194 霜花と雨空
「はい、コーヒー」
互いにシャワーを浴び終わり、芽榴は自分の服を乾燥機にかけ、颯の服を着てリビングにある脚の長い椅子の上で体操座りになっていた。
「ありがとー」
芽榴は颯からコーヒーを受け取り、颯はテーブルを挟んで芽榴の向かいの椅子に腰掛ける。
少しサイズが大きくてダボつく服の袖を気にしながら、芽榴はコーヒーカップの熱を感じていた。
「ごめんね。何にもしなくて」
「何言ってるの。僕が座ってるように言ったんだから謝らないで」
颯の家に来た芽榴はあくまで客人だ。それゆえに颯は芽榴にゆっくり座らせて、自分が芽榴の分のコーヒーまで用意した。本当は芽榴に淹れてほしかったが、そこは颯の理念が許さなかったのだ。
「まあ……芽榴が淹れたほうが美味しいんだけどね」
颯がカップに口をつけながら芽榴に笑いかける。嘘のない颯の言葉に、芽榴は苦笑した。
「神代くんが淹れたのも美味しいよ」
「ならよかった」
颯の淹れたコーヒーを口にして芽榴は目の前にいる颯に視線を向けた。その視線に気づいて、颯は小首を傾げる。
「ん?」
「え、あー……せっかくのお出かけなのに、雨なんて残念だよね」
「そう? 僕は芽榴を家に連れ込めてラッキーだったけど」
颯のサラッと告げる大胆発言に、芽榴は思わずカップの中でコーヒーをふきだしていた。むせる芽榴に駆け寄って、颯は苦笑しながら芽榴の背中をさすった。
「ごめんごめん。冗談が過ぎたね」
「……神代くんのバカ」
咳き込みながら芽榴は颯のことを恨めしそうに睨む。そうして芽榴が落ち着いたのを確認すると、颯は再び芽榴の向かい側に腰掛けた。
「でもまあ……ゆっくり話せるところに行こうと思ってはいたから」
言い方が露骨すぎたけれど、あながちさっきの発言は冗談じゃないと颯は笑った。
「……話、ね」
芽榴は小さく呟いて、颯のことを見つめた。
芽榴の目の前にいる颯は常と何一つ変わらない様子でコーヒーを飲んでいる。芽榴の中に浮かんでいる疑問を颯はちゃんと悟っているはずなのに、まるでそれに気づいていないないかのように彼が平然とした態度でいることがひどく不自然だった。
そんな颯から視線を逸らし、芽榴は部屋の中の様子に意識を傾ける。
一目見て綺麗な部屋だと思った。颯の性格からして散らかった部屋は想像していなかったが、それでもあまりに――。
「さみしい部屋だろう?」
思っていたことを言い当てられて芽榴は少し眉を上げる。図星と丸分かりな芽榴の態度に、颯は微笑を浮かべた。
リビングには芽榴たちがいる長脚のテーブルと椅子が2脚、それからパソコンの置いてあるデスクとベッドがあるだけ。
衣類や本類はクローゼットの中にあるらしいが、本当に最低限のものしか置かれていない。
「……一人暮らしなんて、知らなかった」
「言っていなかったからね」
颯は芽榴の呟きに苦い顔でそう答えた。
「みんなは知ってるの?」
「……うん、知ってるよ」
役員の中でそのことを知らなかったのは芽榴だけ。いくら親しくなってまだ1年経っていないといっても、その事実は芽榴にとって快いものではない。
芽榴の表情が曇る。芽榴のそんな顔を見ていたくなくて、颯は視線を落とした。
「隠していたわけじゃない……ってことだけは分かってほしいな」
颯は寂しげにそう言って笑った。「どこから話せばいいのかな……」と一人考えるようにして呟いた後、颯は静かに口を開いた。
「芽榴は……何が聞きたい?」
1番いい手段として、颯は芽榴の知りたいことから順にすべて話していくことにした。
それは最初から決めていたこと。今日という日に、洗いざらい自分のことをすべて芽榴に明かすことをすでに颯は心に決めていた。だからこそ、雨が降ったときに迷うことなく芽榴を自分の家へと導いたのだ。
