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麗龍学園生徒会  作者: 穂兎ここあ
霜花編
226/410

204 手札と手駒

「ただいまー」


 買い出しを済ませた重治と真理子は寄り道することなくそのまま家に帰ってきた。家にいるはずの娘に帰宅の挨拶をする。いつもならそこで「おかえりー」という芽榴ののんびりした返事が聞こえるはずなのだが、その声はいくら待っても2人の耳には届かない。

 料理に熱中しすぎて自分たちの声が耳に入っていないのだろうか、とそんなことを考えながら2人はキッチンに行き、買い物袋をその場に落とした。


「芽榴ちゃん……? あれ? 芽榴ちゃん、どこー?」


 キッチンに芽榴の姿はない。真理子は少し慌てたようにして芽榴を探しに2階へと駆け上がる。


「……芽榴。まさか――っ」


 重治は忽然といなくなった娘からある一つの考えに思い至った。東條と芽榴が繋がりを取り戻した以上、確実に現れると思っていた存在を頭に浮かべ、急いで玄関口へと逆戻りする。

 玄関を出て重治は郵便受けを漁った。もし彼の予想通りの人物が現れたのだとしたら事が大きくならないようその証を残すはずだった。そして重治はすぐにその証拠を見つけた。


「重治さん! やっぱり芽榴ちゃんがいないわ!」


 焦り顔の真理子が重治の元へと駆け寄ってくる。けれど重治はそんな真理子のことを見て「居場所は分かった」とただ一言そう告げて持っていた一枚の手紙を差し出した。そこに書かれていた内容はこうだ。


『楠原芽榴は、東條本家にて保護しています。身の危険がないことは保障いたしますので、ご安心ください。東條家総帥 東條由紀恵』


 余計に心配を煽るような文面に、重治は唇を噛む。昔から好きになることのできなかった大親友の母親は十年経った今も変わらず、重治には好きになることができなかった。


「相変わらずのくそババア……」


 若かりし頃に呼んでいた彼女の蔑称を口にして、重治はズボンのポケットから携帯をとりだす。そしてこの事態に関与することのできる唯一の人物に電話をかけた。







「い……った」


 ズキン、と首に響く痛みで芽榴は意識を取り戻した。

 目を覚ました芽榴は広々とした部屋のソファーの上にいた。覚えのある部屋の香りと風景で芽榴はここが東條本家なのだと気づいた。十年以上前に数える程しか訪れたことのない場所だけれども、やはり芽榴の驚異的な記憶力は何一つ忘れてはいなかった。


「気絶したんだ……」


 まだ痛む首元を摩りながら芽榴は自分の身に起きたことを冷静に把握していた。徐々に起き抜けの頭がちゃんと回り始め、芽榴はソファーから立ち上がる。


 逃げ道を探し、まず部屋の扉を確かめると部屋の鍵が外からしっかりかけられていて、中から開けることはできない。他に逃げる場所を探し、芽榴は扉とは反対側の窓へと足を向ける。東條本家は高層ビルの造りではない。豪邸ではあっても高さはそれほどないはずだ。

