182 舞姫と黙契
芽榴は東條とともにパーティー会場へ戻る。
2人並んで歩くのも十年ぶりだった。
「本当に、いいのかい? 楠原さん」
部屋の外に一歩足を踏み出したなら、もう芽榴と東條は赤の他人だ。東條の目は涙腺が落ち着いた今も少しだけ赤く、「楠原さん」と呼ぶ東條の声音はまだ寂しそうだった。それでも2人のあいだにあった溝は埋まり始め、そこに憂いはない。
「ええ、よろしくお願いします。東條様」
芽榴はそう言って東條に軽く頭を下げる。東條に笑いかける芽榴の姿は榴衣とよく似ていた。でも、芽榴は榴衣ではない。芽榴を見つめる東條の胸には、誇らしさと喜び――娘としての愛情だけがちゃんと刻まれていた。
「では、お手をどうぞ」
東條が芽榴に手を差し出す。芽榴は、はにかんでその手をとった。
会場には軽やかな音楽が鳴り響いている。
すでにダンスタイムが始まっていた。役員は代わる代わるお嬢様やマダムとダンスを踊っている。もちろん女嫌いの眼鏡くんはいち早く脱走して会場の隅に固まる踊らない男性組に紛れ込んだ。
「……あれ? 琴蔵様は踊らないのですか?」
マダムとのダンスの合間に水を飲みに来た颯は、踊らない組に紛れ込んでいる最高位のお坊ちゃんを見つけてそんなふうに尋ねる。それを耳にした周囲の男どもの額には微かに汗が滲んだ。
聖夜はパーティーの席で踊らない。その理由を知る者は少なくなかった。
「ハハハ。誰もお誘いしてくださらないから、踊りたくても踊れないんですよ。神代会長」
聖夜は笑顔で答えるが、手にしている水の入ったグラスはミシッと音を立てた。
「そうなんですか? 琴蔵様は踊れないんですね。それは残念です」
「踊れない、ではなく踊らないんですよ、神代会長。言葉の意味をちゃんと理解していただきたい」
「これは失礼しました。細かいところまでご指摘なさるなんて、さすがですね」
「ええ、そういう立場にありますから」
物言いはどちらも落ち着いているのに、その場の空気は身震いするほどに恐ろしい。その様子を見ていた翔太郎は溜息を吐き、慎は聖夜の背後で笑いを堪えるのに必死な様子だ。
もちろん、天下のお坊ちゃまが「ほんまぶっ殺したる」とか、エリート生徒会長が「上から目線を殴り飛ばしたい」などと言い散らかしているのは彼らの心の中だけの話だ。
そんな火花飛び散る会場が、瞬時にざわつく。
ダンスを踊っていない人もダンスを踊っている最中の人も、みんな舞台の上に視線を向けていた。
「東條様と――麗龍の女の子だ」
舞台に現れたのは東條と芽榴。
舞台上で踊れるのは主賓に限る。その主賓に位置づけられる東條がダンスのパートナーに選んだのは麗龍学園の美少女、芽榴だ。
東條の選択に誰も文句はない。文句を言わせないだけの風格を芽榴はその身に纏っていた。
「芽榴ちゃん……」
マダムにダンスの手解きを受けていた風雅は舞台の上、嬉しそうに微笑む芽榴を見て思わず笑みを零す。
役員も聖夜も慎もみんな、舞台の上にいる芽榴を見て、自然とその顔に笑みを乗せた。舞台に立つ芽榴はみんなを笑顔にしてしまうくらい幸せそうな顔をしていた。
会場中の視線を浴びながら、芽榴と東條は体を寄せ合う。東條の手が芽榴の腰に回り、芽榴の手は東條の肩にのった。
緩やかなワルツの音楽にあわせて、ひとたび体を動かせば、もうその足が止まることはない。
踊り始めてまもなく、会場中の視線は東條ではなく芽榴ただ一人に釘付けになった。
ステップもリズムも、乱れることのない優雅な動き。
洗練されたお嬢様も、プロのダンスで目の肥えたおじ様方も見惚れてしまう。同年代の子息に至ってはその頬を薄く赤に染めてしまうほどだ。
しなやかに舞う芽榴の肢体は一種の芸術に等しい。
「あの女の子は一体……」
