205 捨てる覚悟と拾う覚悟
「私がこの家を守ります」
芽榴がもう一度、はっきりとそう口にする。
そんな芽榴を目にする東條家総帥はその脳裏に彼女とよく似た人物の姿を思い浮かべていた。
『お義母様』
総帥が何度無視しても、その女性はニコニコ笑って彼女のことをそう呼んだ。
『お義母様も若くはないんですから、お仕事も程々にされたらどうですか?』
『……』
『お義母様』
『あなたにそう呼ばれる筋合いはありません。出て行きなさい』
総帥が何度ひどいことを言っても、一人息子の嫁は困ったように笑うだけだった。
いつもどんなときでも本当に楽しそうに笑う彼女が憎かった。総帥がなりたくてもなれなかった心から綺麗な女性を前にして、総帥はただ忌み嫌うことで自分を守った。
『どうせ東條家の財産目当てで賢一郎の元に嫁いだくせに』
そう思い込むことで榴衣という女性を、自分と大差ないほどに醜い人間へと変えることができた。でもそれはあくまで総帥の頭の中だけの話。実際の榴衣という女性は悔しくなるくらい清廉潔白な人間だった。
『私は別に賢一郎さんと結婚しなくてもいいんです。ただ、賢一郎さんのいる世界は寂しいから、私だけはそばにいてあげようって決めただけなんですよ。だから……お義母様が認めてくれないときはそれはそれで仕方ないかなって』
榴衣は適当なことを言っては笑っていた。
そんな彼女だから、賢一郎は彼女を愛したのだと、総帥は分かっていた。けれど認めたくはなかった。息子を喜ばせてあげる。たったそれだけのことが、自分にできなくて彼女にできるという事実を認めたくなかった。
『お義母様も寂しくなったら、家のことなんて忘れて……みんなで家族旅行にでも行きましょうよ』
――絶対に認めたくなかった。
「……軽口を叩くのもいい加減にしなさい」
祖母は怒りを抑えるように、声を震わせながら芽榴のことを睨んだ。
「東條家の跡取りになることは、そんな簡単なものではないのですよ。どうしてあなたはいつもそうやって……っ」
祖母はそこまで言って言葉をやめる。彼女の言った「いつも」という言葉は、芽榴にも違和感を覚えさせた。芽榴が祖母と交わした言葉は数少ない。叩いた軽口も今回が初めてだ。だとすれば考えられることは一つ。
「私を……誰と、間違えてるんですか」
「……っ」
芽榴のもっともな問いかけに、祖母はガタリと椅子から立ち上がる。そのまま彼女はゆっくりと芽榴の元に歩み寄った。
「本当に……あの方にそっくり」
祖母はそう呟いてその腕を振り上げる。芽榴は目をつぶり、その手が自分の頬に落ちてくるのを待った。
「……っ」
けれどその手が振り下ろされることはない。
「賢一郎……っ」
祖母の腕を掴むのは東條賢一郎だった。重治から連絡を受けて、東條はそのまま芽榴を助けにやってきた。
「この子は……私の娘です。この子に手をあげるなら、私に手をあげればいい」
東條は総帥の腕に力をこめる。冷静な口調で東條が告げると、総帥は東條のほうを振り返り、顔を顰めた。
「離しなさい、賢一郎」
「……」
「……離しなさいっ!!」
総帥の二度目の命令は大きく室内に木霊する。東條は哀れな母の姿を目に焼き付けながらその手を離した。
「総帥。この子を連れさらって……あなたはいったい何がしたいんですか」
そう言って東條は総帥が先ほどまで座っていたのであろうデスクの上に視線を向ける。そこにある資料を目に入れて東條はすべてを納得していた。
「十年前、私たちの勝手でこの子を傷つけたのに、あなたはまたこの子を傷つけるつもりですか」
東條はそう言って、芽榴と総帥のあいだに立った。まるで芽榴をかばうかのようにして立った東條は、今度こそ父親らしい姿で芽榴の前に立っていた。
「賢一郎……あなたが養子さえとれば、この子をここに呼び出す必要もないのですよ」
「養子をとったところで、あなたが望む優秀な後継など育ちはしない」