 それを確認しようと窓の前に立った芽榴の耳に、扉の鍵が開く音が聞こえた。


「……っ」


 反射的に扉のほうを振り返る。扉の奥に立っていたのは、やはりというべきか、芽榴を苦しめてきた歯車――実の祖母の姿だった。


「……久しぶり、と言うべきですか」


 付き人とともに中へと入ってきた祖母は窓にはりつく芽榴に向かって言葉を告げる。そしてそのまま彼女専用の大きなデスクの前にドサリと腰掛けた。

 その祖母の位置は、図らずも今の芽榴の真正面にあった。


「お久しぶりです。……東條様」


 自分が目の前にいる総帥をどう呼べばいいのか、正解が分からなかった芽榴は当たり障りのない呼び名を選ぶ。すると、祖母は薄く笑みを浮かべた。


「……楠原家の人間となったあなたは、その名で私を呼ぶのが適していますね」


 とりあえず祖母の癇に障らなかったことだけは分かって、芽榴は肩をなでおろす。


「用件は……なんですか」


 芽榴は祖母のことを見つめて静かに尋ねる。芽榴はちゃんと祖母の目を見ているのに彼女は芽榴の目から視線をそらしていた。だから2人の視線が重なることはない。

 それを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、やはりそれも芽榴には難しい感情判断だった。


「この十年近く、あなたは楠原芽榴として過ごすことになりました。とりあえず十年前のことに関しては、私の手配もまずかったと反省しています。その謝罪を先に」


 まったく感情のこもっていない謝罪は本当に無意味だった。言葉ではそう言っても、総帥は自らの選択を間違いだと思ってはいないのだ。ならば本当に謝られるだけ無駄な話。


「十年前のことが……今さら変わるわけじゃないです」


 芽榴は声が震えないようにキュッと自分の手を握りしめた。


「ええ、そうですわね」


 祖母は芽榴の言葉を肯定し、視線をデスクの上へと向ける。


「けれど今のあなたは、私の中で東條家に必要な存在だと認識されました」

「……どういう意味ですか」


 祖母の言葉に驚きながらも、芽榴はその言葉が持つ嫌な予感に気づいて顔を顰めた。そして祖母はそんな芽榴の顔を見ることなく、言葉を紡いだ。


「この家に戻って、そして……東條家のために琴蔵聖夜との橋渡しになりなさい」


 総帥は静かにその名を口にする。芽榴は即座に彼女が自分と聖夜が接触していることを知ったのだと悟った。

 昔から、祖母は芽榴のことをその手の道具としか思っていなかった。その事実を再び突きつけられて、芽榴は悲しげに視線を落とす。


「……嫌です」

「なんですって?」


 芽榴が断ると、祖母は顔色を変えた。

 けれど芽榴はこの意見を変えるわけにはいかない。自分のために、東條家のために、聖夜を利用したくはなかった。


「私は楠原芽榴です。一般人の私が琴蔵聖夜との橋渡しになるなんて……」

「だから東條家に戻れと言っているのですよ」


 祖母の口調は強い。弱々しく放たれた芽榴の声は彼女によってすぐにかき消された。

 東條家から芽榴を追い出したのは彼女なのに、彼女は再び彼女の東條家本位な考えのもとで芽榴を取り戻そうとしていた。


「あなたにも東條の血が流れているなら、東條家のために何かしたいとは思わないのですか?」


 だから芽榴は、彼女にだけはそんなことを言ってほしくなかった。十年前、誰よりも東條家のためになりたくて、頑張ってきた芽榴のすべてを砕いたのは祖母だった。


「じゃあどうして……そう思っていたときに何一つ認めてくれなかったんですか」


 芽榴は自分と目を合わせない祖母を、それでもジッと見つめていた。


「母のことが、そんなに嫌いでしたか?」


 芽榴の言葉に祖母の肩が揺れる。芽榴はその微かな反応を見逃さなかった。


「だから私を絶対に東條家の跡取りにしようとしなかったんじゃ」

「違います」


 祖母は冷静な声で芽榴の言葉を塞ぐ。冷たい、昔よく聞いた声音に、芽榴の体は自然と震えていた。


「ただ単に、あなたには……その力量がないと判断したからです」


 そんな苦し紛れの言い訳だけが祖母の動揺を露わにしていた。幼い頃の芽榴を見て、東條家の跡取りにふさわしくないなどと、いったい誰が言えただろうか。


「あなたに私や賢一郎は超えられない……そう、判断したからです」


 祖母はそう言った。彼女の言うとおり、東條家総帥の東條由紀恵と東條賢一郎は両者ともに優秀というくくりでは収まらないほどに秀でた人物だった。最終学歴はどちらも全国トップの大学、それも主席卒業だ。東條グループでの実務と並行して得たその成績は確かに誰もが残せるものではない。

 そんな2人と並ぶことはできても超えることはできない。超えられなければ、祖母は芽榴を認めてはくれない。


「……だからあなたには琴蔵聖夜との橋渡しになってもらいます。琴蔵の後ろ盾さえあれば、たとえ賢一郎の後継にふさわしい人物が現れなくとも、東條家は……」


 そこまでするなら、芽榴が後継になろうとなるまいと同じことだ。けれど祖母は頑なに芽榴を後継に据えようとはしない。

 でも祖母に従うだけの芽榴はもういない。今の芽榴はその一歩先に進めるはずだった。


「琴蔵さんを利用するくらいなら……」


 小さな声で、芽榴は自分の気持ちを伝える。


「私は……私が東條家の後継になります」


 そこでやっと祖母は芽榴の目を見た。おそらく見てしまったというのが正しいのだろう。芽榴の顔をはっきりその目に映した瞬間、祖母の顔は今まで見たことがないくらいに強張った。


「……あなた、自分が何を言っているのか分かって」

「分かってます」


 今度こそ、祖母の言葉を遮ったのは芽榴だ。


「それが生まれた時から決まってた、私の進むべき道でした」


 それを祖母が一人で嫌がって、覆した。


「この家に正式な後継者はいません。誰かを無理やり後継に据えて琴蔵の後ろ盾で存続させるくらいなら……楠原芽榴として、私が琴蔵の後ろ盾なしにこの家を守ります」


 芽榴の目はまっすぐ祖母のことを見ていた。楠原芽榴として東條芽榴が歩むはずだった道を目指す。それがイブの夜に聖夜と約束したことだった。


 掴めるものはすべて掴む。そう決めた芽榴は、もう自分の運命から逃げないことを決めていた。

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