会場のざわめきに、嘲笑の笑みを浮かべる人間はただ一人――この会場で最も上手にワルツを踊れる男子だ。
「あの女の本気は……こんなもんじゃねぇっての」
小さな慎の呟きは聖夜の耳にしっかり届く。
東條のダンスも並以上に綺麗だ。東條家の人間として叩き込まれたはずなのだからそれが当然。けれど、東條のリードでは芽榴の美しさを出し切ることはできない。
芽榴と東條の手が離れ、2人がピタリと止まると、会場は大歓声に包まれた。
「素晴らしい!」
「もう一度、見たいですわ!」
アンコールに等しき、静かな願いが会場中から沸き起こる。
夢にまで見ていた憧れの人とのダンス――それを終えた芽榴はとても清々しい顔をしていた。
「……芽榴」
焦がれるように颯は芽榴を見つめる。舞台の上に立つ芽榴はまるで遠い人――。しかし、そんなことは承知の上だったわけで、颯の中に後悔などない。だから颯は瞬き一つせずに、美しい芽榴の姿を最後の最後までその目に焼きつけていた。
「楠原さん……」
有利もまったく同じことを思いながら芽榴を見つめる。翔太郎も風雅も来羅も、みんな芽榴のことを見ていた。
そして同時に、もっと芽榴の美しい姿を見ていたいとも思うのだ。
「……聖夜?」
聖夜が会場の隅にあるマイクを取りに行く。その様子を慎が訝しむように見つめるが、聖夜はその視線に答えない。盛り上がる会場を無視して、聖夜はマイクのスイッチを入れた。
『みなさん、どうでしょう? 我が招待客、麗龍学園の生徒会役員、楠原芽榴さんのダンス――もっと拝見したくはありませんか?』
聖夜の言葉に、芽榴が眉をあげる。すぐさま、舞台の下にいる聖夜に視線を向けた。
「……琴蔵さん?」
芽榴は聖夜のことを不思議そうに見つめていた。
会場は聖夜の言葉に大興奮で、芽榴のダンスを待ち焦がれている。その反応を見れば、聖夜が芽榴にもう1曲踊らせることは言われなくとも明白だった。だから芽榴は東條と向き合おうと、その足を再び動かすのだが――。
『それでは、楠原さん。舞台の下へ』
「……え?」
聖夜の言葉に、芽榴が驚きの声をあげる。同時に、会場が再びざわついた。
『最高のダンスを、楠原さんと……そこにいる僕の相棒、簑原慎に披露していただきます』
その言葉に驚いたのは、誰より当の本人。聖夜の言葉を聞いた慎は驚きで目を見張っていた。こんな慎の顔は滅多に見れるものではない。
『よろしいですよね? 東條社長』
聖夜は最大の敬意を払い、東條に最終判断を仰ぐ。東條が頷けば、それは決定事項。東條の承諾を確認して再び聖夜は言葉を発した。
『2人とも、会場の中心へ』
聖夜がマイクのスイッチを切るのと同時、やっと状況を理解した慎は「聖夜!」と抗議の声をあげる。しかし、慎を一瞥する聖夜の視線は有無を言わさない。
「芽榴のよさを最大限に引き出せんのはお前や。お前と踊らせてやりたいとか、そういうんやない。ただ、俺に最高の芽榴を見せろっちゅう……それだけの話や」
聖夜は慎の横を通り過ぎながら、その耳元で囁く。けれど、聖夜の本心なんて忠実な下僕である慎にはお見通しだった。
「風ちゃん、大丈夫?」
会場がざわつく中、来羅は真っ先に風雅に駆け寄った。衝撃的な展開のおかげで今は風雅の周りに人もいない。芽榴と慎のことになれば、1番荒れ狂ってしまう風雅に、来羅は心配そうに声をかけた。
「全然大丈夫じゃないよ」
言葉とは裏腹に、風雅はとても落ち着いている。会場の中心に向かう芽榴と慎を交互に見つめる風雅の瞳には、ただ羨望だけが色を残していた。
「でもオレが芽榴ちゃんと踊っても、芽榴ちゃんの足踏みまくっちゃうだけだから。……それに、綺麗な芽榴ちゃんの姿をもっと見ていたいし」
