155 私利と私欲
そこは麗龍学園理事長宅。
さすがはマンモス校の理事長だけあって、家は藍堂家に引けを取らないくらい広い。その一室に芽榴はいた。
「朝早くにすみません」
「構わないですよ。昨日の夜、わざわざ電話をくれているから、急なことでもありませんでしたし」
芽榴の目の前にいる理事長はそう言って優しく芽榴に笑いかけた。年相応に、その顔には深い皺がいくつも刻まれている。
鶏が鳴き始めるくらいの早朝に、芽榴は理事長宅を訪れていた。普通に考えて迷惑極まりない行動ではあるが、ちゃんと昨晩その旨を伝える電話をいれているのだ。
「それで、キングの特権を何に使うんですか?」
理事長は興味津々に芽榴に尋ねる。
芽榴は、それを伝えて許可を得るためにこそ、今ここに来た。
「T大学への推薦? それともテスト免除? どれも生徒会役員の肩書きを持っている君には必要ないことだと思いますが」
理事長はワクワクした様子で言葉を重ねる。理事長の言うとおり、麗龍学園の生徒会役員という肩書きがあれば大学推薦は余裕で、役員になる力量があるならテストは免除せずとも楽にこなせるはずなのだ。
「はい。だから、私は――」
芽榴が口にした願いに、理事長は目を丸くする。そしてすぐに眉を顰めた。
「本気ですか?」
「はい」
「そんなことをする必要があるのですか?」
「そうしなければ、いけないんです」
芽榴の顔は真剣で、その願いを取り消す気がないことは理事長にも伝わった。
「そうですか。では、後で学園に報告しておきます。しかし……神代会長といい、君といい、キングの特権を私利私欲のために使おうとは思わないのですか?」
呆れるような口調で理事長が言う。けれど、そんな理事長の台詞に芽榴はクスリと笑った。
「この願いは……十分、私利私欲ですよ」
芽榴の返事に納得できず、やはり理事長は困った顔をする。
「それにしても、本当にこのあいだ役員になったばかりなのに、まるで君がずっと役員だったような感覚ですよ」
「え……?」
「今まで耳にしたこともなかったのに、この一年間で君の名前を何回聞いたか分かりません。まあ、あの琴蔵様に逆らうなんて困った問題を起こしてくれたこともありましたけれど……」
少しだけ苦い様子で理事長が言う。あのとき、理事長は芽榴をラ・ファウスト学園に行かせることに大賛成していた。
けれど今、理事長はそうならなくてよかったと思っている。
颯がキングの特権を使って開催したトランプ大会で優勝し、役員となったことも、テストで満点首席になったことも、体育祭で2学年が2連覇を達成する立役者となったことも、ラ・ファウスト学園に勧誘されたことも、そして文化祭でキングになったことも、すべて楠原芽榴の成し遂げたことだ。
「今度は、何をしてくれるのか……それが老いた私の楽しみになりそうです」
理事長はそう言って笑う。
理事長の言葉を聞いた芽榴は何かを確信したように、嬉しそうに笑った。
所変わって麗龍学園。
F組の扉は固く閉ざされている。
昨夜、颯が役員に回したメールの内容はこうだった。
『明日の早朝、F組集合』
その文面だけで、役員全員自分たちのすべきことが何かを理解した。
連絡通り、警備員が門の鍵を開けるのと同時刻にF組にやってきた役員たちはそれぞれ来たる人物たちとその行動を予測して、配置についていた。
そしてそれから間もないうちに、一連の出来事が起きたのだ。
「楠原芽榴が悪いんだから!」
そう女生徒が叫んだ瞬間、誰よりも先に有利が動いた。女生徒の肩を掴み、壁に押し付けるようにして突き飛ばしたのは有利だった。
「……ふざけんじゃねぇぞ。どいつもこいつも口開けばそれしか言えねぇのか?」
「っ……う」
有利の突き刺すような視線に、女生徒は怯む。彼女の肩にかかる力は骨が軋むほどに強い。木刀を握る手は震えている。怖さや恐れによるものではない。ただ力の加減が分からなくなっているのだ。
