185 追慕と懐旧
今回の話はちょっと番外編のようなお話です。
若かりし頃の重治さんと真理子さん、東條さんと榴衣さんが出てきます。
時刻は21時。まだ芽榴がパーティーで役員とダンスを踊っている時間帯。
楠原家では、重治と真理子、そして圭が芽榴の用意してくれたご馳走を楽しく食していた。
そろそろ腹も満たされ、テレビでも見てのんびりしようかと思っていたところで、重治の携帯が着信を知らせる。重治は発信者の名前を確認して、ハーッと盛大に溜息を吐いた。
「東條さん?」
その様子で、真理子は発信者を言い当てる。重治が名前を見ただけでこんな態度をとるのは唯一東條賢一郎という男だけなのだ。
「ああ。はぁぁあ、拒否ボタン押してみるか。それもいいな、たまには」
そんなことを言いながら重治は電話をするために別室へと移動していく。口では嫌そうに言っても、重治はちゃんと東條からの電話に出るのだ。
「なあ、母さん」
そんな父の姿を見送りつつ、圭は真理子に声をかけた。
「あの東條さん相手に、父さんの態度って大丈夫なのか?」
圭は心配そうな顔つきで真理子に尋ねた。東條と面識のない圭にとって東條は『あの東條グループの社長』というイメージしかない。東條に対する重治の態度は失礼に値するのではないかと心配になるのだ。
「そういえば、そうよね」
真理子は正しい反応をする圭に納得しながら笑った。
「東條さんとの初対面が印象的すぎて、ついつい大企業の社長さんってことを忘れちゃうわ」
真理子はそんなふうに言いながら、東條と初めて会ったときのことを思い出していた。
あれは真理子が大学2年生の秋のこと。
『まーりこちゃん』
大学の講義棟前のとあるベンチで、暇そうに足を伸ばしては交差してを繰り返す真理子の耳に、少し遠いところから明るい声が入ってきた。
『榴衣さん!』
上を見上げると、講義棟の2階に位置する外廊下から榴衣が手を振っていた。真理子は慌てて立ち上がり、榴衣に頭を下げる。すると榴衣が『ちょっと待ってて』と笑顔で声をかけ、その外廊下の手すりに足を引っ掛けた。
『る、榴衣さん!?』
真理子が叫んだときには、すでに榴衣は地面に飛び降りていた。
『着地成功。真理子ちゃん、こんにちはー』
榴衣は何事もなかったかのようにニコリと笑い、素早い足取りで真理子のそばに駆け寄る。真理子は瞠目したまま、そんな榴衣に挨拶を返した。
『重治を待ってるの?』
榴衣は真理子の前に立って小首を傾げながらそう尋ねてきた。そのときは一年以上かけたアタックが実を結び、真理子が重治と付き合い始めて間もない頃。
『え……あ、はい。授業長引くから待っててって言われました!』
他でもない榴衣に言うのはどうかと思ったが、真理子は重治から言われた台詞を榴衣に告げる。嬉しそうに言う真理子に、やっぱり榴衣は優しく笑いかけてくれた。
『そっか。恋人待ちなら私も参加させて?』
真理子が許可する前に、榴衣はもう真理子の隣に座っていた。
『榴衣さんも彼氏さんを待ってるんですか?』
『うん。約束はしてないけどね』
『え?』
真理子は目をパチパチッと瞬かせ、それを見て榴衣はハハッと笑った。
『忙しい人だから私たちは待ち合わせの約束をしないの。でも絶対に迎えに来てくれると思うから、待ってるよ』
『来なかったら、どうするんですか?』
『うーん、そしたらここで凍えて夜を明かすしかないね』
榴衣はそんな冗談を言って笑っていた。
『榴衣さんの彼氏さんって、重治さんの友達なんですよね?』
『うん。それ、重治から聞いたの?』
『楠原がどうした』
榴衣が真理子に聞き返すと同時、2人の背後から声がした。真理子は眉を寄せるが、目の前の榴衣はパアッと顔を明るくした。
『東條くん』
幸せそうな顔で榴衣が振り返る。
『榴衣……。最近は肌寒いから中で待っていろと言っただろう?』
『だって寒々しく待ってたほうが来てくれたときの喜びが倍になるじゃない?』
『意味が分からない』
淡々とした物言い。けれどその男性の榴衣を見る目は、思わずこちらが恥ずかしくなってしまうほど優しくて熱かった。
『でもほんと、今日は早かったねー』
『最速で会議を終わらせてきたから』