颯の問いに芽榴は迷う。聞きたいことはありすぎて、どれから聞くのが正しいのか分からなかった。
「いつから一人暮らししてるの?」
「……中等部にあがる頃からかな」
そんなに早くから颯はこのマンションに一人で暮らしている。その事実は少なからず芽榴に衝撃を与えた。
「なんで……?」
次の疑問は簡単に芽榴の口からもれた。聞いてもいいのか迷わなかったのは、颯が予めそれを芽榴に許していたから。
一人暮らしの理由を聞かれて、颯は少しだけ困ったように頬を掻いた。
「理由は複雑でね……。簡単に言えば、従弟のため」
「従弟……?」
芽榴が眉を寄せると、颯はクスリと笑った。芽榴の反応は当然のことで、颯の一人暮らしと従弟がどう関係するのか分からないのは当たり前のことだった。
「今、僕を保護してくれているのは父の妹――僕の叔母なんだけど、従弟っていうのはその……」
「ちょ、ちょっと待って」
颯が告げる言葉の前提が気になって、芽榴は颯の言葉にストップをかけた。
「保護って……ご両親は?」
芽榴の質問に颯はハッとする。本来、1番重点を置かなければならないことを飛ばしてしまったことに、颯は苦笑いをこぼした。
「亡くなったよ。十年以上も前に、事故で」
その答えを聞いて芽榴の息が詰まる。そんな芽榴の反応を目に焼き付けながら、颯は言葉を続けた。
「僕の幼稚園の卒園祝いにね、僕は両親と一緒にドライブに行ったらしくて……そのときに事故にあった。結構大きな事故で、目を覆いたくなる惨状で……それなのに僕だけが奇跡的に生き残ったみたい」
颯はどこか他人事のようにして自分の過去の事実を語っていた。けれど、そんな悲惨な過去を颯に思い出させて、その口から話させてしまったことを芽榴は後悔した。
「ごめん……。辛いこと思い出させて」
芽榴はそうやって颯に謝る。でも芽榴の謝罪の言葉を聞いた颯はさっきよりも一段と寂しい顔で芽榴のことを見ていた。
「思い出せたら……辛いんだろうけどね」
「え?」
含みのある言葉に芽榴は首を傾げる。颯は薄く笑みを浮かべたまま衝撃の事実を口にした。
「僕の頭に両親の記憶は何一つ残っていないから」
芽榴の目が大きく開く。
「残ってない……?」
「欠落したんだ。といっても、両親と過ごした時間は6年ちょっとだから多くもないけど」
芽榴は思わず口を開く。でもいい言葉が見つからなくて、声を出すことはできずにいた。
「事故の衝撃とか混乱とかで、僕は両親の記憶を全部なくしたんだ」
事故で記憶喪失になる話は聞いたことがある。部分的に喪失する場合は、その人の中で大切な記憶であることが多いと聞く。
悲惨な事件のことを何一つ忘れない芽榴とは反対に、颯は事件の記憶と共に大切な記憶までまるごと全部失ったのだ。
「だから正直言って、事故の後1週間くらいの記憶はかなり悲惨だよ」
両親を亡くし、彼らの記憶も失くした颯はとても不安定だった。目の前に横たわる見知らぬ2人が自分にとってとても大切な人だったのに、それを思い出すことさえできない。実際に両親の亡骸を見ても「悲しい」という感情は生まれず、親戚がみんな泣いているのに颯だけは涙を流さなかった。
「酷い息子だろう?」
颯はそう言うけれど、芽榴は何も答えることができなかった。颯が涙を流さなかったのは彼が冷酷だったからではない。理由があまりに辛すぎて、芽榴は顔を歪ませることしかできない。
「でも幸いなことに、親戚はこんな僕でも喜んで引き取ると言ってくれたんだ」
颯の両親はその筋では有名な学者夫婦だったらしく、その遺伝からなのか颯は元々のIQ値が高かった。将来的に自慢の種になりえる颯を親戚は疎むどころか望んでくれた。