「楠原の悪いところがあるなら具体的に言ってみろ。全部、根本から否定してやる。あわせて貴様らの醜悪さも事細かに説明したほうがいいか?」
翔太郎は冷静に言葉を述べる。彼の仕事は最後の後処理。信者を追いつめる役割にはないが、それでも支離滅裂な言いがかりをつける彼女たちを、すべてが終わるまで黙って見ているということもしたくなかった。
「……っ」
「全部るーちゃんのせいにして、それで満足? ほんと……呆れる。自分たちが何一つ悪くないなんて、今時小学生でも言わないよ」
扉から離れないまま、来羅は言う。いつもの女性らしい高めの声とは違い、男らしい低い声が来羅の口からこぼれた。
「そんなことしか言えないくせに、るーちゃんのこと非難するなんて論外。悪知恵だけは嫌になるくらいちゃんと働いて、どうかしてる」
もはや上級生ということは関係ない。こんな醜い真似をする人間に払う敬意を持ち合わせているほど、役員たちも出来た人間ではなかった。
「ふ、風雅く……助けて」
有利に掴まれていないほうの女生徒は顔を真っ青にして、ネジの壊れた人形のごとき様で風雅のことを振り向く。目の前で友人が有利に今にも殴られそうになっていて、残りの2人も床にへばりついているような状態だ。
「こんなの、風雅くんが、する、はずない」
「……」
風雅は何も言わない。
彼女たちの理想の風雅はいつだって彼女たちを庇ってくれるはずだった。彼女たちの思い通りの言葉や行動を与えてくれ流はずだった。
しかし今、風雅は何もしない。
「そんな、風雅くん……だって、風雅くんは」
そう言って女生徒が風雅にしがみつく。
「すみません。オレは、先輩たちが思ってるような人間じゃないっす」
風雅は女生徒に手を差し伸べない。触れることもしない。自分にしがみつく女生徒をただ辛そうに見つめる。
「……もう、先輩たちが信じてる人形のオレはいないんです」
風雅は全てを断ち切った。自分のアドレスも変えて、ファンのアドレスもすべて消し去った今、風雅を縛るものは何もない。
「これ以上、芽榴ちゃんを傷つけないでください。お願いだから……最後くらい、オレの言うことを聞いてください」
彼女たちは許せないけれど、彼女たちがこんな行動をした原因は少なからず風雅にある。だから風雅はそんな顔をしてしまうのだ。
風雅の答えに、女生徒たちの何かが崩れた。
風雅にしがみついていたはずの女生徒はとうとうその手を離し、しゃがみこんで「嘘よ、嘘だよ……嘘」とまるで機械のように何度も何度も呟き始めた。
「……は、はは」
有利に掴まれている女生徒は羞恥と恐怖と怒りが混ざり合った感情に、思考が何一つ追いつかなくなり始めていた。過剰な感情の末に、その女生徒はその顔に笑顔さえ浮かべてしまう。
「何がおかしいんだ、てめェ」
有利が目を細める。そんな彼の目の前で、女生徒はニヤリと笑みをこぼした。
「役員が、こんなこと……して、いいわけ、ないじゃん」
女生徒の言葉に颯が眉を上げる。
「みんなの、アイドルが、いいの? このこと、全部言うよ? 酷いことしてんの、全部ばれちゃって、そしたら、みんな、離れていっちゃうよ?」
女生徒の声が教室に響く。一番遠くにいる翔太郎にさえちゃんとその言葉は聞こえていた。
役員信者が役員を売る。彼女が口にした行為はまさにそういうことだ。滑稽の一言につきる。まるで彼女たちは道化のようだった。
「役員は、みんなの、人気者。それで、いいじゃん? あんな子、役員じゃなくても、何の問題もない。冷静に考えてよ。役員にあたしたちの存在は絶対に必要で……っ」
女生徒がすべての言葉を言い終わる前に、颯が女生徒から有利を引き離す。
「神代っ、何すん……」
文句を言おうとした有利だが、颯の顔を見た瞬間に口を閉じる。今の颯はスイッチの入った有利でさえ黙ってしまうような空気を纏っていた。
「冗談も休み休み言いなよ」
同時に颯は彼女の長い髪を引っ張り、自分の方に引き寄せた。