榴衣の彼氏は重治と榴衣の同級生と聞いていたが、外見も発言もとても大人びていた。会議と口にするところからして、就職組なのかと思案していると、榴衣がその人に真理子のことを紹介していた。
『あ、そうそう。東條くん、この子がこのあいだ話した、重治の彼女の真理子ちゃん』
『あ! はじめまして! 新谷真理子です! えっと、重治さんと榴衣さんにはいつもお世話に……』
『お世話してくれているんでしょう? 本当にありがとうございます』
その男性は真理子が言う前に、その言葉を封じて上から書き換えた。
聞いた榴衣は『何それ、ひどいよ』と言って楽しげに彼をポカポカと叩いていた。
『私は東條賢一郎と言います。あなたには会ってみたかったんだ』
東條にそう言われ、真理子は『え?』と首を傾げる。
けれど次に降ってきた声はとても不機嫌だった。
『なんでお前がいるんだよ……東條』
授業が終わって急いで待ち合わせ場所へとやって来た重治は東條の顔をゲッソリした顔で見ながら言葉を吐き捨てた。そんな重治を見て東條は目を眇める。
『ああ、いたのか。楠原』
『当たり前だろ。ここは俺の通う大学だ。お前はどっかの会議でも行ってお偉いさんからいじめられて泣きべそかいてろ!』
顔を突き合わせた途端に、重治と東條の喧嘩が始まったのだ。
『生憎だが会議は済ませた。それも完璧にな』
『完璧を強調すんなよ、相変わらず気持ち悪いヤツだな。榴衣を迎えに来ただけなら、さっさと榴衣連れて帰れ!』
そんな2人の様子を見て、榴衣は楽しそうに笑っていた。
『榴衣さん、あれって仲いいんですか?』
『あはは、どう見ても仲良しでしょ』
そしてその後、真理子は東條があの東條グループの次期社長であることを知ったのだ。
先にそれを知っていたなら違う印象だったのかもしれないが、真理子の前に現れた東條賢一郎という男は榴衣の恋人で重治の親友だった。
「東條さんと喧嘩って……父さんって実はすごい?」
そういう圭の反応が当然。真理子は「そうね」と言って楽しそうに笑った。
「もしもし」
寝室にやってきて、重治は通話ボタンを押す。
『楠原……か』
「うわっ、なんだその声。……泣いたのか?」
携帯から聞こえる声はいつもの凛としたものではなく、嗄れたものだった。
『芽榴が……』
彼の声で紡がれる、その名を聞いて重治は自然と黙る。彼が話しやすいように急き立てることも茶化すのも辞めて重治は静かに東條の言葉を聞いていた。
芽榴と話ができたこと、本音を吐けたこと、そして芽榴とダンスを踊れたこと、今日あったことのすべてを、東條は途切れ途切れではあったが重治に伝えた。
『……嬉しかった。本当に……嬉しかった』
東條は相も変わらず芽榴本人に言うべきことを重治に告げる。昔と何一つ変わらない東條に、重治は思わず笑みをこぼした。
そして東條と和解しても尚、芽榴が楠原芽榴でいる道を選んでくれたことが何より嬉しかった。
『楠原、本当にありがとう……。芽榴に幸せを与えてくれたことを一生……感謝する』
東條の話が終わり、少しの沈黙が流れる。頭の中を整理して、重治は静かに口を開いた。
「あの子は……芽榴は自分で幸せを掴んだんだ。ただ、その前置きとして……芽榴が俺たちの家族になる必要があった。それだけの話だろ?」
『……それだけなわけ、ないだろう。相変わらず……お前は……』
そういう大きな器を持った男だから、東條は昔からずっと重治のことを頼り、彼には弱みを見せられた。
『……またまともに声が出せるようになったら、真理子さんにも電話しておく』
「あぁ……」
『楠原。芽榴のことを……これからもよろしく頼む』
東條に頼まれるまでもない。重治にとって芽榴を育てることは親としての義務だ。
しかし、重治はその言葉が含む本当の意味に気づいてやはり溜息を吐く。
「東條、いいか? 芽榴は俺の娘だ。お前は俺の親友だろ? 子どものいないお前が自分の親友の子どもに会って、可愛がって何が悪い」
きっと東條は芽榴と和解しても、前と変わらず芽榴に会うことを我慢するだろう。ケジメなんてつけられないくせに、東條はまた一人孤独な道を進もうとするのだ。
