177 真実と楽譜
颯に言われた通り、主賓ルームまでやってきた芽榴はその扉の前にいる人物を見て一度その足を止める。
「簑原さん……」
「ようこそ、楠原ちゃん」
慎はそう言って芽榴に中へ入ることを促すようにソッと扉を開けてあげる。
「……」
慎の顔を芽榴はジッと見つめる。浮かんだのはさっき初めて目にした慎の兄の姿――。
「何? 俺の顔に見惚れてんの?」
慎は芽榴を挑発するようにニヤリと笑った。その姿は芽榴のよく知る慎のもの。だから芽榴は慎の兄のことは一旦頭の奥に沈める。
芽榴は読めない笑みを浮かべ続ける慎を一瞥し、扉の中へと足を進めた。
一歩足を踏み入れ、芽榴は自分を待っている聖夜の姿を瞳に映す。
部屋の中にいる聖夜はいつものようにソファーに座り、堂々とした姿で芽榴を部屋の中へと迎え入れた。
「こっち来い」
扉が閉まり、芽榴が部屋の中に入ったのを確認した聖夜は芽榴を自分のほうへと手招きする。
芽榴は聖夜のほうへと足を動かした。ラ・ファウスト学園で対峙したときはその足が重かったのに、今は違う。いつのまにか聖夜を拒む重石は芽榴の中から消えていた。
「……琴蔵さん」
芽榴は聖夜の目の前で止まる。前回の部屋の件もあり、聖夜の手が届かないところで立ち止った。
芽榴の姿を上から下までジッと見つめて、聖夜は満足げに微笑む。
「よう似合うとる。……綺麗や」
部屋に響くその声は、何の恥ずかしげもなくその言葉を言ってのけた。
「……最高級の美容施設でエステのフルコース受けましたから。あと、簑原さんにお化粧もしてもらったので」
芽榴が付け加えたように告げた最後の言葉に、聖夜は少しだけムスッと顔を歪めた。その顔を見て、芽榴は困ったように笑った。
「クリスマスプレゼント、ありがとうございます」
芽榴が聖夜にお礼を告げる。けれど、聖夜はエントランスで会った時と同じく「別に」と返すだけ。ただあの時よりも声音は優しかった。
「まあ……座れや」
芽榴が距離を保って立っているのが分かり、聖夜は自分の隣をポンポンッと叩いて芽榴にそこへ座ることを促す。芽榴もさすがに隣に座るくらいは大丈夫だろうと思って、フカフカのソファーにぽふっと腰かけた。
すると、聖夜の視線は自然と隣に座った芽榴の腕――自分があげたブレスレットへと向かう。
「つけてくれたんやな……それ」
聖夜の視線が自分の腕に向かっていることに気付いて、芽榴は少し照れくさそうにしながらも頷いた。
「はい……。こういうときに使わなきゃ、もらった意味がないですから」
芽榴はそう言って自分の首元に手を回す。シルバーのブレスレットが揺れてピンクゴールドのネックレスにチャリッと音を立ててぶつかった。――――それを聖夜は見逃さない。
さらけ出された芽榴の肌に、なじむように乗っかるハート形のネックレスは今日芽榴に出会ってからずっと聖夜の目を引いていたもの。
「そのネックレス……」
聖夜が眉を顰める。芽榴はとっさにネックレスを掴んだ。
――聖夜に余計なことは言うなよ?――
慎の言葉が頭に響く。芽榴は「あ」と声をもらし、言い訳を考えた。けれどいい言葉は浮かばなくて、苦笑するしかない。
「簑原さんがもってきてくれたんです。ネックレスまでプレゼントしてくれて……ありがとうございます」
芽榴がそう言うと、聖夜の眉がピクリとあがった。芽榴の言葉ですべてを察し、聖夜は唇を噛む。
「あのアホ……」
「え? ……琴蔵さん?」
慎の言う通り、聖夜を怒らせてしまったのかと芽榴は焦った。その焦りは聖夜の感情を煽るのに十分だった。
「……芽榴」
「え? わっ!」
聖夜はソファーに芽榴を押し倒す。反動で芽榴の体が揺れ、綺麗な黒髪がソファーの上に広がった。芽榴は慌てて起き上がろうとソファーに手をかけるが、自分から逃れようとする芽榴の手さえもソファーに押し付けるようにして聖夜は絡め取った。
「琴蔵さん、離してください」
「そう言うたら離すって、ほんまに思うとるんちゃうやろ?」
聖夜の顔は真剣。企むような笑みも浮かべてはいない。