「全部言えばいいよ。……言えるものならね。ちゃんと分かっているの? 僕たちのことを言っても、結局君たちのしてきたことが全部明るみに出るだけだ。僕たちを突き落としたいならそうすればいい。君たちが何をしようと構いはしないよ。それくらいで落ちる顔を持っている奴なんて一人もいないからね」
颯の口角は上がっている。しかし、赤みのある颯の瞳はまったく笑っていない。
役員ファンの中には純粋に役員を慕い敬っている生徒もいる。本当はそちらの人数のほうが多い。例外もいるが、風雅以外の役員ファンはまさにそういう人たちばかりなのだ。それでも芽榴をインチキだと思ってしまうのはただの嫉妬で、それを分かっているからこそ行動に出ない。
本来それが普通なのだ。
にもかかわらず、一部の信者たち(それでも確かな人数がいるのだが)はこうしてファンクラブという形で集団化し、群となって行動しているのだ。そして特異的な人物を集団で潰しにかかる。
「自分たちを正当化するために、ファンクラブまで作って人数を増やして……それで得られたものは何? 芽榴が言わないのをいいことに人格を疑うようなことまでして、本気で悪いのは全部芽榴だと言い切る気かい? どこまで自分たちを棚にあげたらそうなるのかな」
颯は女生徒の髪を滑るようにして、手を移動させ、彼女の頭を掴む。そしてクラス掲示板にぶつけるようにして女生徒を押しつけた。
「い……っ!」
掴まれた頭は掲示板の枠組みにぶつかり、ガツッと痛い音をたてる。女生徒の顔も痛みに歪んだ。
「痛い? でもね、君たちが芽榴に与えた痛みはこんなものじゃないんだよ」
そう言った颯の肩に有利が触れる。
芽榴の受けた痛みはどうやっても返しきれない。それでも近いくらいの痛みは返してみせる。
颯が女生徒から手を離して、一歩退く。
木刀を構えた有利に、さすがの女生徒も笑みを消す。しかし、震える体はもう動けない。
「やだ、藍堂く、いやぁぁーーーーっ!」
「うっせェんだ」
「……っ、やめて、藍堂くん」
次に聞こえた、とても冷静で清らかなその声は、振り上げた有利の木刀をそこで止めた。
来羅は慌てて自分の背後を振り返る。翔太郎も風雅も来羅の後ろ、扉の前の廊下に立つ人物に目を向け、そして固まった。
「楠原……貴様……」
「るーちゃん、なんで……」
走ってきたのか、そこにいる人物――楠原芽榴は肩で息をしていた。
「芽榴ちゃん……」
泣きそうな顔のまま、風雅は芽榴を見ていた。
「楠原……さん」
一気に頭が冷えていく。有利も、すでにいつもの姿に戻ってしまった。
他でもない芽榴の登場に、役員みんな言葉を失う。
ただ一人、そうならないことを願いながらも、芽榴が来てしまうことを頭の片隅で予想していた颯だけは芽榴に目を向けない。
そして固まったままの有利の手から、颯は木刀を奪った。
「か、神代くん!」
颯の行動に有利が叫ぶ。けれどそれよりも先に、少女が教室を駆け抜けた。
「……っ」
再び振り下ろされる木刀は今度は少女自身の手によって止められる。芽榴は颯と女生徒の間に入り、颯の腕を掴む。
「離して、芽榴」
「嫌」
「……っ」
芽榴の力は颯のそれに敵わない。颯は芽榴に腕を掴まれたまま、木刀を振り下ろす。軌道はずれて、教室には木刀が床に叩きつけられる虚しい音だけが響いた。
「どうして……止めるの」
颯は芽榴を睨む。しかし、芽榴の姿を捉えた瞬間に鋭い視線からは一切の棘が抜き取られてしまう。
「こうでもしないと、僕は僕を許せない」
だから、颯は芽榴が来ないことを願っていた。
「神代くんがそれをこの人に振り下ろして、私が傷つかないと思う?」
芽榴の言葉に、颯も含めて役員は誰一人声が出ない。こうなることを芽榴は望まない。すでに自分のせいで彼らの手を汚させてしまっていることを芽榴は知っている。だから芽榴は今この場で止めなければならない。
「こんなの、終わりがないんだよ」
