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麗龍学園生徒会  作者: 穂兎ここあ
霜花編
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178 脱走と寒空

 芽榴は主賓ルームを出て行く。その手に楽譜はない。


「……」


 芽榴は自分の足をエントランスのほうへと進めていた。靴音は立てない。それは無意識に芽榴が気を付けているパーティーマナー。

 芽榴の逃げ道の途中には役員たちが待機している待合室がある。その部屋を視界に入れ、芽榴はそのまま通り過ぎた。聖夜のしようとしていることも、颯があんな顔をした理由もわかった今、芽榴はこのパーティーから逃げることしか頭に浮かばなかった。


「芽榴、どこに行くの?」


 待合室を通り過ぎた芽榴の耳に、颯の声が届く。足を止めた芽榴は後ろを振り返らない。


「……楠原さん」


 次に聞こえたのは有利の声。

 芽榴の後ろには颯と有利がいた。他の役員よりも早く余興の準備を済ませた2人は待合室の外にいたらしい。そして2人は芽榴がこの通路を過ぎ去るのを見逃さなかった。


「……余興はもうすぐ始まるよ」


 颯の言葉がまるで本当に何事もないかのように響いて、芽榴は鼻の奥がツンとするのを感じる。


「ごめん、私……余興には参加できないや」


 懸命に明るい声を振り絞った。取り繕ったところですべて伝わっている。颯も有利も、みんな全部分かって聖夜の余興要請を受けたのだ。


「……何、言ってるんですか。……楠原さんは役員の一員で、あなたなしで余興なんかできませんよ」


 そう、芽榴は役員の一員。麗龍学園の生徒会役員で余興をする。芽榴を欠くことなどできない。でもそれはもっともらしい言い訳でしかない。


「2人とも知ってるんでしょ? ……余興の後……あの人に会うって」


 芽榴の言葉に、背後の2人は息を呑んだ。


 これは芽榴のために催される余興。芽榴なしで余興をしても意味がないだけ。それを芽榴は分かっていた。


「私がみんなに本当のことを話したのは、過去のことをどうこうしてほしかったからじゃ……っ」


 芽榴は言葉に詰まる。そんなことを、言いたいわけではない。

 そう気づいたときには、すでに芽榴の中の不安と恐怖が大切な人を傷つけていた。


「芽榴、僕は……」

「……ごめんなさい」


 もう何も聞きたくなくて、芽榴は走りだしていた。決定したのは颯で、その颯が追いかけても今は芽榴の不安を煽るだけ。だから代わりに有利が芽榴を追いかける。


「楠原さんっ!!」


 ヒールで走りにくいはずなのに、芽榴の足は速い。

 エントランスを抜けて寒い外に出て行く。肩も首も白い肌がさらけ出されたまま、芽榴は何も羽織っていない。


「楠原さん、待ってください!」


 着物を着て、芽榴と同じくらい走りにくいはずなのに有利はそれでも芽榴に追いつく。有利は勢いに任せて芽榴の腕を掴み、その足を止めた。互いに息切れしていて、吐き出す息は白い。


「離して」

「嫌です。今は、絶対離しません」


 そう言って有利は芽榴の腕を引っ張る。芽榴が反動でよろけた隙に、有利は自分の藍色の羽織を芽榴の肩にかけた。


「やめて。藍堂くんが風邪ひくから」


 羽織を返そうとするが、有利は芽榴に着せた羽織の襟元を握ったまま。芽榴が脱ぐことを許さない。

 どちらにしろ、今の2人の格好はイブの夜に外を歩く格好ではない。冬の外に立つには、芽榴も有利も薄着すぎる。


「心配してくれるなら、一緒に戻りましょう?」


 有利が芽榴の顔を覗き込む。綺麗な芽榴の顔はどうしようもない不安で押しつぶされて歪んでいた。


 有利の優しさは芽榴の不安を深くする。


「藍堂くん……私は今のままでいいの」

「……はい」


 それは有利の願いでもある。今のままでいてくれたら芽榴は有利のそばにいてくれる。だから芽榴の言葉は有利にとって嬉しいのに有利は素直に喜べない。


「お父さんとお母さんと圭が、私に全部教えてくれた家族だから……。私は今もこれからもずっと楠原芽榴でいたいの」

「……はい」


 有利はただそう頷くだけ、芽榴の言葉に賛同も反論もしない。だから芽榴の言葉は止まらなかった。


「でも、あの人が近くなればなるほど……戻れるんじゃないかって、楠原芽榴でいたいのに……東條芽榴に戻りたくなって……」


 芽榴はグロスで潤う綺麗な赤色の唇を噛んでしまう。誰が何と言っても、最低な父親だと言われても、芽榴にとって東條賢一郎は生まれ落ちた時からの憧れの人。常に手を伸ばし続けた人なのだ。


 聖夜がこのパーティーに芽榴と役員を招待した本当の理由は、芽榴と東條を引き合わせて仲を戻すことにある。そのお膳立てとして役員の余興と芽榴のピアノが必要だった。


 たったそれだけで芽榴が『東條芽榴』に戻るわけではない。でも、その場で芽榴が東條にそうなることを望めば東條はそれを断らない。あらゆる手を使って芽榴を『東條芽榴』に戻す。東條は芽榴の願いを壊さない。だから、すべてを決めるのは芽榴だ。


