164 勘違いと禊
期末テスト一日目を明日に控えた日曜日。
楠原家ではちょっとした事件が起きた。
「芽榴姉! あれ……ここもいない」
目が覚めるや否や、圭は芽榴の姿を探していた。芽榴の部屋に行ってみたがそこに芽榴の姿はなく、1階へ降りてきて居間を覗いてみた。しかし、芽榴の姿はそこにもない。圭は少し視線を彷徨わせてちょうどそこにいた真理子に目を向けた。
「芽榴姉は?」
「お母さんに『おはよう』はないわけ? まあ『こんにちは』でもいいけど」
真理子に指摘され、圭は目を逸らす。圭の学校も今週はテスト期間に入る。よって部活も久々に休みになったため、かなり熟睡してしまっていた。目を覚ましたのはもうすぐ11時になってしまう頃。
「それより、芽榴姉知らない?」
「朝から母への挨拶なしで愛しのお姉ちゃんの名前しか言わないのはどこの馬鹿息子かしらー?」
「あーっ、はよっ。こんちは。んで、芽榴姉は? 俺、勉強教えてもらう約束してたんだけどっ」
机をバンッと叩き、圭がもう一度問いかける。お茶を一口飲んだ後、真理子は楽しそうに洗面所のほうを指差した。
「芽榴ちゃんは現在禊中!」
「はあ?」
毎度恒例となる真理子の意味不明な発言に圭は頓狂な声をあげる。禊といえば川や海の水で罪や穢れを洗い流すという、時代劇で見たことのあるあれだ。
「なんで……っ」
芽榴の禊の理由を考えて圭は一気に顔を青くする。そして完全に思考停止。急いで洗面所へ向かい、ノックなしで扉を開けた。
「芽榴姉!」
「え」
圭の視界に入ったのは、バスタオルを巻いた芽榴の姿。
楠原家の洗面所はお風呂と隣接している。芽榴が禊をしていたとなれば、芽榴がお風呂に入っていたと考えるのが普通だ。扉を開けて気づいた圭は、顔を真っ赤にした。
「……っ、うわぁ! あぁあ、俺、えっと!」
裸でなかっただけセーフだが、それでもバスタオル一枚。圭の脳内運動会が開催されるには十分な刺激である。
バタンッと音を立てて扉を閉める。居間の方から真理子の楽しそうな笑い声が聞こえた。
「け、圭? 大丈夫?」
「芽榴姉! ごめんっ! わざとじゃないから! 本当に!」
「えっと、落ち着こうかー」
扉を挟んで暴走状態に陥る圭を芽榴が宥める。とりあえず服を着た芽榴が扉を開けると、何とか圭も落ち着きを取り戻した。
「顔洗うつもりだった? ごめんね、占領しちゃってて」
「いや、そうじゃなくて……」
圭は顔を覆ってモゴモゴと返事する。芽榴に見えている圭の耳はかなり赤い。
「母さんが、芽榴姉は禊中だとか……意味わかんねーこと言うから……その、芽榴姉が……」
「禊って……」
真理子の言いそうなことだな、と芽榴は苦笑する。
「芽榴姉?」
「まぁ言い様によるけど、間違いではないかなー」
「え!?」
顔をあげ、圭はギョッとした顔で芽榴を見ていた。圭が何か勘違いしていることを察し、芽榴は困り顔で説明に入る。
「先に言っておくけど、別に誰に何かされたとかじゃないからね」
「そ、そっか……なら、よかった……」
それを聞いて圭は安心した顔をする。でもすぐに禊の理由が気になって、圭は首を傾げた。
「あははっ、とりあえずここは寒いし部屋行こうかー」
「あ、うん」
「圭は先に顔洗って。私はそのあいだに髪乾かすから」
そう言って芽榴は圭の横を通りすぎ、自分の部屋へと帰っていった。
顔を洗い、軽く身なりを整えて圭は居間に戻る。一連の出来事で喉がカラカラだった。冷蔵庫から水を取り出して、圭はペットボトルに口をつける。
「芽榴ちゃんの裸見ちゃうなんて、やーらしっ!」
「ブフーッ」
飲んだ水をすべて噴き出してしまう。咳き込む圭を見て、真理子は楽しげに笑った。
「母さん!」
「そんないやらしい子に育てた覚えないのに、お母さん悲しいわー」
「裸じゃなかったし! ってそうじゃなくて、母さんのせいだろ!」
「どーしてー?」
「母さんが変なこと言うから!」
「えぇっ、お母さん何て言ったかしらー? 最近物忘れするのよねぇ」
「母さんっ!」
親子喧嘩勃発。といっても例のごとく圭が真理子にからかわれるだけの喧嘩だ。
それからしばらくして、芽榴の部屋に圭がやってきた。ちゃんと勉強道具を持って入ってきた圭に、芽榴は微笑む。ドライヤーを片付けてテーブルを部屋の真ん中に用意した。
「さて、教えてほしいのはどの教科ー?」
「芽榴姉、その前に禊の理由説明して」
