203 総帥と誘拐
昨日新年を迎えたばかりで、外は騒がしい。いつだって静かな東條本家だが、今日は特にその空間を静かに感じてしまう。
そんな広い部屋の中で、孤独な老婆は窓の外を見つめていた。冷酷な瞳は綺麗な庭の風景さえも自分を取り巻くただの環境の一部としか認識しない。
そろそろ彼女の優秀な付き人が調べさせておいた情報をすべて持ってやってくる頃合い。老婆は背を向けているドアのほうに少しばかり意識を傾けた。
総帥の推測通り、そう時間が経たないうちに、部屋の扉をノックする音が響いた。総帥はその音を聞くや否や入室を許可し、付き人を招き入れた。
「……調べあげましたか?」
「はい。おそらく、これですべてかと」
総帥の求める資料を彼女の元に差し出し、付き人は深々と頭を下げる。総帥はその資料を受け取って、さっそく中身を確認しはじめた。
それほどまでに東條家の総帥が欲しがった情報。それは――。
「やはり……イブの日に接触していましたか」
総帥が手を止めたページには、彼女の息子・東條賢一郎と、彼女が忌み嫌った女性によく似た少女の写真が載っていた。そしてその2枚の写真の傍に書かれた詳細事項には、彼らが2人で別室にいたこと、ダンスを踊ったことなどが箇条書きで記されていた。
「賢一郎には、呆れたものですね。あの子に関しては言うまでもなく……」
手元の資料には彼女が「問題」と判断するような事柄がいくつも書かれている。その情報を集めた総帥の付き人は、付け加えるようにして新たに掴んだ情報を口にした。
「さっき得た情報によりますと、本日の賢一郎様の日程はオールフリーとのことで……余暇の過ごし方は誰も知らないと」
「会うつもりなのですね」
社長としての立場を分かっていない息子と、東條家の黒歴史とされた孫娘を、文字にされたイメージだけで判断して、総帥は深い息を吐く。
そして次のページに目を通し始めた総帥は、ある名前を発見して目の色を変えた。
「琴蔵……聖夜」
資料に書かれたその名は、総帥自らが欲しがったコネクションのキーパーソン。
真剣な顔で総帥は資料に書かれた内容を頭に詰め込んだ。ラ・ファウストへの勧誘、文化祭訪問、その後も度々芽榴と接触し、イブのパーティーに芽榴を招待したこと、聖夜が芽榴にしたことのほぼすべてがそこに記されていた。
「まさか、彼と繋がりを持っていたなんて……」
たとえ自ら忌み嫌った孫娘だとしても、彼と関係を持っているとなれば話は違う。総帥の中での好き嫌いは、すべて東條家の利害に左右されていた。
「車を出しなさい」
総帥の言葉に、付き人は了解の意味を込めて恭しい頭を下げる。そして総帥の命令通りに車の手配を始めた。
2日の朝、芽榴は忙しなく家中を駆け回っていた。今日は東條が楠原家にやってくる日だ。
圭は部活仲間と神社に行く予定が入っていて、現在楠原家には芽榴と真理子、そして正月休み中の重治がいる。そして全員家の掃除中なのだ。大晦日にある程度掃除はしたが、東條が来るとなればまた話は別だった。
元旦はみんなとの初詣が楽しすぎて結局明け方まで遊び通した芽榴は家に帰ってきて爆睡。おかげで今日の準備がまったくできていなかったのだ。
「掃除はこれくらいで……」
「芽ー榴ーちゃーん」
家の掃除を終えて一息吐くと、キッチンのほうから真理子の声がする。嫌な予感を覚えつつ、芽榴は駆け足で自分のテリトリーへと足を運んだ。
「芽榴ちゃん、何作る? 私、材料出しておくから」
真理子が張り切った様子で冷蔵庫の前に立っている。まだ料理をしようとしていないだけマシだが、はっきり言って真理子には料理以外のことをしてほしいところだ。
芽榴は苦笑しながら真理子の背後に回り、彼女の肩を掴んだ。
