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麗龍学園生徒会  作者: 穂兎ここあ
霜花編
213/410

191 柊と星空

 それは芽榴との待ち合わせ時刻より1時間前のこと。


『いやぁぁあぁ! 来羅はどこ!? どこに行ったの!?』


 来羅の部屋から聞こえたのは、最も聞きたくない今にも事切れてしまいそうな狂った叫び声だった。


 何事かと、1階にいた春臣が階段に手をかけたとき、階上では来羅の胸を叩き続ける薫子の姿と、彼女の肩を押さえて必死に母の暴走を止めようとする来羅の姿があった。


『落ち着いて、ママ! ちょっと……っ、パパ!』


 階下にいる父の存在に気づいた来羅が助けを懇願するように春臣のことを見下ろしていた。


 けれどそんな来羅の想いを受け入れるより先に、春臣の視線は久々に目にする来羅の本来の姿に向かっていた。男らしくなった身体は、それだけで春臣と来羅の約束の終わりを暗示していた。


『パパ……っ! きゃっ!!』


 そんな馬鹿なことを考えていたために、来羅は薫子の平手をその頬に受けてしまった。

 それでも来羅は痛がることも泣くこともせずに、薫子の肩を掴んだままでいた。


『はなして、はなして、はなしてぇ! 来羅をどこに連れていったの!』


 平手よりもその言葉のほうが、はるかに痛かった。辛い言葉を真正面で浴び続ける来羅の顔を見ることもできず、春臣は階段を駆け上がる。


『薫子! やめなさい!』

『来羅、来羅ぁ!』


 来羅の名だけを呼び続ける母は来羅の目にどんなふうに映っていたのだろう。

 力が抜けていく中、やっとの思いで開いた来羅の口から出てきた言葉はとても儚い。


『来羅ちゃんは……もう、出かけたよ』


 自分の存在を否定するような来羅の言葉を聞いて、春臣は目を丸くする。


『来羅……っ』


 春臣が止めに入ったとき、すでに来羅の中に悲しいという感情は残っていなかった。


『いやぁぁ! 来羅、来羅ぁっ!』

『薫子!』


 春臣は来羅から薫子を引き剥がし、来羅の代わりに薫子のことを押さえつけた。



 それから1時間ほど経って、叫び疲れた薫子が倒れることで一時の終着を遂げた。


『次暴れ出したら……病院に連絡するしかないな』


 壁に背を預け座り込む来羅に、春臣はそう声をかけた。けれど来羅は顔を覆いつくしたまま顔をあげない。


 精神的に参ったはずの来羅はこんなときでも、後回しにしてしまった大切な用事のことだけを考えていた。


『……パパ、ごめん』


 手の隙間から漏れた、来羅の掠れた声に春臣は耳を傾ける。


『るーちゃんとの待ち合わせ、大遅刻してるの……』

『そう……だったね。すまない、来羅。今、車を……』

『そうじゃなくて!』


 芽榴との待ち合わせ場所まで送るつもりでいた春臣は、来羅の否定の声に驚いた顔をした。


『今日はいけないって……伝えてきて。後日お詫びするって……』


 その声は震えていて泣いているように思えたけれど、両手で塞がれた来羅の顔を春臣には見ることができない。


『来羅……行きなさい。昨日、あんなに……楽しみにしていたじゃないか……。薫子のことなら私に任せて……』

『会えるわけないじゃん』


 春臣の言葉を塞いで、来羅の口から漏れたのは悲しみで濡れた本音だった。


『こんなみっともない顔……るーちゃんに見せられないよ』


 来羅は両手を離し、春臣にその顔を見せる。来羅の顔を見た春臣は言葉を無くし、息を呑んだ。


『るーちゃんには、会わない。だから代わりに行ってきて? でも……このことは絶対言わないで。約束だよ、パパ』


 来羅はありったけの心をかき集めて、春臣に笑顔を見せた。







「パパ……るーちゃんに、会えたかな?」


 来羅は1階のリビングで一人呟く。ボロボロになった姿で今さら女装をする気にもなれず、来羅は赤くなった上半身を隠すようにシャツを羽織っていた。


「るーちゃんと……デート、行きたかったなぁ」


 自分で行かないと決めたのに、来羅はそんなふうに呟いて悲しげに唇を噛んだ。

 母が叫び疲れて、倒れてからもうすぐ1時間が経つ。今までの経験から考えて、そろそろ母が目を覚ます時間だ。


 それでも来羅が装いを取り繕うのをやめてしまったのは、もう疲れてしまったから。


「らいらぁ……私の、可愛い来羅はどこ?」


 目を閉じた来羅の耳に、その声が聞こえ始める。目を開けるとそこには、母がいる。


「ママ」


 その声は確かに来羅の声。姿は違えど、声だけは絶対に変わらない。だから薫子は嬉しそうな顔で来羅のほうを振り返る。


「あなた……だれ?」


 いつもの母の笑顔は一瞬で消えた。

 まるで今の来羅にその笑顔を受ける資格はないと言うような、そんな冷たい母の顔を来羅はその目に焼き付ける。


「誰、なの……。来羅は……どこ」


 母の求める〝柊来羅〟は最初からいなかった。そう思ったら心は楽になれた。それを人はきっと「逃げ」と呼ぶのだろう。


「ママ……私は誰だろうね?」


 その問いかけに、母の瞳が少しだけ揺れた。その動揺こそ、来羅のことを分かっている証だった。


「ら、いらは……」

「ママ、ずっと分かってたでしょ? 来羅が男だってこと」


 来羅の瞳は母と同じように、瞳孔が開き始めていた。


「知らな……」

「知ってるよ、ママは。だから今の私を見るたびにおかしくなるんだ」


 男の姿をした来羅を、本当に来羅だと認識できていないなら来羅を見て泣き叫ぶはずもない。その姿が本当の来羅だと分かっているからこそ、泣いて否定したくておかしくなるだけだ。