東條は総帥を目の前にして、怯むことなく彼の思う事実をありのままに口にした。
「あなたはこの子を後継にふさわしくないと言い続けた……。でもこの子がふさわしくないなら、きっと他の誰もこの家の後継にはふさわしくない」
「そんなこと……っ」
「エコ目でもなんでも、この子にさえ務まらない後継の座を他の誰も務まりはしないと……私は確信しています。だから私の子どもはたった一人この子だけで、養子はとらないと決めたんです。あなたが認めない以上、この家が潰れようと……この家の権利すべて、この子以外に渡す気はない」
東條は芽榴と総帥の目の前で、そう言い切った。芽榴を手放したときから、誰にも後を継がせる気はなかった。だから東條は再婚も養子もすべての話を蹴り飛ばしてきたのだ。
「この子を政略結婚の道具にはさせない。そのためにこの子を利用するくらいなら、後ろ盾などいらない。こんな家ごと全部琴蔵に渡してしまえばいいんです」
「賢一郎、あなたまで、なんてことを言うのですか!」
総帥が東條の両腕を掴んだ。爪が食い込むほどに強く掴まれた腕は、白く色をなくしていく。それでも賢一郎は首を横に振って目の前の老婆に現実を受け入れさせた。
「何度でも言いますよ、総帥……。この子だけが私の娘だ。そしてこの子にはこの子の好きな道を選ばせる。もう絶対に……譲りません」
今の東條は総帥よりも多くの権力を持ち、東條家の実質的なトップ。十年前はすべての最終判断が総帥である彼女に委ねられていたけれど、今は違う。
「賢一郎……」
哀れな老婆は床に座り込んだ。東條家のために生きてきた彼女は、彼女自身がまるで東條家のような存在だった。
もし榴衣と重治がいなければ、東條も彼女のようになっていた。そして芽榴もまた、あの事件がなければ彼女のようになっていたかもしれないのだ。
「おばあ様……」
崩れ落ちた総帥の前に、芽榴はしゃがみ込む。一気に老いぼれた総帥の姿に、一時前までの威厳はなく、芽榴は自然と彼女を昔のように祖母として呼んでいた。
「あなたに……おばあ様と呼ばれる筋合いは……」
祖母は最後の言葉を喉の底で閉じ込めた。〝ない〟とただその一言を祖母は言えなかった。
祖母の目の前にしゃがみこんだ芽榴はあのとき祖母が見た榴衣の瞳とまったく同じだった。
「私じゃ、足りないって……おばあ様がそう言うなら……私はおばあ様が認めてくれるくらいの知識を全部この頭につめこんでみせます……から、だから……」
芽榴はそう言いながら、祖母の前に手をついた。
「芽榴……やめなさいっ」
芽榴のしようとしていることが分かって、東條はそれを止めようとする。けれど芽榴の体は止まらない。祖母の前に深々と頭を下げた芽榴は生まれてからずっと願ったことを祖母に伝えていた。
「私を……あなたの孫娘だと、認めてください」
芽榴が東條由紀恵の孫娘であることは嘘偽りない真実。祖母にあれほど疎まれ忌み嫌われ、祖母のせいであんな悲惨な事件の結末を迎えたのに、それでも芽榴は彼女に認めてもらおうとしていた。他人がみたら「あんな祖母に頭を下げる必要はない」と、そう言うのかもしれない。けれど芽榴にとってそれはとても大切なことだった。
「おばあ様がこの家のために、生きてきて……この家のためにどんなひどいこともやってきたなら……今度はこの家のために、私を認めてください」
「……」
「そしたら私は、何においても……この家を守ります。絶対投げ出したりしませんから……。お父さんにもおばあ様にも負けない経営者になって……」
それは東條芽榴が思い描いた将来。一度は完全に閉ざされた彼女の夢。それを今、芽榴は楠原芽榴として叶えようとしていた。
「今は同等の琴蔵家さえ、従えてしまうくらい……おばあ様の思い描いた、一番の家柄にしてみせます、から……」
涙で濡れた真っ直ぐな思いが祖母の心にどんなふうに響いたのか、芽榴には分からない。ちゃんと彼女の心に届いたのかも分からない。