「え?」
「お父さーん」
真理子を台所ゾーンから押しやりながら、芽榴は玄関口を掃除している重治を呼んだ。
「どうした? 芽榴」
やってきた重治は芽榴に尋ねるが、真理子が台所にいる時点で聞かずとも芽榴の言いたい事を分かってくれた。
「ちょうどさっきゴミ袋切れちゃったから、2人で買い出しに行ってきてー。圭が帰ってきたときに飲む炭酸も切れてるし」
芽榴がそう言って真理子の御守りを重治へとバトンタッチする。それらのものを買いに行かなければならないのは事実なため、この際今行ってもらおうと芽榴は思ったのだ。
「おう。ゴミ袋と圭の炭酸だな?」
「うん、よろしくー」
「芽榴ちゃん、一人で大丈夫?」
芽榴がヒラヒラと手を振ると、真理子が少しだけ心配そうに芽榴のことを見つめた。真理子の問いかけに、芽榴は「大丈夫」と笑う。
「じゃあ行ってくるわね」
「すぐ戻ってくるぞ」
重治と真理子を玄関まで見送って、芽榴はそのまま一人家に残った。
掃除はひと段落ついて、あとは料理を準備するだけだ。東條の好物を思い出しつつ、芽榴はキッチンへと戻る。
「……喜んでくれるかな」
電話で聞いた東條の嬉しそうな声を思い出し、芽榴ははにかんだ。2時間後には東條がこの家にやってくる。そのときのことを想像して芽榴の心は浮かれていた。
「よしっ」
やる気を出して料理を始めようと芽榴は冷蔵庫に手をかける。するとちょうどいいタイミングでインターホンが鳴った。
誰だろうと首を傾げながら芽榴は玄関へと歩いていく。もしかしたら東條が早めにやってきたのかもしれないと、そんな考えが頭をよぎって芽榴は嬉しさ反面焦り反面で玄関の戸に手をかけた。
「はーい」
「……楠原芽榴様、ですね」
玄関の前には女の人が立っていた。スーツを着た、全身から仕事命というオーラを漂わせる女性を見て、芽榴の体が強張った。
十年も前に数度、チラとしか見たことのない顔だが、芽榴は鮮明にその顔を覚えている。彼女の仕事と彼女が仕えている人物をリンクさせて、芽榴は目の前の女性から逃れるために家を飛び出した。
「お待ちくださいっ!」
芽榴が逃げることを予想していたのか、家を出てすぐに東條家の警護人が数人そこに構えていた。
「おとなしくついてきてください」
そう言って警護人が芽榴の体に手を伸ばすが、芽榴はそれを上手にかわす。十年前は機能しなかった護身術を十年後の芽榴はフル活用して警護人から逃げようとしていた。
「く……っ」
無闇に手出しができない警護人は苦しげな声を出す。しかし、次に聞こえた声で苦しめられたのは芽榴のほうだった。
「何をしているのです。早く捕まえなさい」
聞き間違えようのない。忘れることのできないその声に、芽榴は固まる。声の先を確認すると、黒い車が止まっていた。
窓を開け、車から顔を出したのは東條家総帥――芽榴の祖母だった。
「……ぁ」
まるで縛り付けられたかのように芽榴が動かなくなる。その動揺のせいで、気づいた時にはすでに、芽榴は警護人に拘束されていた。
「離し、て……っ」
芽榴の背中を冷たいものが走る。腕を拘束されたまま再び芽榴はジタバタと暴れだし、抵抗を始めた。
「総帥」
「構いません」
警護人の視線を受けた総帥は静かにそう言って、警護人に対し何らかの許可を出す。そして彼女の許可の下に動いた警護人はすぐさま芽榴の首を手刀で叩いた。
すると芽榴の意識はとんで、同時に体の力ごと抜けていく。
「……捕獲完了しました」
その言葉を聞き、その事実を自分の目で確認した総帥は車の窓を閉める。
総帥の乗る車が動き始めると、警護人は芽榴を総帥とは別の車に乗せ、楠原家から去っていった。