「ピアノなんて弾けない。弾かないんじゃなくて弾けないの」


 芽榴はそう言って有利の手に触れた。

 触れた瞬間に、有利は目を見張る。芽榴の手は震えていた。それはきっと寒さのせいではない。


「楠原さん……」


 上手に弾きたい。あの曲を東條に聴かせるためだけに、十年前の芽榴はピアノを弾き続けた。絶対に上手く弾かなければならない。でもそれを許されるのも東條芽榴としての芽榴だった。


「私には、弾けな……」

「しっかりしてください」


 有利はそう言って芽榴の震える手を握り返し、芽榴のことを包み込むように抱きしめた。


「もう逃げないって、楠原さんは僕に約束しました」


 有利の声は優しく芽榴の耳元で響く。芽榴の震えは止まらないけれど、それでも有利の声は芽榴にちゃんと届いていた。


「僕は楠原さんに東條家の人間に戻ってほしいわけじゃないです。そうなったら楠原さんが遠くに行っちゃいそうで……僕も嫌です。情けないですけど、それが僕の本音です」

「なら……なんで藍堂くんまで琴蔵さんの話、受けたの? なんで反対しなかったの」


 芽榴は有利の着物を握りしめる。芽榴の気持ちは皺が寄る着物にすべて表されていた。

 それほど芽榴がみんなのことを思っているように、有利も芽榴を思っている。だから有利が、役員が芽榴のために動くことに本当は理由などいらない。でも強いて理由をあげるなら――――。


「……楠原さんのおかげで、僕は功利と仲直りできました。だから楠原さんにも何かしてあげたいって、僕の自己満足です」

「……っ」

「楠原さん、僕はただ……楠原さんに心から笑ってほしいんです」


 そう言って、有利はギュッと芽榴を抱きしめた。


「楠原さんがたとえ東條芽榴さんに戻っても、僕が大好きな楠原さんはちゃんとここにいます」


 有利の言葉に、芽榴は目を見開く。

 芽榴の心が揺らいだその隙を逃すわけにはいかない。有利は芽榴の体を離して、もう一度芽榴と向かい合った。


「楠原さんのピアノ、僕も聴きたいです。大丈夫……絶対上手に弾けますよ」

「そんなの分かんな……っ」


 有利は芽榴の口にそっと指を添え、優しい声で「分かります」と言った。その根拠は有利の心の中だけのもの――。


「だって、楠原さんが奏でる音色なら……僕は絶対に綺麗だと思えますから」


 有利は薄く笑った。

 芽榴の息が止まる。すると、芽榴の手の震えも徐々に収まっていく。


「藍堂くん……それは、反則だよ」


 芽榴は掠れた声でそう言った。その顔には自然と笑顔が戻る。不安も恐怖も消えはしないのに、温かくなった心はそれさえも包み込んだ。


「そんなこと言われたら、絶対に上手に弾かなきゃダメじゃん」


 芽榴と有利の視線は絡み合い、互いに笑いあった。

 すると、パタパタと忙しない足音が芽榴たちの耳に響いてくる。今、芽榴たちがいるのは会場から少し離れた広場。


「るーちゃん、有ちゃん!!」


 やっと芽榴と有利の居場所を突き止めた来羅と風雅が息切れしながら2人のもとへ駆け寄った。


「わわっ! 芽榴ちゃんも有利クンもそんなんじゃ風邪ひくって!」


 風雅が青ざめた顔で有利の羽織の上から、持ってきた上着を芽榴にかける。来羅は有利に持ってきた上着を着せた。


「……大丈夫? るーちゃん」


 そう言って来羅は芽榴を心配そうに見つめる。風雅も芽榴を不安げに見下ろしていた。

 おそらく2人は颯から事情を聞いて慌ててやってきたのだ。


 心配をかけて本当にどうしようもない人間だ――芽榴は自分に呆れつつ、白い息を吐き出した。


「ありがとう。もう大丈夫」


 芽榴はそう言って笑いかけた。




 パーティー会場のあるホテルに戻ると、翔太郎が颯のそばにいた。


「楠原……」


 帰ってきた芽榴を見て、翔太郎は芽榴の名を呼ぶ。一瞬曇った表情は、芽榴の笑顔を見て晴れていった。


「神代くん」


 芽榴は背を向けたままの颯に声をかける。颯はちゃんと芽榴のことを振り返って、芽榴のことを見つめ返した。


 颯の瞳が揺れている。


 滅多に見ることのできないその表情を脳裏に焼き付けて、芽榴は颯にとびきりの笑顔を見せた。


「余興、成功させよ?」


 颯の手を握り、芽榴がそう言う。颯は面食らったような顔をし、次の瞬間には困ったような顔で笑っていた。


「……芽榴がいるなら、失敗なんてありえない」


 颯は芽榴に握られていないほうの手で、いつものように芽榴の頭をなでた。



 ――聖夜に指定された余興時刻まであと10分。

 芽榴は役員たちの優しさに包まれて、笑顔を絶やさなかった。

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