「やめ、て……来羅は女の子よ……可愛い……私の」

「違うよ。全部違う……」


 母を壊す覚悟はあった。でもこんな形で、こんなきっかけで壊すつもりなんてなかったのに、もう止められなかった。


「ママの欲しい来羅は、この世のどこにもいない」

「なに、言ってるの……来羅は……」

「いなかったよ。最初から……柊来羅は……」


 自分の存在を根本から否定する。そうすれば全部終わりにできる。


 でもそれはできなかった。大好きな腕が来羅の悲しい言葉を塞いでくれたのだ。


「いるよ。来羅ちゃんは、ここにいる」


 来羅を真正面から抱きしめるのは、確かに芽榴だ。この優しくて柔らかい香りは、芽榴のものだ。

 それが分かった来羅は目を見開いて、その体を引き剥がし芽榴の姿を視界に映した。


「……るーちゃん」


 黒いポンチョに深い赤のスカートを着た、まるで存在自体がクリスマスプレゼントのような可愛らしい姿の少女が、確かに来羅の目の前にいた。


「来羅ちゃん……」


 その声は嘘偽りなく、大好きな芽榴のものだった。


「……なんで、パパが会いに行ったはずじゃ……」


 来羅の視界の隅に、父の姿が映る。疲れ果てた顔の春臣が申し訳なさそうな顔をしたまま、そこに立っていた。

 その姿を見て、父が芽榴をここに連れてきたのだと来羅はすぐに悟った。


「嫌だって……言ったのに……会えないって、会いたくないって言ったのに!」


 光が消えた来羅の瞳は芽榴のことを鋭い視線で睨んだ。来羅が見せたことのない、激しい怒りを感じて芽榴は怯む。


「こんなグチャグチャな顔、誰にも、見られたくなかったのに」


 来羅はそう言って自らの顔を覆った。

 母からの平手を受けて腫れた頬も、悲しみのあまり生気をなくした瞳も全部、いつもの来羅が見せるものではない。


「ごめん……るーちゃん。こんなヒドイ姿、見せちゃって……ごめんなさい」


 来羅は芽榴の服を握りしめ、芽榴の胸の中で小さく謝罪し続けた。


「来羅ちゃん……」


 芽榴はそんな来羅の頭を撫でて、自分の背後に佇む来羅の母に視線を向けた。


「……芽榴、ちゃん……よね? ははっ、来てくれた、のね?」


 薫子は壊れた笑顔で芽榴のことを見つめていた。


「来羅はどこ? 来羅は芽榴ちゃんと一緒にいるんでしょう? 芽榴ちゃん、来羅は……」

「来羅ちゃんは、ずっとお母さんのそばに……いるじゃないですか」


 芽榴は来羅の頭を自分の胸に強く引き寄せる。芽榴の視線は悲しげだった。

 けれど、芽榴の言葉は薫子の望むものではない。


「……芽榴ちゃんまで、何、言ってるの……?」


 そう言いながら、薫子は泣いていた。その涙が何に対して流しているものなのか、その場にいる誰にも分からなかった。


「来羅は、女の子なの……。私の可愛い自慢の娘で……笑顔がとても素敵な……」

「女の子じゃなきゃ、ダメなんですか?」


 芽榴の問いかけは薫子から続きの言葉を奪った。


「来羅ちゃんから、聞いてます。……お母さんが女の子を欲しかったって話……。でも、だったら……もう十分じゃないですか」

