいて冷静になった後、再び芽榴と東條の前に姿を現した。
今度はまるで会議をするかのごとく、祖母と東條、そして芽榴がそれぞれ椅子に座って、しっかり今後の話をつける姿勢になっていた。
『あなたに東條家後継の権利を与えます。あくまで権利ですが』
祖母はそう言って、付き人に目配せをする。祖母の指示により、優秀な付き人はすぐに取り寄せた数々の資料を芽榴の前に差し出した。
その資料を目にした瞬間、東條の顔色が変わった。
『総帥、これは……っ』
しかし、総帥は威厳のある顔で東條にそれ以上の言葉を発することを禁止した。今度こそ祖母のしようとしていることが間違いではないため、東條も反論することはできなかった。
『もしあなたが本気で東條家の後継になるつもりなら、あなたにはそれなりの力量を見せてもらう必要があります』
楠原芽榴となった芽榴には、たいした経歴も学歴もない。唯一大きな要素となり得る麗龍の生徒会役員という肩書きも、1年たらずの在籍では頼りない。ここ最近で見せた才能や成績が目を見張るものではあっても、たった1年分では意味がないのだ。
なくなった過去の分の経歴を埋める力量を示さなければ、世間は納得しない。世の中はそういうものだ。
『あなたが東條家の後継になるための条件は……』
祖母の出した条件を聞いて、芽榴はしばらく目を見開いたまま、言葉を出せずにいた。
もう一度、祖母の告げた条件を思い出して芽榴は視線を落とした。
そんな芽榴の背後で、やはり悲しげな顔をした東條が芽榴の肩に優しく触れた。
「芽榴。こんなことになってしまって……本当にすまない」
東條の謝罪の言葉を聞いて、芽榴は慌てたように笑顔を繕った。
「いえ……これは、私が自分で言い出したことですから……誰のせいでもないです」
祖母に向かって「東條家の後継になる」と、宣言したのは芽榴自身であり、誰かに強要されたわけでもなく、それは他ならぬ芽榴の意思だった。
それでも芽榴がその顔に影を落としてしまう理由は、祖母の出した正しい条件があまりにも厳しすぎるものだったから。拾う覚悟をした芽榴に、あの条件は最初から「全部捨てろ」と言っているようなものだった。
「私はおばあ様の言うとおり……東條家のことを甘く考えてたのかもしれません」
本当に深く考えていたなら、総帥が突きつける条件も予想済みだったはずで、今こうして悩むこともなかったのだろう。
「芽榴、それは違う」
そんなことを考える芽榴を東條は優しく抱きしめた。
「本来……お前が東條家のことを抱え込む必要はないんだ。それでもお前は東條家のために、また重荷を背負おうとしてくれている。その気持ちだけで……十分なんだ」
すべての重荷から逃れることもできるのに、芽榴は自分の運命と立ち向かうことを決めた。その意志だけでも十分、芽榴の覚悟は分かる。
「本当は、お前が辛い思いをしてまで守らなければいけないものなど何もないんだ……」
東條は芽榴にすべてを拾ってほしいと思っている。けれど同時に、心のどこかで芽榴に自分の後継者となってほしいと思っている自分もいた。東條はどちらの願いも芽榴に押し付けることはしない。決めるのは芽榴だ。
「すぐに決断するようなことじゃない。もっとじっくり考えなさい」
東條は芽榴に言い聞かせるようにそう言って、芽榴から体を離す。
体が離れ、東條のことをマジマジと視界にいれた芽榴は少しだけ嬉しそうに表情を緩ませた。
「……?」
「いえ、あの……さっきの話で頭の中はぐちゃぐちゃなんですけど……。でも、やっとおばあ様に認めてもらえて……なんだかまだ夢心地なんです」
芽榴は照れ臭そうにそう言って苦笑する。結果的に新たな大きな壁にぶつかることにはなってしまったけれど、得たものはそれよりもはるかに大きかった。
「たぶん、私の出す答えは変わりません。全部うまくいくって……そう信じてる私を、私は信じてます。……だから」
芽榴はもう一度窓の外に視線を向けた。
「あと少しだけ……みんなとの、最後の思い出を作る時間をください」
楠原家にたどり着いた芽榴と東條は、重治と真理子、そして圭によって暖かく迎えられた。
「あのクソババアにガツンと言ってやったか? 東條」
一応東條からすべて解決したとの連絡を受けていたため、芽榴たちが家に着いたころには重治たちも少し冷静になっていた。けれどやはり総帥のしたことに怒りと不快感を拭えない重治はビールを飲みながら親友に向かって愚痴を吐いていた。
「父さん、楽しそうだなぁ」
「重治さんと東條さんは親友だから」
「それを実感してるとこ」
圭と真理子は重治と東條を微笑ましそうに見つめながらそんなのんきな会話を繰り広げる。
