167 天地と対等
慎を見送り、聖夜の部屋へと芽榴は戻ってきた。
聖夜はさっきと変わらずソファーに腰掛けている。けれどドアの音で芽榴が戻ってきたと分かっているのに、聖夜は何も言わない。
そんな聖夜が少しだけ不気味で、芽榴はソファーの前まで歩き、聖夜と向かい合った。
「戻りました……」
頬杖をつく聖夜は目の前の芽榴に目を向けない。芽榴ではないどこかへと視線を投げていた。やはり聖夜を放って慎を追いかけたのはまずかったのか。芽榴がそんなふうに考えていると、聖夜がやっと重たい口を開いた。
「慎は見送れたか」
「はい」
芽榴の返事に聖夜は再び黙った。投げられた視線は微かに下を向く。そして何かを考えた後、聖夜は息を吐き出すようにして言葉を紡いだ。
「……なぁ、芽榴」
聖夜は芽榴の姿をジッと見つめる。一切逸れることのない聖夜の視線から、芽榴は逃れることをしない。
「俺と慎、川で溺れたら……お前はどっちを助ける?」
突拍子もない質問。けれど、その答えは誤魔化していいものでも、適当に返していいものでもない。それだけは芽榴に分かった。
しばらくの沈黙の後、芽榴はたった一つの答えを選び抜いた。苦笑しながらも芽榴はそれを口にした。
「……琴蔵さんを、助けます」
その答えに聖夜は目を見張る。芽榴が自分を選ぶ。それは聖夜の望んでいたこと――それなのにいざ口にされると違和感しか残らなかった。
「なんで、や」
聖夜の声は詰まった。芽榴の苦笑いが頭に残る。芽榴が自分に気を使ったのだという考えに支配され、芽榴の答えを素直に喜べない。
聖夜を選んだ理由を問いかけられた芽榴は、困ったように頬をかいて笑った。
「なんて言うか……簑原さんが溺れてるところは全然想像できなかったんです」
芽榴の答えに聖夜は眉をあげ、次の瞬間には目を細めた。
「それは……俺やったら溺れる想像できた言うことか?」
「ってなりますよね。だから、すみません」
芽榴の苦笑いの理由はそれだった。聖夜には得意不得意がちゃんとある。だから、もしかして泳げないかもという想像は可能圏内だった。だからと言ってすぐにその姿が想像できたかといえばノー。
けれど慎に至っては、全然想像がつかなかった。彼は絶対に溺れない。まず溺れるようなことにさえならない気がした。
だから芽榴はそう答える。聖夜と慎、どちらが大事なのかではなく、彼らの本質からその質問の本当の答えを芽榴は導いた。
「お前らしいわ」
理由を聞いた聖夜は、そう言ってフッと笑みをこぼす。やっと聖夜が笑ってくれて芽榴は肩を撫で下ろした。
そうして芽榴は改めて聖夜の姿をマジマジと見つめる。今日の聖夜は終日フリーと慎から聞いていた。一日中家で休んでるだろうから、と彼の家まで押しかけてきたのだ。
しかし、家で寛いでいたというのに聖夜の身なりはしっかり整っている。
髪はワックスをつけていないからか、いつもよりしっとりしているが寝癖はない。もちろん、服も寝間着ではなくちゃんとした服で、おそらくブランド物。
聖夜の姿を見て、芽榴はその視線を自分へと移す。彼の目の前に立ってていいのか悩んでしまうほど、適当な格好だ。芽榴はハァーッと盛大に溜息を吐いた。
「芽榴」
「え? ちょ、琴蔵さん」
溜息の後、聖夜に名前を呼ばれ、芽榴は慌てて首を上げた。けれど聖夜の手が芽榴の腕へと伸び、芽榴はそのまま聖夜に引っ張られて彼の上に倒れこんだ。
ソファーの上で聖夜の胸に抱きとめられた芽榴は自分の心臓が激しく脈打つのを感じる。「先日禊をしたばかりだと言うのにまた浮かれ始めた」と芽榴は頭の中で自分に呆れてしまう。
「すみません、琴蔵さん。すぐに退きますから」
「離さへんわ、アホ」
こうなることを狙って、腕を引いたのだ。聖夜の意見は当然。
聖夜は芽榴の腕から手を離し、芽榴の腰を抱く。しっかりと体を固定され、芽榴は完全に逃げられなくなった。