芽榴はゴクリと唾を飲みこみ、自分の腕に力をこめる。けれど聖夜はそれよりも強い力で芽榴を抑え込んだ。聖夜に隙を見せたのは芽榴だ。芽榴の揺れる瞳を聖夜はしっかりと見つめていた。
そのまま聖夜は芽榴の首へと顔を近づけ、その首筋に触れるだけの優しい口づけを落とす。
「……綺麗な肌しとるわ」
「琴蔵さん、やめ……っ」
芽榴が「やめて」と言い終わる前に、聖夜は芽榴の首に顔を埋めた。聖夜を拒んだ芽榴は顔を背けるが、聖夜の狙いはそれ。現れた芽榴の項に、聖夜は吸いつく。
髪で隠れる、誰にも見えない――芽榴でさえ見ることのできない場所にしっかり自分の痕を残した。
「い……やっ」
腕の力は敵わない。代わりに芽榴は足をバタつかせる。そんなふうにして芽榴の抵抗が激しくなったのを感じ、聖夜の瞳が切なく濡れた。
「琴蔵さん……っ」
「……一つ教えといたる」
聖夜は芽榴の首から顔を離し、その首に飾られた可愛らしいアクセサリーを睨んだ。
「俺やったら、そないな可愛らしいのは選ばん」
聖夜の言葉に芽榴は目を見開く。開いた口から言葉は出ない。真実を知った芽榴の顔を見て、聖夜は目を細めた。
常に自分の先を行くくせに、最後の最後で譲ってしまう。それが簑原慎という男。それが彼の生き方であることを聖夜は知っていた。
「琴蔵さん……聞いても、いいですか」
「……なんや?」
「簑原さんの嘘は……いつから始まってるんですか」
慎の芽榴に対する評価はいつだって真実。彼の言葉に嘘はない。だから芽榴に関する慎の言葉だけは信じられた。
でも慎自身のことはその思いも生き方もすべてが嘘で塗り固められている気がしてならない。
「……それは、本人に聞かなあかんことやろ。俺が言うことちゃう」
聖夜の力が緩む。そのまま聖夜は芽榴から離れて、ソファーの上に座りなおした。
「ええ雰囲気で、他の男の名前出てもうたら気も削げるわ」
大きな溜息と共に聖夜は告げる。芽榴から背けた顔は儚く影を落とした。
その顔を知らないまま、芽榴はゆっくりと起き上がり、ソファーに座りなおす。少しだけ聖夜との距離を広くとって芽榴は口を開いた。
「……あの、琴蔵さん。私、余興の準備の件でここに来たんですけど……」
芽榴が本題に入る。すると聖夜はソファーの横にあるテーブルへと手を伸ばした。長い腕が伸びて、テーブルの上の冊子に触れる。
「お前には、役員が何かやっとるあいだ……これ弾いてもらう」
聖夜が芽榴に渡したのは楽譜。
確かパーティー会場には舞台の上に立派なグランドピアノがあった。
「お前んとこの会長には伝えとる。その曲目と時間を伝えて、それに相応しい余興をやってみせろって言うた」
つまりは役員のパフォーマンスは芽榴のピアノを引き立たせるための余興。
芽榴は訝しく思いながらパラパラと楽譜をめくる。有名な曲目がそこには載っていた。弾いたことのない曲はない。たとえあっても楽譜さえあれば弾くことはできる。
「ピアノなんて私じゃなくても……」
そして芽榴は最後の曲目を見て、その冊子を手から滑り落とした。
唖然とする芽榴を見つめつつ、聖夜はソファーから立ち上がる。
「琴蔵さん! 私は……」
「弾いてみせろ」
芽榴よりも先に聖夜はそう言って、芽榴の逃げ道を消し去った。
歩みを進め、扉に手をかけた聖夜はソファーに座ったままの芽榴を振り返った。
「それと……余興は主賓への捧げものや。せやから余興の後、役員には別室で個々に東條に挨拶してもらうで」
追い打ちをかけるような聖夜の台詞に、芽榴はもう何の言葉も紡げない。
「……芽榴。お前はその曲を、誰に聴いてもらいとうて上手くなった? それを思い出せ」
聖夜はそんな芽榴を切なげに見つめる。
「これが、お前の望みのはずや」
聖夜はそう言い残し、扉の向こうに消えていった。
芽榴は放心状態のまま、床に落とした楽譜を拾い直し、もう一度その曲目を確認する。
最後の曲は芽榴を最も苦しめる最愛の曲。
「……弾けるわけ、ないじゃないですか」
会場にいる〝憧れだった人〟を思い浮かべて芽榴は泣きそうになる。楽譜を強く握りしめ、芽榴は顔を覆った。
「東條芽榴は……もういないのに」
それを言葉にする芽榴の声は、押しつぶされそうな思いで掠れていた。