そんな不器用な人間だから、重治は昔からずっと東條を見捨てられなかった。
「縁を切る必要なんてない。第2の父としてなら、いつだって会わせてやる。第1は俺が譲らないけどな!」
『楠、原……』
重治の言葉で、東條はまた一段と情けない声を出し始める。
『何番目でも……構うものか。……あり、がとう』
東條の咽び泣く声を聞いて重治はクスリと笑った。
まだパーティー会場にいる東條をこれ以上泣かすわけにはいかない。
「仲直りできて、よかったな……東條」
優しくそう言って、重治は東條との通話を切る。
携帯をパタンと閉じて、重治は軽く息を吐いた。
東條と芽榴が和解したことは、そう遠くないうちに東條グループ総帥の耳に届くはず。そのときあの祖母が何を企み、何を仕掛けてくるか、それが問題だ。おそらく東條もそれは分かっている。
やっと止まり始めた歯車を、完全に止めるためには避けて通れない。そしてそれに重治が関わることはできないのだ。
「でも、お前の子なら……きっと乗り越えられるよな。……榴衣」
天井を見上げ、重治は昔のことを思い返し、目を閉じる。
蘇るのは十年以上続いた初恋の、終わりの記憶。
『ね、重治』
おろしたてのセーラー服に身を纏う榴衣が30年前の重治の姿に声をかける。
高校生になっても榴衣はほとんど重治の家にいた。隣の家に住む榴衣は、幼いころに父親を事故で、中学のときに母親を病気で亡くしていた。両親が駆け落ちで結婚して親戚との縁が途絶えていた榴衣はその歳で一人暮らしを決め、そんな榴衣を心配した重治の両親が何かと榴衣のことを気にかけたのだ。
『しーげーはーるー』
反応を示さない重治に、榴衣がもう一度声をかける。テーブルをポコポコと叩いて『こっち向いて』という彼女らしい合図を送ってきた。
『何だよ?』
布団に寝転がって漫画を読む重治は、気怠そうにしながら榴衣に視線を向ける。
重治の視線を受けた榴衣は薄く笑い、そして次の事実を告白した。
『私、東條くんと付き合うことにしたから』
当然のことのようにして告げられた事実を、重治が理解するには少々時間がかかる。
『へぇ……はぁ!?』
そして思考が追いついた重治は驚きのあまり布団から起き上がって、目を丸くしたまま榴衣のことを見つめた。
『あはは、重治驚きすぎ』
『……冗談だろ?』
『まさか。さすがの私もそういう類の冗談は言いません』
榴衣は笑顔でそう答える。でも重治には信じられなかった。東條が榴衣を好きなのは重治も知っていた。けれど、榴衣が東條を好きだという話は聞いたことがなかったのだ。
『あいつのこと、好きなのか?』
『うん』
その返答は少なからず重治の心を締め付けた。そんな重治のことを見て、榴衣は少しだけ申し訳なさそうに笑っていた。
『重治は私がいなくても、幸せになれるから。でも東條くんは違うでしょ?』
ラ・ファウスト学園に通い始めて、東條は笑わなくなった。中学時代、重治と喧嘩しては楽しげに笑みを浮かべていたのに、責任を自覚し始めた東條は初めて会った時と同じように孤独になっていった。
『不器用な人だから……放っておいたらすぐに孤独になっちゃって、本当どうしようもない人だよね』
榴衣は東條の弱さも卑怯さも、彼の背負う荷物の重さも全部分かっていて、それでも東條のことを選んだ。
『私だけはずっと東條くんのそばにいてあげたいの』
それが重治の長い長い初恋の終わり。今となってはとても懐かしい思い出だった。
家族のようにして育った重治を榴衣が男として見ることはなかった。
重治の榴衣への想いは、圭の芽榴への想いと似ていた。ただ一つ違ったのは、榴衣が重治の想いを知っていたということ。
「お前が一緒にいてやらないと……あの馬鹿は本当にクズだな」
もうこの世のどこにもいない大切な幼馴染に、重治は言葉を捧げる。すると頭の中で、榴衣が「ごめんね」と笑った気がした。
「ははっ」
重治は笑って、懐かしい記憶を頭の底に沈めこませる。
榴衣の言うとおり、重治は彼女なしで幸せな居場所を掴み取った。
「おーい、芽榴が帰ってきたらお祝いするぞーっ」
そんなことを大声で言いながら、重治は愛する家族の元へ戻って行った。