さっきの話をはぐらかすように、テスト勉強に入ろうとする芽榴を圭がしっかり止める。
その理由を知らないまま勉強をしても、絶対に身に入らないと分かっているのだ。
先手を打ったのにやり返されてしまい、芽榴は首を竦めた。
「大した理由じゃないんだけど」
「いいから」
圭が真剣に尋ねてくる。余計に言いづらくなりながらも、芽榴はその説明に入った。
「最近、ちょっと浮かれすぎな気がしたから」
「……浮かれてるか?」
「浮かれてるの。いちいちパアッとなっちゃって」
圭にはよく分からない。少なくとも家にいる時の芽榴には浮かれている要素がない。家の主婦業も相変わらずぬかりなくこなしている。
「それ、役員さん関係してる?」
思い至ったその考えを圭は口にする。芽榴が浮かれる理由としてはそれしか浮かばなかった。図星をさされた芽榴は困ったように笑った。
「今さらだけど、みんなカッコイイから……前と変わらない、何でもないことなのに……らしくもなくドキドキしちゃって」
「……」
「考えすぎるのもよくないって分かるんだけど……勘違いはしたくなくて」
「……勘違い?」
圭の顔はどんどん険しくなる。しかし聞く前から、自分にとって嬉しい話ではないと圭は分かっていた。
「役員のみんなにとって、私はよき親友じゃん? なのに最近の私ってば変に意識しちゃって……だからちょっと気を引き締めるために、精神統一。て言ってもただ水浴びただけなんだけどね」
この時期に冷たい水を浴びるなど、どこの修行僧かと問いたくなる行為だ。つまりは、それほどまでに芽榴の中でそのことが気にかかったということ。
「ちょっとくらい意識してくれた方が、向こうはありがたいんだろうけど」
「え?」
「あー、こっちの話」
圭の呟きが芽榴に聞こえてしまい、圭はそんなふうに取り繕う。芽榴が今まさに引き起こしている考えこそ勘違い。圭にはそれを正すことができるけれど、あえて芽榴には勘違いさせたままでいてもらうことにした。役員に自ら手を貸してあげるほど圭はお人好しではないのだ。
「でも芽榴姉」
「ん?」
「それはさ、今までの芽榴姉がおかしかったんだよ。あんなイケメンが周り囲んでるのにケロッとしてるのは芽榴姉くらいだと思うよ? それが芽榴姉らしいとこって言われればそうなんだけど」
圭はそう言ってハハッと笑った。芽榴がイケメンに囲まれて騒ぐところなどまったく想像がつかない。10年一緒にいたがそんな姿は一度も見たことがない。
「芽榴姉は昔からイケメン見ても平然としすぎ。母さん見てみろよ?」
イケメンを見ると、発狂する真理子はある意味正しい女子の在り方だ。昔から彼女は「イケメンは国宝!」と宣言していた。対する芽榴はそれを無表情で聞くだけ。
「昔からそうだね、私は。でもそれは圭にも原因あるよ?」
「俺? なんで?」
圭が不思議そうな顔をし、芽榴は苦笑する。
「私が言うのもあれだけど……圭がそばにいるから。それで耐性ついてると思うんだよね」
芽榴が困ったように言う。直接的に言うのは避けたが、つまり圭がカッコイイと芽榴は言っているのだ。圭は額を押さえて盛大な溜息を吐く。
「……芽榴姉が言うと、シャレにならない」
「あはは、そーだよね。ごめん」
「全っ然、分かってないだろ……」
圭は恨めしそうな声を出す。芽榴に勘違いされている役員も可哀想だが、一番不憫な立ち位置なのは誰が何と言っても圭だ。
「芽榴姉のバーカ」
「ごめんごめん」
「……許す代わりに、今日は芽榴姉の部屋に居座るから」
剥れながら圭はそんなことを口にする。姉からすればなんとも可愛らしい発言だ。
「圭なら、いつだって部屋にいていーのに」
「……またそういうことを言うし……」
自分の発言に対し、芽榴から返ってくる言葉はNGばかりだ。
落ち込んでしまう圭を芽榴が慰めるも、圭は落ち込むしかない。
「あぁーっ、ダメだ。これじゃ勉強無理」
「……お茶でも飲む?」
「そうする。うあーっ、しっかりしろ、俺!」
そんなふうに言って圭は自分の頬を叩きまくる。困り果てた芽榴はお茶を取りに1階へと向かい、そのあいだに圭は自分を落ち着かせた。
「はい、お茶」
「サンキュ」
芽榴が持ってきたお茶を一気飲みして、今度こそ芽榴との勉強会に挑むことにした。
「よしっ! 芽榴姉、お願いしますっ」
「お願いされました」
そんなふうに笑って、芽榴と圭はテキストを開いた。