風雅はそう言って来羅に笑いかける。その笑顔は決して晴れやかなものではない。けれど、風雅の考えは間違っていなかった。
「成長したわね、風ちゃん」
「お母さんみたいな口調やめて」
そんなふうにいつもの声掛けで風雅と来羅は笑いあう。
同じころ、会場の中心で芽榴と慎は向かい合っていた。
「簑原家の次男坊、ですわね……」
「琴蔵様はあんなふうにおっしゃったが、あの女生徒相手に踊れるのか……?」
芽榴に向けられる視線は好奇、慎に向けられる視線は蔑視。街で2人歩いていたときとは受ける視線がほぼ真逆だった。こんな公の場で、慎のことをよく思う人間はいない。
特に、このパーティーには『簑原家の優秀な跡取り息子』も参加しているのだ。慎が背負う『簑原家の放蕩息子』という肩書は尚のこと深く刻まれている。
「簑原さ……」
「楠原ちゃん」
慎は芽榴の声を塞ぐ。芽榴の前に跪きながら慎は王子様のようにして、芽榴に手を差し出す。
「俺と踊っていただけますか? 麗しいお姫様」
相変わらずの人を小馬鹿にした笑みで、慎は芽榴に問いかける。おかげで心ときめく発言も台無しだ。
「ぜひ、喜んで」
芽榴は緊張することなく、満面の笑みで慎の手をとる。2人のあいだに今さら形式ばったロマンなど必要ない。
芽榴と慎が踊るのはワルツ。
けれど、今回のワルツは芽榴が東條と踊ったイングリッシュワルツとは違う。イングリッシュワルツよりも曲テンポが格段に速くなった難易度の高いワルツ――ヴェニーズワルツだ。
しかし、たとえどんなに難しくとも2人に踊れないダンスはない。足を動かし、腕を動かし始めれば、いとも簡単に2人は曲の流れと一体になる。
延々と回り続けるそのワルツを、芽榴と慎は楽しげに踊っていた。内回りと外回り――ギリギリまで相手の足に自分の足を近づけて体を滑らせても、一切その足が絡まることはない。
互いが互いを高みへと導いていく、美しい動きも表情も、すべてが2人のパフォーマンス。
「……慎様」
たとえ『放蕩息子』でもラ・ファウストで優雅に踊る慎を知るお嬢様はその姿に見惚れずにはいられない。
「……こんなダンス見たことがない」
そして慎に軽蔑の視線を向けていたセレブたちも、そのダンスを目にしてしまえば即座に慎への考えを改め直してしまう。
それほどまでに美しい。ラ・ファウストで踊ったときよりもはるかに息の合ったダンスが繰り広げられる。誰もが終わりを惜しむほどの綺麗なダンスを――――。
「簑原さん」
「何?」
ダンスを踊りながら、芽榴と慎は言葉を交わす。
「ネックレス、ありがとうございます」
芽榴がそう告げると、慎の眉が少しだけ上がった。慎の腕で回されながら、芽榴はそんな慎の顔をちゃんと見ていた。
「……全然聞こえねぇな」
慎はそう言って薄く笑う。
本当のことを口にしない――代わりに慎は、最高のリードで芽榴をもてなした。
誰もが認める最高のダンス――。
2人の足が止まり、ダンスが終わると、拍手の渦が芽榴と慎を囲んだ。
今まで、芽榴以上に浴びることのなかった賞賛を慎はその身に感じていた。
長いようで短かった楽しいパーティーも、もうすぐ終わる。
慎とのダンスに感動した坊ちゃんやおじさまは「芽榴とダンスを踊ってみたい」と芽榴に詰め寄った。もちろん、慎にも同様のことが起きている。それでも芽榴は上手い言い訳で、すべてのお誘いを断った。
芽榴のダンスパートナーはすでに先約済み。特に交わされたわけでもない約束だけれど、当たり前に存在する約束は誰にも覆せない。
「るーちゃん、踊りましょ」
来羅に手を差し伸べられ、芽榴は迷うことなくその手をとる。簡単なブルースを踊りながら、芽榴は来羅に笑いかけた。
「来羅ちゃん、仲直り……できたよ、私」
芽榴がそう告げると、来羅は「そう」と軽く返事をして芽榴に笑顔を返した。