でもそれが、颯を一つの推察に至らせた。
「完璧な人間でいれば、みんな僕を必要としてくれる。じゃあ、逆は? ……ってね」
「……神代くん」
完璧でなければいらない人間――それはかつて芽榴が抱いていた不安とまったく同じものだった。
「だから僕は僕の居場所を守るために、すべてのことにおいて誰にも負けないことを自分の中のルールにしたんだ」
そして親戚の話し合いの結果、颯は叔母の家に引き取られることになった。叔母夫婦に迷惑がかからないように、颯は彼らの満足のいく結果を出し続けた。そうすれば颯の居場所は守られたから。
「……本当に、僕の居場所だけはね」
代わりに誰かの居場所を壊したかのような颯の発言はとても不気味だった。
「叔母にはね、僕と同じ歳の息子がいたんだ。……満くんと言ってね。はっきり言って、あまり要領がいいような子ではなくて……」
もともと出来のよくなかった従弟の満は、颯と比較されることによってさらに落ちこぼれていった。出来のいい義理の息子を叔母は溺愛し、出来の悪い本当の息子を忌むようになった。
でもそれは道理ではないと颯は思っていた。本来、満に与えられていた場所を颯は奪ってしまったのだ。
「僕が彼だったら……たぶん僕に消えてほしいと思う。そう考えて、僕は自分で自立できると確信が持てたときに一人暮らしを始めたんだよ」
それが従弟のために一人暮らしをしたという理由の真相。
「叔母にはすごく反対されたけど……常に叔母の自慢の息子でいることを約束したらすんなり許可してくれて……」
だから余計に、颯は自分が大切にされている理由がたった一つ――――自分が何に置いてもトップの座にいる自慢の種であるから、ただそれだけなのだと思うしかなかった。
それから先も、その不安を取り除くことができないまま、颯は常にトップの座に居続けた。その座から堕ちてしまえば自分の周りからみんないなくなって、自分は捨てられる。その閉塞した考えの正否を知る術は颯の地位失墜でしかありえなかった。そして、誰一人として颯をトップの座から突き落とすことはできず、颯の推察は確信に変わり始めていた。
「そんなときに、君に出会ったんだよ」
「私に……?」
あの日――まるで今日と同じような土砂降りの雨の日に芽榴と初めてしたオセロは、颯が初めて勝ちを得られなかった瞬間だった。
負けはせずとも、勝ちもしない。それは颯にとって待ち望んでいた初めての壁だった。
「だから……他の誰でもなく君が僕を認めてくれたなら、僕がたとえいつか今の場所から堕ちていったとしても、君だけは僕を変わらず必要としてくれるのかなって……そう思ったんだ」
だから颯は鍵を握る芽榴を欲し、芽榴を役員にした。颯が芽榴をそばに置いた理由は確かに「芽榴が颯に負けなかったから」という一言に尽きるけれど、真実はもっと深いところにあった。
「その不安は……今も残ってるの?」
芽榴が静かに尋ねる。すると颯は首を横に振った。
「もし今も僕が、頑なに勝ちにこだわっているなら……今年のキングは間違いなく僕だよ」
颯はそう言いながら、席を立つ。パソコンがあるデスクの上から黒い革の手帳を取ってきて、颯はあるページを開いて芽榴の前に差し出した。
手帳のページに挟まれた付箋紙は芽榴の記憶の中にしっかり刻み込まれているものだ。
「1/∞=0」
その付箋に書かれた方程式を読み上げて、颯は微笑む。サッと適当に書いたその付箋を、いまだに颯が持っていることに芽榴は驚いていた。
「本当に、君は僕の想像を超える方法で……僕の不安を掻き消してくれた」
その方程式は、颯の負けを知っても尚、芽榴が颯を認めてくれた何よりの証だった。そして芽榴は完璧な人間ではないと分かっていて、颯のことをちゃんと必要としてくれた。