さすがの芽榴でも聖夜の膝の上に乗って尚且つ抱きしめられたままでいれば緊張を通り越して胸をときめかしてしまう。そんな自分が気持ち悪くて、芽榴は一生懸命思考を逸らすことに集中した。
「部屋は広いんですから……こんな狭苦しいことしなくても」
「今日は……寒いねん。お前は温いから、しばらくこれでええやろ」
もちろん聖夜の家は暖房が入っていて適温。外は確かに寒いが、この部屋は全然寒くない。芽榴に至っては今の体勢のせいで暑いくらいだ。
「寒いなら暖房の温度あげればいいじゃないですか」
「……俺は環境に優しいんや」
芽榴に最もな指摘を受け、慌てて聖夜が取り繕う言葉はやはり滑稽になってしまう。
聞いた芽榴は思わずカラカラと笑った。
「毎日、車で登下校する人が言いますか? それ」
どんなに抵抗をしても、聖夜はきっと離さない。どれほど変な言い訳でも貫いて、芽榴を抱きしめたままでいる。
それが分かるから、芽榴も「離して」ということをやめた。
「……琴蔵さん」
「なんや?」
「みんなに、ちゃんと言えました」
芽榴は小さな声で言った。
顔をあげれば、すぐそこに聖夜の顔がある。だから芽榴は緊張しないように、置き場所が分からず胸で合わせた自分の両手をジッと見つめた。
「……知っとる。せやから、迎えに行くんは……また先延ばしや」
聖夜はさっきとは違う真面目な声でそう告げた。聖夜の声はどこか切ない。きっと表情はもっとその感情を露わにしているはず。
「琴蔵さん」
でもそれを見たら心が揺らいでしまいそうで、芽榴はもっと顔を上げられなくなる。
「私はラ・ファウストには行きません」
芽榴は冷静に、心を落ち着かせてそう言った。それは芽榴が決めたこと。これから先もずっと芽榴はラ・ファウストに転校することはない。
「私の居場所は、麗龍にあります」
あの選挙で、芽榴は確かに勝ち取った。大切な居場所をその手で守り抜いたのだ。でもそれは芽榴の力一つでは絶対に守り切ることのできなかった居場所。
「……きっかけをくれて、ありがとうございました」
芽榴はそう言って聖夜の胸にコツンと頭を預ける。今回はちゃんと「ありがとう」が言えた。
芽榴が芽榴らしくいられるようになったことを実感し、聖夜も微笑んだ。
「俺が自分のため以外で動くんは、世界で唯一お前のためだけや」
それは紛れもない事実。躊躇うことなくそれを告げて聖夜はクスリと笑う。
「……過去の私に感謝しないと、ですね」
芽榴も薄く笑みを浮かべた。元は日本一のお嬢様。聖夜が芽榴のために動くのはそんな芽榴に対する唯一最大の敬意の証。芽榴の認識はそうだ。確かにそれも間違いではないが、聖夜の言葉に含まれる最も大きな感情は芽榴の元に届く前にすべて欠落してしまう。
芽榴と聖夜のあいだにある、決定的な身分差がその感情を霧の中へと葬るのだ。
「ほんまは、その差かてあらへんのに……」
「……差?」
芽榴が聞き返しても聖夜は返事を与えない。言ったところで、どうにかなる問題ではないのだ。
聖夜は芽榴の髪を一掴みし、サラッと梳く。けれど長さに物足りなさを感じるのか、聖夜は髪が手から流れ落ちた後もしばらく手を宙に浮かせたままでいた。
「せや……お前に言っとかなあかんことがあんねん」
聖夜がふと思い出したように、そう言う。芽榴は「何ですか?」と尋ねた。そう言えばここに来る前、慎が「主人が会いたそうにしていた」と言っていた。きっと聖夜がこれから言おうとしていることに関係あるのだろう。芽榴はそう直感した。
「イブの日、あいとるか?」
「イブ……ですか」
クリスマス以降は完全に予定が詰まっている。しかしどういう偶然か、イブの日はまったく予定はなかった。
「あいてますけど……」
芽榴が答えると、聖夜は「ほな、安心や」と言って微笑を浮かべる。
「イブに、こっちでパーティーがあんねん。ああ、今回はラ・ファウストのちゃうで」