「じゃあ、アップルジュースで乾杯しなきゃ」
来羅は嬉しそうにそう言って、芽榴の手を送りだすようにして手放す。
次に芽榴の手を掴んだのは、絶対女性と踊らないことを決め込んだ翔太郎だった。
「私は葛城くんと踊ってもいーの?」
「……今更なことを聞くな」
わざとそんなことを言う芽榴に、翔太郎はそっぽを向いて答えた。芽榴だからこそ翔太郎と踊ることができる。でも翔太郎はそんなことを絶対口にはしない。
「何を笑っている」
「別にー。ただ、嬉しいなーと思ってね」
芽榴はそう言っていつもの呑気な笑顔を見せた。やっと見られた芽榴らしいはにかんだ笑顔に翔太郎の顔が赤く染まり始める。
「き、貴様……っ」
「葛城くん、長いです」
翔太郎が思わず芽榴の手を離した隙に、有利が芽榴の手を引いた。
有利に倒れこまないようにブレーキをかけ、芽榴はそのままステップを踏みなおす。有利がソッと芽榴の腰に触れ、芽榴も有利の肩に手をかけた。
「楠原さん。ピアノ、上手でした」
有利が静かに告げると、芽榴は少しだけ上を向いて「本当?」と聞き返す。だから有利は「上手でした」ともう一度しっかり芽榴の目を見て答えた。
「ありがとー。でも藍堂くんこそ、日本刀なんてかっこよすぎだよ」
芽榴にかっこいいと言われ、有利は少しだけ気恥ずかしそうに視線を逸らす。でもすぐに冷静な顔つきに戻って、有利は口を開いた。
「だって……楠原さんに負けていられませんから」
有利の答えに、芽榴は少しだけ驚く。でも有利の言葉の意味がちゃんと分かった芽榴は嬉しそうに微笑んだ。だから有利はスッと芽榴の腰から手を離す。その意図をくんで後ろを見やれば、風雅がそこに構えていた。
「蓮月くん」
芽榴は風雅の肩に手をのせる。風雅は少しだけ不安げに芽榴の腰に手を添えて、芽榴の手をギュッと握りしめた。
「芽榴ちゃん、おかえり」
風雅は芽榴の顔を見て嬉しそうに笑った。「行ってらっしゃい」の後には必ず「おかえり」がある。そう信じて風雅は芽榴を見送った。それは芽榴も同じだった。
「ただいま」
そう言えると信じて、芽榴は前に進んだ。あのときみんなと交わした「行ってきます」と「行ってらっしゃい」は必ずここに戻ってくるという――暗黙の約束だった。
ぎこちないけれど初々しいダンスは芽榴と風雅の懐かしい思い出。
「足、踏んだらごめんね」
「そのときは即交代してもらうからいーよ」
それは文化祭の後夜祭と同じ会話だ。あのときの2人に戻れたことを感じて2人は笑った。
楽しい芽榴の耳には、残り1人のパートナーの声が聞こえる。
「芽榴」
その声を聞いた風雅は名残惜しむように芽榴の手を離す。指先を最後まで触れ合わせ、風雅は芽榴を送りだした。
クルリと回る芽榴の手を引くのは、もちろん颯だ。
慣れないダンスも颯は優雅にこなす。それは驚くべきところなのだろうが、今さら芽榴が颯に驚くことは何もなかった。
「……正解に、辿り着けた?」
「うん。……なんたって私には最強の味方がいるからねー」
颯の問いに、芽榴は少しおどけた仕草で返答する。芽榴の返事を聞いて、颯は楽しげにククッと喉を鳴らして芽榴の腰を引き寄せた。
「芽榴……戻ってきてくれてありがとう」
颯の声が芽榴の耳元で響く。本当に安心したように颯は心からの喜びを芽榴に伝えた。
嬉しすぎるその言葉に、返せるふさわしい言葉が思いつかない。だから芽榴はただ微笑むだけ。颯が芽榴の思いを理解するのに、言葉など必要なかった。
薄く笑った颯は芽榴の手を離し、再び来羅の元へと芽榴を運んだ。
楽しげな芽榴を見つめる東條は幸せそうな顔つきのまま、舞台の裏へと姿を消す。包み込む優しい音にあわせ、芽榴たちはパーティーの終わるときまでずっと踊り続けていた。