「ただそれだけが知りたくて、僕は芽榴をそばに置いた。……きっかけもその後も、全部僕のエゴだったのかもしれないね」
芽榴のすべてを肯定したのも、芽榴に頼ってほしいと願ったのも、全部芽榴のためだと思っていた。でも本当は全部自分のため、自分の愉悦のためだったのではないかと、いつからかそんな不安が舞い降りはじめていた。
「これが本当の僕だよ」
消えた不安に上書きされる不安は尽きない。それこそが完璧の仮面を被った颯の、本当の弱さだった。
颯のすべてを知って芽榴はどう思ったのか。
ただコーヒーカップの中を見つめるだけで口を開かない芽榴に、颯は悲しげな視線を向けた。
「……幻滅した?」
その声はとても切なく儚く静かな部屋の中に響く。聞かれた芽榴の肩は微かにビクッと揺れた。
いきなり詰め込まれた話に、芽榴の思考は追いついていない。でも今何かを言わなければいけないことだけは分かっていて、芽榴はカップに入っている温いコーヒーを一気に飲み干した。
「芽榴……?」
「に……が」
コーヒーの苦味を口いっぱいに広げ、芽榴は頭を回転させる。その様子を颯は訝しむように見ていた。
「大丈……」
「神代くん」
颯が俯く芽榴の顔を覗き込もうとすると、芽榴はそれを制するようにして颯の名を呼んだ。
「神代くんは完璧じゃない」
颯も自覚済みの事実を芽榴は告げる。けれどその言葉で颯が表情を曇らせる前に、芽榴は言葉を続けた。
「でも、だったら……神代くんが他人のためだけに動く必要なんてないでしょ?」
まだ少し湿り気のある髪を揺らし、芽榴は静かな声でそんなふうに言った。
「芽榴……」
「神代くんが私を必要としてくれたのも、導いてくれたのも全部……たとえ神代くんが神代くんのためにしたことなんだとしても、それでちゃんと私まで救われたならそれはただのエゴなんかじゃない」
颯の利己的な考え方ですべて始まって今に至るのだとしても、それで芽榴が感じた幸せは本物だった。
「だから私はやっぱり、神代くんには『ありがとう』を言うよ」
芽榴の優しい言葉が颯の心に沁みる。
「幻滅なんてしない。神代くんだって私の秘密を知っても丸ごと全部受け入れてくれたじゃん」
芽榴の言葉を、自分が芽榴に優しさを向けられていい人間なんだと信じてしまいたくなる。芽榴の笑顔を見るだけで、颯の心は切なくなった。
「でも僕は……根本的に最低だろう? 自分の親が死んでも涙一つ流せなくて、大切に育ててくれた叔母のことも利用するだけ利用して……与えられた居場所を、僕は捨てたんだ」
そう告げる颯の顔は今にも泣きだしてしまいそうなくらい切なく歪んでいるのに、颯の目から涙は出ない。だから芽榴は颯の頬に優しく触れた。
「芽榴……」
「自分のことを最低って思えるなら、大丈夫」
瞠目した颯は微かな声をもらす。でもそれは言葉にはならない。
両親の亡骸を見て、颯なら嘘泣きをすることだってできたはずだ。でもそれをしなかったのは、他人にどう思われても偽りの心で追悼してはいけないと記憶にない両親を大切に思ったから。
叔母夫婦のために完璧人間で居続けたのは確かに自分の居場所を守るためだったのかもしれないけれど、居場所を去った後も完璧であろうとした颯は少なからず彼らのことを思っていたはずだ。
そして本当に颯がエゴの塊だったなら従弟のことを思って自分の居場所を去る必要もなかった。
「本当は全部仕方ないことなのに、それでも神代くんはちゃんと自分を責められるから……」
だから颯の中にある性悪は後付けで広がった偽りのもの。
「神代くんは優しい人だよ」
芽榴は化粧のされていないありのままの姿で颯に笑いかけた。
「……芽榴」