「るーちゃん……もう、いいから」


 来羅が弱々しい声で芽榴を止める。今にも事切れてしまいそうな顔をした薫子を来羅は芽榴に見せたくなかった。

 芽榴を巻き込みたくない。そう来羅が思っていると分かっているから、芽榴は来羅の制止の声を聞かなかった。


「もう来羅ちゃんは十分……お母さんの願いを叶えたんじゃないですか。こんな無茶な願いを……ちゃんと叶えて……来羅ちゃんじゃなきゃ、できなかったことだと思います……」


 他のどんな人にもできない。自分の意志を無視してでも、女装をして、誰よりも可愛らしい女の子として生きる。それはおそらく役員の中の誰にもできない。来羅だからこそ出来たことだ。


「これから先も……もしお母さんが女の子の来羅ちゃんに会いたいなら……来羅ちゃんはその度に女の子の姿になってくれますよ」

「……やめ、て……」


 聞きたくない、と薫子は耳を塞ぐ。苦しげな母の声を聞いて、来羅は芽榴の胸から顔を離した。


「そうじゃないよ、るーちゃん……。悪いのは、私なんだ」


 その言葉はとても切なく響く。あの日、約束を交わしたことがすべての間違いの始まり。


「本当の女の子になんかなる気ないのに……女の子の真似事をして……ママを困らせてきたのは私だから。ママを泣かせることしかできない私は、柊来羅じゃ……ない」


 来羅がそう言い切ったとき、春臣が堪えきれず、薫子の肩を掴んだ。


「違う。来羅は何も、悪くない。そうだろう? ……薫子」


 春臣はそう言って薫子のことを抱きしめた。


「……もう、来羅を解放してあげよう」

「あな、た……」

「パパ……」


 来羅が男に戻ることを決めた時、春臣はその手助けとなることを決めていた。そして今、その手を差し伸べなければきっともうそんな機会が訪れないことを春臣は分かっていた。


「……来羅は、頑張ったよ……。可愛いらしくて、勝手でどうしようもない親のことを……こんなにも、思ってくれる……僕たちの、たった一人の大切な子どもだろう?」


 春臣は涙を堪えてその言葉を言い切った。泣きたいのは来羅であって、来羅に枷をつけた春臣には涙を流す権利がない。その思い一つで春臣は苦しみの涙を留めていた。


「……ぅ……」


 薫子が来羅を見つめる。男の姿をした来羅を泣き叫ぶことなしに薫子が見るのは、それが初めてだった。

 あともう少し――薫子の閉ざされた心にはまる、最後の鍵は芽榴の手の中にある。


「男の子だからとか、女の子だからとか……来羅ちゃんを決める基準はそんなことじゃないです……」


 それは当たり前のこと。でも来羅にとって性別は何より彼を縛る基準だった。


「お母さんのために笑ってくれる来羅ちゃんが、お母さんの求める、たった一人の柊来羅なんじゃないですか……」


 もう一度聞きたかったその言葉を、芽榴は来羅の前で、そして一番聞かせてあげたかった母の前で言ってのけた。


 十数年かけて女の姿を繕った来羅が示した母への愛は、確かに母の胸に届いていたはず。少年時代の来羅では許されなかった存在も、今の来羅なら少しは許されなければならない。


