165 風邪菌と保健室
期末期間が始まった。
開始のベルが鳴り、教師の合図でみんながシャーペンを手にとる。静かな教室にはカリカリとペンを走らせる音だけが響いた。
時計の針はゆっくりゆっくり着実に進む。
「……よし、終わり」
監視の先生がそう言い、みんなシャーペンを置き直す。後ろの人から順番にテスト用紙を前に渡して先生がそれを回収すると休み時間だ。
「はぁー、疲れたっ。英語難しかったなぁ。芽榴はできた?」
舞子が芽榴の席にやってきて尋ねる。テスト中は出席番号順の席になるため、いつもの席ではない。舞子がやってきて、ボーッと一点を見つめていた芽榴はハッと意識を戻した。
「え? あー……あんまり自信ないかも」
芽榴は笑いながら返事をする。舞子は軽く息を吐いて「またまたぁ」と言って眉を下げた。
「自信ないって言っても、どうせいい点とってくるんでしょ?」
「あははー」
確かに分からない問題はなく、全問題解ききることはできた。けれど、いつもより大幅に解く時間がかかってしまったのは事実。シャーペンを持つ手が重く感じられて、全部解き終わったのは終わりの合図とほぼ同時だった。
「ごめん、舞子ちゃん。ちょっとトイレ行ってくる」
芽榴は申し訳なさそうな笑みを浮かべ、舞子にそう断って教室を出て行った。
芽榴はボーッと廊下を歩いている。F組からお手洗いまでは少し距離がある。D組とE組のあいだにあるため、とりあえずE組を過ぎなければならない。
テクテクと歩みを進めるが、どこか頭がフワフワしていた。
「楠原」
ボワンボワンと耳鳴りがする。不快な膜の外で名前を呼ばれた。視線を横にずらして、芽榴は自分に呼びかけた人物を見つめる。
「葛城くん、おつかれー」
芽榴はちょうど教室から出て来た翔太郎に、フニャンとした顔で笑いかける。翔太郎はそんな芽榴の姿を視界に収めて、少しだけ目を見開いた。
「……っ、なんだ。そのだらしない顔は」
「ひどー。女の子の笑顔をだらしないとか言うー?」
翔太郎の指摘に、芽榴はそんなふうに返す。でも翔太郎らしい反応であるため、芽榴はカラカラと笑った。
「さっきのテスト、できたか? ……貴様に限ってできてないはずがないか」
「それは自問自答ー? 葛城くんこそ、できたの?」
芽榴が尋ねると、翔太郎は少し不機嫌な顔をする。自分が思っていたほどの手応えがなかったのだろう。そんな翔太郎の態度に、芽榴はまた笑った。
「楠原……さっきからずっと笑っているが、そんなにテストの手応えがあるのか?」
「手応えあったくらいで笑ってたことないけどー。ていうか、そんなに笑ってる?」
芽榴はそう言って首を傾げた。その芽榴の顔も笑顔だ。笑顔というより目元がトロンとしている、という表現のほうが似つかわしいレベルだ。と、そこまで考えて翔太郎は眉を顰めた。
「葛城くん。え、何」
翔太郎が芽榴の額に手を当てる。翔太郎の手はとても冷たい。その冷たさは芽榴が心配になってしまうほどだ。
「手冷たいよ。大丈夫? 冷え症?」
「馬鹿か、貴様は」
翔太郎は呆れ顔で芽榴のことを見つめる。そして芽榴の額から手を離し、そのまま翔太郎は芽榴の腕を掴んだ。
理由を説明されることなく、芽榴は翔太郎によってどこかへ連行されてしまうのだった。
「39度8分」
翔太郎によって保健室に連れて来られた芽榴は体温計が示す自分の体温を告げた。芽榴自身、予想以上に高い自分の体温に驚いているようだった。
「すごい高熱ね。早退する?」