颯は自分の頬に触れる芽榴の手をギュッと握りしめる。
「そう言ってくれる君が……誰より優しいよ」
前髪で隠れた颯の瞳は、芽榴には見ることができない。それでも彼の心に芽榴の言葉がちゃんと届いたことだけは確かだった。
「じゃあ、厳しくしましょーか?」
「……それも悪くないけど……今だけは、とびきりの優しさをくれると嬉しいな」
微かな笑みを混じえた颯の言葉に、芽榴もクスリと笑う。
「神代くんはいつも抑えすぎだよ。もっとワガママ言っていいのに」
芽榴が困った顔でそう言うと、颯は俯いたまま溜息を吐いた。
「僕がワガママを言い始めたら、きっと芽榴が壊れてしまうよ」
「どういうワガママ……?」
芽榴が眉を顰めると、颯は顔をあげる。
「聞きたい?」
颯の芽榴を見つめる瞳は楽しげで、でもどこか愛しさに溢れていた。
「……今日だけ、一つなら叶えてあげるよ」
颯のからかうような視線に負けじと芽榴はそう答えた。
「じゃあ……」
たくさんの叶えてほしい願いの中で、最も純粋で打算のない願いを颯は選び抜いた。
「芽榴の手料理が食べたいな」
「え?」
余りに単純な願いを受け、芽榴は驚いた顔をする。すると颯はククッと喉を鳴らした。
「もっと別の願いがよかった?」
颯はそう言って芽榴の手を引っ張る。芽榴はその反動で机に乗り出してしまい、颯との距離が一気に詰まった。
「お望みなら……僕は喜んでお願いを変えるけど」
息のかかる距離でそう告げられ、芽榴は慌てて颯の手を振り払った。
「料理を作ればよろしいんですよね? 神代くん」
顔が赤くならないよう、平静を装って芽榴は静かに尋ねる。その様子が面白おかしくて颯は笑いながら頷いた。
「ああ、冷蔵庫の中のものは好きに使ってくれていいから」
「……はーい」
芽榴はそう言って、颯から借りたジャージの裾を引きずりながらキッチンへと向かった。
料理を作り、2人で食べる。静かなのにどこか落ち着いた空気が部屋の中に漂っていた。
美味しく料理を食して、後片付けをした後、2人は再びさっきと同じように向かい合って座った。
今度はちゃんと芽榴の淹れたコーヒーが2人の前に置いてある。
「雨、小降りになってきたねー」
「ああ、本当だ」
窓の外を見てみると、少し雨粒が小さくなっていた。今から外に出かけるという手もあるが、もう芽榴も颯の部屋に慣れてきたところで今さら寒い雨空の下に出ることもないだろうと、颯は即座にその案を消した。
「芽榴」
「んー?」
両手でコーヒーを飲む芽榴の前に、颯は白い箱を差し出した。
「僕から君へのプレゼント」
そう言われて、芽榴も慌ててバッグに手を掛ける。ゴソゴソとバッグの中を漁って、芽榴は颯の前に細長い黒の箱を差し出した。
「私からも神代くんに」
互いにプレゼントを差し出し、もらったプレゼントに手を掛ける。まず先に開封した颯は、箱の中から出てきた見覚えのある万年筆に目を瞬かせた。
「これは……」
「壊れたんでしょ? 葛城くんから聞いた」
芽榴が颯にあげたプレゼントは、颯が以前から愛用していた万年筆。そしてそれは先日とあるアクシデントにより壊れてしまったものだった。いつも颯の手元にあった万年筆がある日を境に見かけなくなったため、ちょうどそのとき近くにいた翔太郎に芽榴は尋ねたのだ。
「翔太郎は……なんと言っていた?」
「えっと確か、神代くんが委員会誌をまとめてたら折ったって……」
どんな筆圧で書けば折れるのかと思いながら芽榴は翔太郎に言われた台詞を教える。
すると颯は安堵したように息を吐いた。
「教えたのが翔太郎でよかったよ」
「へ?」
颯は苦笑しながらそう呟く。もしそれを教えたのが来羅だったならしっかり『委員会でるーちゃんの噂してる男子にイラっときて折っちゃったのよ』と包み隠すことなく楽しげに教えていたことだろう。