「……来、羅……」


 微かに薫子はそう口にした。来羅の目を見て彼の名をちゃんと呼んだ。


 来羅の目が瞬く。同時に、その瞳からは涙が零れ落ちた。


「……ママ」


 それはとても信じられないこと。十数年間、この姿では絶対に呼んでもらえなかった名前が母の口から紡がれた。


 しかしすぐに、薫子は崩れ落ちてしまう。


 倒れた薫子を支えた春臣は、彼女を抱えて芽榴に向き直った。


「……芽榴さん」


 決定打ではないけれど、少しだけ薫子の心が動いたのは確かだった。それは長い年月と芽榴の言葉がきっかけとならなければありえない変化だった。


「ありがとう……」


 深く頭を下げた春臣は、次に来羅へと視線を向ける。


「薫子のことは……今度こそ僕に任せて。行きなさい」


 もう日は暮れ始めている。けれど、まだデートとは呼べずとも2人で過ごす時間はあった。


「来羅……もう、芽榴さんとの予定をキャンセルする理由も、ないだろう?」


 父の優しい言葉を聞いて、来羅は俯いたまま何度も何度も頷いていた。

 春臣はもう一度芽榴に頭を下げて、薫子を部屋へと連れて行った。


「……来羅ちゃん」


 芽榴が小さな声で呼びかけると、来羅は泣き崩れた顔をあげて、少し首を傾けた。


「るーちゃん、まだ……デートのお誘いは、有効?」


 断るはずがないと分かって尋ねる来羅に、芽榴は困ったような笑みを返す。


「無効になんか、できないよ」


 芽榴の返事を聞いた来羅は嬉しそうに笑った。







 軽く身支度を済ませ、来羅はありのままの姿で家を出て行く。その隣には可愛らしい姿の芽榴がいた。


 そんなに長い時間は居られないため、近くの公園に行って芽榴と来羅は柊の木の下にあるベンチに座った。


「来羅ちゃん、ちょっと待ってて」


 芽榴はそう言ってパタパタとトイレ近くの水道に駆けていき、すぐに来羅の元へ戻ってきた。


「るーちゃん? ……ひゃっ」


 水で濡れたハンカチを芽榴は来羅の頬にピタッと貼り付けた。いきなり頬に広がる冷たい感触に、来羅は片目を閉じる。そして、そのハンカチを自分で腫れた患部に押さえつけた。


「綺麗な顔、腫らしたままじゃダメだよー」


 芽榴はそう言って少しだけ複雑そうに笑った。

 きっと、薫子の中ですべての整理がつくのはまだ先のこと。頑なに男姿の来羅を否定していたのだから、今回の一件だけであっさり今の来羅を受け入れられるわけがない。

 徐々に慣れていくしかない。だからしばらくは来羅の女装は彼が望まないにしてもせざるをえない状況にある。


「るーちゃん、そんな顔しないで」


 来羅はそう言って、芽榴に優しく笑いかけた。


「るーちゃんがいなかったら……これからもずっと、嫌でも女装し続けないといけないところだったんだよ? でもるーちゃんのおかげで、この姿でいられる可能性ができた。それって本当にすごいことなんだよ?」