でも次の瞬間には、2人の視線は目の前の芽榴へと移るのだった。
「でもよかったな、芽榴姉」
「え?」
「新年早々、いいこと尽くしじゃん?」
圭がそう言って、芽榴に笑いかけた。その笑顔を見た芽榴は少しだけ息が詰まるような感覚を覚えてしまう。
「芽榴姉?」
「え……あ、あはは」
芽榴は慌てたように笑ってみせた。けれど芽榴が笑った瞬間、圭も真理子も目を大きく見開いて固まっていた。
「芽榴ちゃん?」
真理子が心配そうな顔で芽榴を見てくる。圭も真理子と同じように芽榴のことを見つめたまま、動きを止めていた。
「え……どしたの?」
そう尋ねてすぐに、芽榴は自分の頬をつたう生温い感触に気がついた。
「……あれ。うそ……ごめん」
芽榴はそう言って慌てて涙を拭い始める。でも拭っても拭っても涙は止まらなかった。
その涙のワケは真理子にも圭にも分からない。
「芽榴姉……」
その異変はすぐに、隣で会話を弾ませていた重治と東條にも伝わった。芽榴が涙を流す理由を知る東條は、ただその様子を儚げに見つめ、自分の無力さを噛みしめるように唇を噛んだ。
「ごめ、なさい」
どんどん声は出なくなっていく。
でも芽榴は今言わなければ、その決心が揺らいでしまうことを分かっていた。
「お父さん、お母さん……圭……」
芽榴が呼びかけると、重治と真理子、そして圭は芽榴のことを見つめ、そして芽榴の言葉を待った。
「本当に……自分勝手で、ごめんなさい」
十年間育ててくれた楠原家に、恩の返し方はたくさんある。芽榴は自分が楠原芽榴として上に行くことで、その恩を返せる気がしていた。たぶんそれは間違いではないはずだった。
でもそのために、大事に育ててくれた家族の元を離れることはただの身勝手でしかない気もしていた。
それでも芽榴が選んだのは、そんな身勝手な答え。
芽榴が総帥から渡されたのはアメリカの最難関の大学への留学に関する資料だ。経営学に関しては世界的トップの教育機関であると、芽榴もよく知っている大学だった。
『あなたが東條家の後継になるための条件は……ここで世界最高峰の経営学を学んでくること』
総帥はそれを簡単に言ってのけた。
『H大学は学力さえ伴えば、留学生も年齢を問わない。だからあなたにはできるだけ早くアメリカへ発ってもらいます』
東條が言い切るほど、芽榴が優秀な能力を持つというのなら、芽榴がその年齢でかの有名な大学に留学することも可能だろうと総帥は挑発的に言った。
アメリカにて適性試験を受けた後、留学を受け入れられた場合はその瞬間からH大学の留学生として講義に参加することになる。
『飛び級やH大学特有の留学特別制度などを使えば最短で1年……』
総帥はそう発言してすぐにフッと鼻で笑った。H大学の資料には最短1年と確かに書いてあるが、その1年で帰ってこられた人間などH大学史上でも片手で数えられるほどだ。
『最長で8年、と最悪単位を取得できないまま除籍もあり得る。ここに大切なものが多いあなたにとっては簡単に決断できる話ではありませんよ? それでもあなたがこの選択をするならば、私はその覚悟だけでもあなたを認める価値があると判断します』
総帥がそう言ってのけるほどに、難しい話だった。
実際問題として、日本で優秀と判断されてH大学へ留学した人の多くが夢半ばで除籍しているほどだ。生半可な覚悟と努力で修学することはできない。
芽榴はもう逃げたくなかった。優しい家族に甘えていることを分かっていても、それ以上にいい選択がないと芽榴は知っていた。
「こんな私を、許してください」
全部分かって、分かった上で、芽榴は無謀な賭けに出る。
なぜならそれが、神様の与える最難関の試練なのだと分かっていたから――。
旅立ちを決意した芽榴。
誰にも何も知らせないまま、芽榴が迎えるのはみんなとの最後の思い出……修学旅行。
切なくてじれったい修学旅行編が今、始まる!!
という予告を書いてみました。こんな章になるのかは書いてみなければ分かりません。とりあえず作者のイメージです。笑
完結編一歩手前の修学旅行編はまさに最後のスパイスですね。
霜花編は意外と核心的な話が多くなりましたね。とりあえず長かったですね。
いい感じに終わりが見えてきました。作者的にはみなさんの期待をいい意味で裏切りたい展開を用意してきたのですがいかがだったでしょうか。テンプレだよ笑。と思われた方はまあほんのり笑みを浮かべて温かい目で見守ってください。
長い後書きになりましたが、
次章も作者は精一杯頑張りますので、応援よろしくお願いします!!
 