「ありがとう。この万年筆が一番書きやすいんだ。助かる」
「いえいえ」
そう言いながら、芽榴は颯からもらったプレゼントの中身を取り出す。出てきたのは小さなドーム型の置物。
「スノードームだー」
芽榴はそう言って、いろんな角度からそのドームを眺めた。綺麗な水晶玉の中にクリスマスツリーが飾られていて、その周りで雪が煌めいている。土台にはクリスマスリースの装飾が可愛らしくついていて、とても綺麗だった。
目を輝かせる芽榴を見て、颯は満足そうに笑う。
「……このあいだ、久しぶりに叔母の家に顔を出しに行ったときに見つけたんだ」
颯の声が降ってきて、芽榴は視線だけ颯に向ける。
「あの家は僕がいていい場所じゃないと分かっていたから……帰ることをずっと避けていたんだけどね」
芽榴の過去を知り、自分も前に進もうと決めた颯は中学以来まともに顔を出さなくなった場所へと向かうことを決めた。
久々に帰ると、叔母夫婦は以前と変わらぬ様子で颯のことを迎えてくれた。颯が去ったおかげで再び居場所を取り戻すことができた従弟の満も颯のことを快く迎えてくれたのだ。
颯のいないあいだに彼ら家族は本来の形を取り戻していた。
「それを見て、素直によかったと思えた。……彼らには彼らの、僕には僕の居場所があるんだって、改めて実感したから」
叔母夫婦の元を去った颯はちゃんと自分の手で居場所を見つけた。誰一人欠けることなく6人の笑顔が集う場所、それが仮初めでもなんでもなく本当の居場所だった。
それを知った帰り道に見つけたのが、そのスノードーム。
「そのスノードームを見て……芽榴みたいだと思ったんだ」
「え?」
「綺麗で真っ白で……僕の目を引いた」
スノードームなんて冬場はよく見かける品物なのに、なぜかそれだけは颯の目を引いて離さなかった。それがまるで颯にとっての芽榴みたいに映って、だから颯はそれを芽榴にプレゼントした。
「神代くんは私のこと美化しすぎ」
「そんなことないよ」
芽榴が照れて他所を向くと、颯はクスリと笑って芽榴に手を伸ばす。
「お化粧なんてしなくても、今のこの芽榴の素顔で僕は満足なのに」
「な……っ」
芽榴の髪の毛先に触れ、颯は困ったように息を吐く。
「他の男にまで、わざわざ芽榴の可愛さを分からせる必要はないと思うんだけど」
芽榴はフーッと息を吐いて苦いコーヒーを飲む。
「神代くんはすぐそういうこと言うから、勘違いされても知らないよ」
「芽榴なら、ちょっとは勘違いしてくれてもいいけど?」
「バカ」
満面の笑みの颯に、芽榴は半目で返す。颯がそうやって最後の最後で誤魔化すから、芽榴は颯の気持ちが分からなくなるのだ。
「ねぇ、芽榴」
「何」
コーヒーを飲みながら、芽榴は颯の声に反応した。
「またいつか……僕のワガママを聞いてくれるかい?」
「……私が壊れない程度のワガママならねー」
剥れた芽榴は少しぶっきらぼうな物言いでそう答える。
「それは難しいかな」
戯けた様子で颯がそう言い、芽榴は再びむせる。「神代くん!」と芽榴が涙目で怒ると颯は「ごめんね」と笑った。
外は寒いけれど部屋の中は春の空気のように暖かい。
温度差で窓ガラスには霜がはり、模様のように花が咲く。美しい霜花だけが、2人の穏やかな1日を見ていた。
という感じで役員デート終了です。
颯くんの過去&この章・霜花編の名前の由来も書けて作者は満足です。
みなさんは誰とのデート兼プレゼント交換にキュンときたでしょうか。ちなみに作者は全員です。笑
というわけで次話は大晦日やら新年やらの話に突入ですね。霜花編まだ続きますが、これからもお付き合いください。
穂兎ここあ