夜会のことを思い出し、半目になっていく芽榴に聖夜はちゃんと説明を付け足した。
「今回のパーティーにくるんは年齢層は上から下までさまざま。それこそ階級も最上級から下までちゃんとおる」
「なんで私を連れて行くんですか?」
芽榴は困ったような顔で聖夜に尋ねる。どんなパーティーであっても聖夜は立場上、主賓に位置付けられるはず。学園主催でない公のパーティーなら尚更、名目だけであっても庶民の芽榴が聖夜の隣にいていいわけがない。
「天下の琴蔵家の子息が、誰も招待せんのはあかんやろ」
「だからって……」
「お前がそう言うと思って、今回は麗龍の役員衆にも招待状送っとる」
「は?」
聖夜の発言で芽榴は固まった。
「セレブのトップ校と庶民のトップ校。友好関係ある言うんは世間的にも納得の話や。せやからお前誘ったかて何の問題にもならへん。せやろ?」
文化祭後の記事と謹慎で、聖夜は自分の立場をちゃんと理解した。だから聖夜は芽榴に会うために最もベターな方法を考え、そして不服ながらも役員全員を招待すると決めたのだ。
「ほんまはクリスマスに会いたかってんけど、大阪で琴蔵本家主催のパーティーも控えとんのや」
聖夜はそう言って残念そうな顔をする。対する芽榴はそれを聞いてホッとした。クリスマスは芽榴にも外せない大事な予定が入っている。
「当日は迎え行く。お前のドレスも俺が用意したるから何も考えんでええ」
「え……私は役員のみんなと一緒に行き」
「あかん」
即答で返され、芽榴は目を細める。聖夜は芽榴を誘っても怪しくないように役員を誘ったのだ。でもそんなことをすれば結局芽榴だけ特別扱いで変なことになるだろう。
「また、変な記事書かれるかもしれませんよ?」
芽榴は困ったように言う。自分のせいでこれ以上聖夜に負担がかかるのは嫌だった。
「今度はそないな記事書いた編集社を片っ端から潰していくから問題あらへん」
「いや、問題しかないですよ」
「……理由なんていくらでもうまいこと言えんねんからお前が心配することあらへん」
それこそ心配だ。芽榴を自分の膝の上に置くための言い訳だけでも聖夜の言い分は相当酷かった。
芽榴が溜息を吐くと、聖夜は「なんやねん」とひねくれる。
「それくらいしても罰当たらんやろ。役員共は毎日会えてんけど俺はこういうときしか会えへんねん」
「そりゃあ他校ですから」
「せやから迎え行く言うとる」
「私はラ・ファウストに行く気は……」
「分かっとる」
芽榴の言葉を聖夜は言わせない。芽榴の腰を抱く力が緩む。芽榴はそれを感じて、すぐに聖夜の膝から立ち上がった。しっかり掴んでいないと、芽榴はそうやってすぐに聖夜の腕からすり抜けていってしまう。
「あんま遅くなるんも楠原家が心配するんやろ」
「はい。だから、もう帰ります」
芽榴は荷物を拾って、そのまま聖夜の部屋を出て行こうとする。しかしそんな芽榴を、腕を掴んで聖夜が止めた。
「アホ。一人で帰さへんわ。車呼ぶから待っとれ」
「えー……。さっき環境に優しいって言ってたじゃないですか」
芽榴は痛いところをついてくる。聖夜の車はとにかく高級車だから庶民の住宅街を通ると、ご近所さんからの視線が痛いことこの上ないのだ。
けれど聖夜もやはり譲るわけにはいかない。
「環境よりも女には優しくせなあかんやろ」
また無茶な言い訳だ。聖夜が女に優しくするなど想像がつかない。もちろん聖夜の言う〝女〟はただ一人だけ。
「……さすがは日本一の紳士様ですねー」
聖夜のこれまた疑問だらけの言い分に芽榴は肩を竦める。
芽榴ではない他の誰かがこんな態度をとれば、確実に聖夜はキレる。
聖夜に戯けた態度をとっていいのも、彼を振り回すことができるのも、世界で唯一芽榴だけ。
元は対等、今は天地。
世間の視線はそうだけれど、それでも2人でいるときだけは今もなお芽榴と聖夜は対等でいられるのだった。