芽榴はみんなに向かって言う。
芽榴の言葉は真実で、どんなに芽を潰していっても潰した分だけ太い茎となって成長していく。役員信者を説得できずに、頭ごなしに叩いても何も変わらない。翔太郎の催眠誘導で心ごと鎮圧できたとしても、それだって本当じゃない。
芽榴ではなく、みんなが一番よく分かっていることだった。
「それでも神代くんが自分を許せないって言うなら、止めた私を許さなければいい」
そして颯にそれができないことを芽榴は知っている。
颯に返す言葉はない。颯は芽榴の優しさに負けてしまったのだ。
事態が一旦落ち着いたことを悟り、芽榴の背後にいた女生徒は掠れた声で目の前の芽榴にすがった。
「……く、くすは、ら、さん」
「……」
「あり、がと……やっぱ、いい子、あたしは最初、から」
「嘘はいいです」
今更芽榴に助けを求める先輩女子に、芽榴は役員たちに向けていたものとは正反対の、冷ややかな視線を向ける。
「慌てて無理に、思ってもない褒め言葉かき集めないでください。そんなことしなくても、やり返す気はないですから」
「芽榴……っ!」
芽榴の言葉に役員たちが思わず声を出す。目の前の女生徒は芽榴の言葉を聞いて少しだけ口角をあげた。
「ありが……」
女生徒の手が芽榴に向かって伸びる。しかし、芽榴は半歩後ろに下がって避けた。芽榴の冷たい目は「触るな」と訴えていた。
女生徒はワケが分からないと言いたげな顔で芽榴を見上げる。どこか縋るような顔を見ても、芽榴の心は動かない。
「勘違いしないでください。やり返さないのは、そうしたら結局私も先輩たちと同じ人間になるから、だからしないだけです。それだけは絶対に嫌ですから」
やり返すことは簡単だ。しかし、やり返せば芽榴も彼女たちと同じ。醜い人間に変わってしまう。悔しさも憎しみもちゃんと芽榴の中にあるけれど、それでも彼女たちのような、芽榴が嫌いだと思った人間に、堕ちていくことだけはしたくない。
「私は先輩たちの言うとおり最低な女の子なんで、先輩たちのことを許す気はないです。私は先輩たちの顔も先輩たちがしたことも絶対忘れません」
芽榴は静かな、でもはっきりとした声で言う。けれど、言葉の中に詰まった思いは女生徒たちを確実に追いつめていく。
「私が庇ったのは先輩じゃありません。ただ、みんなの手をこんなことで汚してほしくないだけです。絶対……忘れないでください。自分たちがしてきたことを、忘れないでください」
芽榴は目を逸らさない。役員の誰よりも真っ直ぐで清らかな芽榴の視線を受けて、女生徒の醜い心が苦しまないはずがない。
SDカードによる決定的な証拠と、芽榴の正確な記憶力を前に、女生徒たちが自分のしてきた非人道的な言動の事実から逃れることはできない。それは一生恐れとして彼女たちにつきまとう。
やっとそのことに気づいた女生徒はパタリとその場に座り込んだ。
そんな女生徒の姿を芽榴はしばらく見つめる。拳はギュッと握りしめたまま、芽榴は唇を噛む。芽榴はそうやってずっと自らの手を振り上げることを堪えた。それが芽榴の譲れない意地だった。
すべてが終わり、室内には静けさが戻る。
そしてその静寂を破るように、翔太郎が口を開いた。
「でも楠原、これで終わりじゃないんだぞ。まだこんなことが続くかもしれない」
翔太郎の心配そうな声が芽榴の耳に届く。芽は潰しきっていない。だいぶ潰したけれど、風雅ファンクラブがまだ解散していない状況下で、芽榴に嫌がらせを仕掛ける人物は残っている。
「うん。だから私も考えたんだ。これを終わらせる方法。で、見つけたよ」
芽榴の言葉に、役員たちは目を見開く。
「るーちゃん……何する気なの?」
来羅は不安顔で芽榴に問いかける。
「私――――」
呆然とする役員の顔は芽榴も予想していたこと。
本当はこんなことをする必要はないのかもしれない。それでも芽榴はもう一度、一からすべてやり直すことを決めていた。