保健医にそう問われ、芽榴はブンブンと首を横に振った。早退しないと言い張る芽榴に、付き添いの翔太郎は怖い顔をする。
「楠原、もう今日は帰れ」
「嫌だよ」
「楠原!」
「テストは受けて帰る。先生、保健室受験していーですか?」
「いいけど、大丈夫?」
保健医が心配そうに芽榴を見つめる。芽榴はニコリと笑って「大丈夫です」と答えた。芽榴の意思を尊重し、保健医はその旨を連絡するために一旦保健室を離れた。
いつ倒れてもおかしくないほどの高熱なのに、翔太郎が説得を試みても芽榴は「期末テストを受ける」と言うことを聞かない。
「その熱で、まともに問題が解けるのか」
「ボンヤリしても記憶は変わらないもん」
芽榴はそう言って翔太郎のことを見上げた。芽榴の瞳は熱で濡れていて、先ほど同様トロンとしている。そんな顔で注視されるのは何とも言えない。耐えられなくなった翔太郎はプイッと芽榴から目をそらした。
「テスト前に風邪をひくなど、どれだけ張り切って勉強したんだ。貴様は」
「ちゃんと勉強はしたけど、徹夜はしてないよー」
芽榴はそう言って苦笑する。芽榴にはこの高熱の原因に思い当たることがあった。
「昨日、水浴びしたからかな……」
「この寒い冬に、水を浴びたのか?」
翔太郎は信じられないという顔で芽榴を見ていた。確かに今は12月。たとえ家の中が暖かいとしても、子供とて水浴びはしないだろう。
「勉強のしすぎで頭が壊れたか」
「あははー。そんな反応すると思ったんだよねー」
芽榴は予想通りの反応を返してくれた翔太郎に笑みを向ける。翔太郎の言うとおり、今日の芽榴は顔に締まりが無い。
「家に帰って寝ていればいいものを」
「首席の座は譲りたくないから」
高熱でも、芽榴はテストで翔太郎に負ける気がないらしい。もちろん、毎回同点の颯にも。
翔太郎が困り顔で溜息を吐くと、保健医がパタパタとスリッパ独特の音をたてて戻ってきた。
「連絡は済ませたわ。じゃあ、葛城くんはテストに行ってらっしゃい」
「はい」
「葛城くん、ありがとー」
いつもより数倍のんびりした態度で芽榴は翔太郎に手を振る。翔太郎は大きな溜息を一つ残し、そのまま保健室を後にした。
テストが終わり、翔太郎はF組へと姿を現した。役員の中でも堅物、葛城翔太郎が登場すると、F組には少しだけ緊張が走る。
「あ……。葛城くん、もしかして芽榴の荷物取りにきた?」
芽榴の荷物をまとめていた舞子は翔太郎の存在に気付いてそう声をかけた。そして舞子は一定の距離を保って翔太郎に話しかける。いまだに、この距離を縮めることが許されている女子は芽榴だけ。
「ああ。だが、貴様が持って行くのなら問題ない。俺は失礼する」
「あ、待って待って」
教室に足を踏み入れ、翔太郎は淡々と確認をとって踵を返す。けれど、そんな翔太郎の歩みを止めたのは舞子だった。もちろん彼の体に触れたりはしない。
「葛城くんが芽榴に持って行ってくれる?」
「……なぜだ」
翔太郎は訝しそうに問いかける。悪気はないのだが翔太郎の視線は鋭く、射抜かれた舞子は少し怯んでしまった。
「えっと、そのほうが……芽榴も喜ぶかなーって」
「それはないだろう。くだらん」
翔太郎にバッサリと否定され、舞子はうっと言葉に詰まる。基本舞子は役員が芽榴と一緒にいるという美味しい光景を目にしたいだけなのだ。
そんな舞子の考えなど知らない翔太郎は少しだけ考えるようにして眼鏡のブリッジをあげた。
「しかし……貴様が行かないのなら俺が行っても構わん」
「え?」