でも祖母の目から流れる涙は嘘ではなかった。
「私は……東條家のためにすべて捨ててきたのですよ」
祖母は嗄れた声で芽榴に東條家の後継となることの厳しく冷酷な現実を伝え始めた。
「賢一郎にも、すべて捨てさせてきたのです。東條家の後継に、特別な感情も人情も……必要ない。必要なのは客観的で冷静な判断力だけ……」
祖母の言葉に賢一郎の顔も曇る。拾いたいものをすべて捨てて、そうしてやっと彼らは天下をとった。聖夜も含めて天下取りはその地位の代償に他のことをすべて諦め、捨てることを避けられない。
「あなたは……今あるものをすべて捨てる覚悟がありますか? そんな覚悟もなしに、東條家の後継になるなんて、私は絶対に認めません」
祖母は芽榴の目を見て今度こそしっかりと彼女の意見を言った。それは偏見でも彼女の強がりでもワガママでもない。自らが経験してきた残酷な真実だった。
「捨てる覚悟は……ありません」
そして芽榴が出した答えはそれだった。
「な……っ」
祖母は信じられないものを見るような目で芽榴を見ていた。今の流れで、芽榴は絶対に肯定してくるだろうと祖母は思っていた。そして肯定した瞬間に、芽榴を綺麗事だけを並べる人間だと非難しようとしていたのだ。
「芽榴……」
そばで見守る東條にも、芽榴が今、何を考え何を思っているのかは把握できていない。
だから芽榴は、まるで彼らにその答えを与えるかのようにして口を開いた。
「もう、何も諦めたくないですから……捨てる覚悟なんて、したくないです」
「何も捨てずに、東條家の後継になれるなんて……」
「思ってません。そんな簡単なことだとは……思ってません」
祖母の微かに怒りを帯びた声音に、芽榴はすぐさま返事をする。東條家の抱える問題がすべて簡単なことだったなら、今回り続けている歯車は存在しなかった。
「……最後の最後まで拾う努力をして、それでもどうしようもないときに、取りこぼすことはしても……わざわざやってもないのに何もかも捨てる気はないです。どうせ抱えた荷物なら全部抱えて、全部拾いたいです。だから私は……」
芽榴の姿があの日の榴衣の姿と重なる。
『大切なものがあるから、人は頑張れるんですよ』
『また綺麗事ですか』
『いいえ、お義母様』
笑顔の榴衣は確かにそう言った。
『お義母様は大切な東條家のために頑張る、賢一郎さんは私やお腹の子のために頑張る。全部捨てたつもりでいても、頑張ってる人は、全部抱え込んでるものですよ』
そして今、彼女の面影を持つ少女が同じ思いを持って、その決意を祖母に見せた。
「私は拾う覚悟だけして、東條家の後継になってみせます」
その真っ直ぐな瞳に、勝てないことを祖母はもうずっと前から分かっていた。
初めて榴衣にあったときから、祖母は彼女に勝てないこもを知っていた。だから絶対に負けないために彼女と彼女の面影を持つ芽榴を忌み嫌った。
でもそれが無駄な足掻きであることも、祖母は心の奥底で、本当は全部分かっていたのだ。それでも東條家のために祖母は動いた。そして今、目の前の少女が彼女のすべてである東條家のために動くと言うのなら、もうそれを否定することもできなかった。
「……やれるものなら、やってみなさい」
諦めにも似た、投げやりな言葉は祖母の精いっぱいの認知だった。
総帥にも賢一郎にもできなかった、すべてを拾う覚悟を示してみろ、と祖母は芽榴に挑戦状を叩きつけた。
生まれてから今まで募り積もった思いは、すべての柵を断ち切って、歯車ごと止めてしまった。
――けれどやっぱり神様は、そんな簡単なハッピーエンドで終わってくれるほど、芽榴に優しくはなかった。
作者の力量ではこれが精いっぱいでした。
ちょっと足早な展開になりましたが、たぶんこれ以上はないかな、と思っております。
さて、次回で霜花編最終回ですよ!お楽しみに!