 他人にできることはここまで。芽榴のしたことは芽榴にできる最高の導きだった。それ以上のことを誰も望んでいない。


「もうずっと女装もやってるから、今すぐやめれなくても……どうこうってわけじゃないし。強制されなくなるなら……それだけで今は十分」


 来羅はそう言って、芽榴のことを見つめた。


「るーちゃん……本当に、ありがとう」


 来羅の短い髪が風に揺れる。その姿は男らしさに満ちていて、少しだけ芽榴の鼓動を高鳴らせた。


「先にお礼言われると……渡しにくくなるんだけどね」


 芽榴は胸の音がうるさくなる前に、そう言って咳払いをし、バッグの中から綺麗にラッピングされた袋を取り出した。


「るーちゃん?」

「手、出してー」


 芽榴がそう言い、来羅はその言葉の通りに芽榴の前にハンカチを持っていないほうの手を差し出す。すると、芽榴は袋の中から取り出したそれを来羅の手にスポンッと被せた。


「手袋……?」


 来羅は自分の手につけられた自分の髪色と似た紫色の手袋を見つめた。


「それ、プレゼント」


 芽榴はもう片方の手袋が入った袋ごと来羅に渡してそう告げた。


 袋を受け取った来羅は驚いた顔のまま、自分の手を何度か翻してマジマジとその手袋を見つめ直す。


「これ……すごく手触りいいけど、もしかして……ブランド物とか?」


 来羅がものすごく申し訳なさそうな顔で尋ねてくるため、芽榴は「え……」と困ったような顔をした。


「それは……あの、手作りです」


 ハードルを上げられすぎて、逆に言うのが恥ずかしくなり、芽榴は俯きながらそう答えた。


「来羅ちゃん、すごく綺麗な手をしてるから作ったの」


 手作りと聞いて、来羅は驚きに拍車をかける。どう見ても手編みには思えない作りなのだ。

 けれど、芽榴の手作りということはブランドと比較するのも馬鹿馬鹿しくなる。


「……どんなブランドより高級品ね」


 俯いている芽榴を見つめ、来羅はボソッと小さな声で呟く。芽榴が「え?」と聞き返すけれど、来羅は笑顔で言葉を続けた。


「ねぇ、るーちゃん。この手袋には及ばないけど……私からのプレゼントも受け取ってくれる?」


 そう言って、来羅は鞄の中から取り出した小さめのダンボール箱を芽榴の膝の上に置いた。


「へ?」


 芽榴はそれを不思議そうな顔で見つめる。来羅に「開けてみて」と言われて、芽榴が箱の中を開けると黒い球形の機械が出てきた。


「プラネタリウム、作ってみたの」

「え!」


 芽榴が目を丸くして来羅のことを見ると、来羅はニコリと笑う。


 そして夜空を眺め、口を開いた。


「るーちゃん、暗いところでも星空の下は怖くないんでしょ?」


 昼の曇り空が嘘みたいに、夜空は晴れていた。見える星は多くないけれど、それでも綺麗に輝いている。


「だから暗い部屋の中もこんなふうに……夜の星空みたいになれば、少しは怖くなくなるかもと思って」


 来羅がそう言って、横目に芽榴のことを見る。来羅がプラネタリウムを作った理由を聞いて、芽榴の息が一瞬止まった。


 暗い部屋の中を怖がらずに済む日がくることを芽榴は願っていた。でもそんな日が来ることはないともうずっと昔に諦めていた。


 プラネタリウムを飾ったからといってトラウマが克服できるのかと聞かれれば、分からないとしか答えられない。


 でも大事なのは芽榴の苦悩を来羅が気にかけて、そのためにわざわざプラネタリウムを作ってくれたということ。


 そんな来羅の心こそプレゼントだった。


「……ありがとう、来羅ちゃん」


 涙で瞳を潤ませたまま、芽榴は来羅に笑いかける。

 芽榴の笑顔を見る来羅の心はそれだけでポカポカだった。


 きっといつもの来羅ならこれで終わり。でも想いを押し殺す最大の枷が消えた今の来羅は次の一歩を踏み込んだ。


「るーちゃん」


 来羅は頬に当てていたハンカチを外し、それを膝の上に置く。手袋をしているほうの手でプラネタリウムを抱える芽榴の手に触れ、もう片方の手を芽榴の頬にあてた。


「来羅ちゃ……」


 芽榴は来羅の行動に小首をかしげるけれど、途切れた言葉の先は驚きで紡ぐことができない。


 来羅の髪が芽榴の頬にかかり、芽榴の口のすぐ横に来羅の形のいい唇が触れる。

 そのまま来羅は滴り落ちる芽榴の涙をペロッと舌ですくいあげて、芽榴から離れた。


「……」


 来羅の温もりが遠ざかると芽榴の思考がグルグル回り始め、何が起きたかを理解した途端に芽榴の顔はボッと赤くなった。


「え、えっと……?」


 動揺を抑えられないまま、芽榴は来羅の舐めた頬に触れる。

 そんな可愛らしい芽榴の反応を見て、来羅は悪戯っぽく舌を少し出して笑った。


「今日は私、ちゃんと男の子だから」


 来羅はそう言って、再び芽榴に顔を近づける。その言葉の意味を芽榴に深く考えさせる暇を与えない。


「ら、来羅ちゃんっ!」


 芽榴が赤い頬を膨らませると、来羅は「違うもん」と言って芽榴の体を抱き寄せた。


「何回言っても足りないけど……ありがとう」


 来羅の顔が芽榴の肩に埋もれる。

 味方でいる、力になる、そのどの言葉も口で言うのは簡単なこと。でも芽榴はその言葉通り来羅のために動いてくれた。


「本当に、ありがとう」


 耳元で木霊した感謝の言葉は芽榴に小さく笑顔を与えた。


「……どーいたしまして」


 来羅の背中に腕を回し、芽榴は目を閉じる。


 誰もいない公園で抱き合う2人には、少しのあいだ時間の流れが分からなかった。

 月明かりに光る来羅の涙は希望で溢れていて、いつのまにか拭うことさえ忘れてしまう。


 これから先も絶対に忘れない。忘れることのできない。嬉しすぎて涙が溢れる夜。


 来羅が思い描くことのできなかった芽榴の隣にいる自分は、ありのままの姿で芽榴のそばにいた。

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