翔太郎の反応に、こっそり聞き耳を立てていた女子組も反応する。F組女子の意識は翔太郎に集まった。
「あ、あはは。私はこの後用事があって、葛城くんが行ってくれるとありがたいわ」
舞子はそう言って、すばやい動きで翔太郎に芽榴の荷物を預ける。すると、翔太郎は仕方ないと言わんばかりに軽く息を吐いた。
「ならば、俺が持って行ってやる。楠原の荷物はこれで全部か」
「うん、全部」
舞子に最終確認をとり、翔太郎はF組を出て行った。
もちろん翔太郎がいなくなった後のF組は瞬時に騒がしくなる。それも特に女子組が。
「きゃあーっ! 葛城くんの今の見た!?」
「見た見た! 予想通りだったね。もう顔のニヤニヤ我慢するの大変だった!」
そう言って盛り上がるF組女子を男子組はやはり半目で見つめている。滝本も半目男子の一員だ。
「いやぁ、やっぱり葛城くんは楠原さんの前だとデレが入るのね」
翔太郎のツンデレ説が立証され、F組女子はテスト期間なのに大はしゃぎ。完全浮かれモードに入ってしまうのだった。
「失礼します」
翔太郎は保健室の扉を開ける。入ってきた翔太郎を見て、保健医は少し驚いていたがすぐにニコリと笑った。
「楠原さんの荷物、葛城くんが持ってきてくれたの?」
「……頼まれたので、仕方なく」
翔太郎は眼鏡の蝶番付近に触れながら、目をそらしてぶっきらぼうに告げる。そんな翔太郎の様子を見て、保健医は少し申し訳なさそうに笑った。
「でも楠原さん。テスト終わってそのまま眠っちゃったの。お母さんが迎えに来るみたいだから、それまで寝かせておいてあげて」
元々起こす気などない。保健医が忠告したいのは、せっかく来てくれたけど芽榴とは喋れないということだ。
「テスト終了のベルが鳴ったらそのまま眠ったの。相当きつかったと思うけど」
「自業自得ですが」
翔太郎は保健医の話にそっけなく返事をする。間違いなく、昨日考えなしに水浴びをした芽榴が悪い。が、その理由が自分たちにあることを翔太郎は知らないのだ。
「起こさなければ付き添うくらいは構わない、ですよね」
「ええ」
保健医の許可を得ると、翔太郎は芽榴の眠るベッドのほうに向かう。カーテンの中に入って、ベッドの真横に置いてある椅子に腰掛けた。
「……すー……」
芽榴の寝息が聞こえる。翔太郎の気配に気づかないところからして、熟睡しているのだろう。
息遣いも少々荒く、見ているこっちまで具合が悪くなりそうだ。
「突如として、変なことを仕出かすヤツだ」
芽榴の寝顔を見つめ、翔太郎は呆れるようにして呟く。
「んー……」
「……っ!」
すると芽榴が寝返りを打ち、起こしてしまったのではないかと翔太郎は一瞬驚く。けれどすぐにまた芽榴のスースーという可愛い寝息が聞こえ、翔太郎は肩を撫で下ろした。
「……かつ、らぎ、くん……」
安心したのも束の間、今度は寝ているはずの芽榴が舌ったらずに彼の名を呼んだ。翔太郎は目を見張り、体を硬直させた。
「あり、がと……ね」
現実の翔太郎に対してなのか、夢の中の翔太郎に対してなのか、とにかく芽榴は翔太郎に感謝の気持ちを伝えていた。
火照った顔で芽榴に名前を呼ばれると、さすがの翔太郎も心中穏やかではない。思わず赤面してしまった翔太郎は芽榴の睡眠を邪魔しない程度に咳払いをする。
「貴様のすることは何一つ……礼には及ばない。馬鹿めが」
そう言って、芽榴の額に張り付いた前髪を掻き分ける。無意識に翔太郎の顔に浮かんだ笑みは誰も知らない。
ただそうやって、翔太郎は眠る芽榴と共に真理子の迎えを待ってあげていた。




