153 悔恨とプログレス《葛城翔太郎編》
時計の針が12時を過ぎる。
翔太郎はマンションのリビングで眼鏡を拭いていた。いつもならもうベッドに横になる時間。
翔太郎の中で睡眠時間は5時間と決まっている。それが絶対的な習慣であり、それより短いのも長いのも嫌だというのは実に翔太郎らしい意見だ。
そして、そんな翔太郎が時間を過ぎてもまだ起きている。その理由は簡単で、芽榴の話を思い返していたからだ。
思えば、芽榴はずっと自分の過去を伝えていない罪悪感でいっぱいだった。すべてを知った後、翔太郎はそのことに気づくことができた。
――葛城くんは催眠術が効かない私を認めてくれたけど……私は、催眠術が効いたらいいなって思うんだよ――
眼鏡を拭いていた手が止まる。芽榴の透き通った声が頭に響いた。
文化祭の鬼ごっこ――可愛らしい姿をした芽榴が翔太郎に告げた言葉。その理由を芽榴は言わなかったけれど今は分かる。それゆえに、消し去りたい思いや罪悪感を抱えた芽榴を救えない自分が虚しい。
「本当に……無能だな」
翔太郎は視線を少しだけずらし、鏡を見る。自分の瞳を見て、翔太郎が呟くようにもらした言葉はとても切ない。
催眠誘導が効かなかったからこそ翔太郎は芽榴に興味をもった。そうでなければ、芽榴のことも不特定多数の女子と同じ扱いをしていただろう。しかし今はそんな芽榴に催眠誘導が効いたらいいのにとさえ思っている自分がいる。叶わない願いだけが胸に残った。
「……それでも、俺に出来ることをするまでだが」
誰に伝えるつもりもない、それはただの独り言。それは翔太郎の決意だった。芽榴に催眠誘導が効かないからといって、芽榴を守れないわけではないのだ。
翔太郎は綺麗にレンズを磨き上げた眼鏡を掛け直す。
すると、ちょうどよく玄関の戸が開いた。
「……父さん。……お疲れ様です」
疲れたように溜息をつきながらリビングに入ってきた父、祐太郎を翔太郎はぎこちない挨拶で迎え入れた。
父は翔太郎が起きていることを予想していなかったらしく、面食らったような顔をしていた。
「まだ、起きていたのか。……珍しいな」
祐太郎は特に嬉しそうな様子も見せず、冷蔵庫へと向かった。ミネラルウォーターを取り出して、コップに注ぐ。そしてそのままテーブルを挟んで翔太郎の真向かいに腰を下ろした。
「そういえば、麗龍に取材が来たそうだな。……お前も取材を受けたのか」
「まぁ……一応役員ですから」
「……そうか」
普段ならすぐに自室に行ってしまう父だが、翔太郎が起きているためにリビングに留まっていた。顔には出さないが、少しだけ翔太郎が待っていてくれたことが嬉しいのだろう。
仕事にしか興味がない人、と翔太郎は父について芽榴に話した。家族のことよりも仕事のことを優先してきたことも事実だ。小さい頃は母親の異常なまでの愛情の中だけで翔太郎は育ってきたようなものだ。
でも本当にそれだけだったのだろうか。翔太郎は両親が離婚して以来、父と深い話をすることを避けてきた。
「父さん」
なぜ今更そんなことを改めて考えたのか。言うまでもなく、芽榴の話に心を動かされたからなのだ。
「父さんは……再婚する気はないんですか」
翔太郎が遠慮がちにそう尋ねると、父はかなり驚いた顔をしていた。自分と似ている顔が驚いている姿に、翔太郎は何とも言えない感情を抱いてしまう。
「……お前は再婚してほしかったのか?」
「違います。……なんというか、その……」
何が言いたいのか自分自身よく分からない。そんな翔太郎を見て、父は少しだけ柔らかい表情になった。
「再婚する気はない。これからも、おそらく」
父は冷静な口調ではっきりと告げる。補足的に予想の言葉を口にしてもほとんどそれは父の中で決定している事柄。翔太郎にはそのことがちゃんと分かっていた。
「……一度目が酷かったからですか」
やはり翔太郎の言葉は足りない。表現が露骨すぎて、父も思わず苦笑してしまった。
「確かに、お前には辛い思いをさせてしまったな」
父はそう言って水の入ったコップを見つめる。
「翔花をあんな風にしてしまったのは……私の責任だからな」
翔花というのは翔太郎の母親のこと。母親を発狂させた決め手は翔太郎だったにしても、きっかけは仕事と結婚生活を両立できなかった祐太郎にあったのだ。
「息子に、それ以上負担はかけられないだろう」
再婚してしまえば、多少なりとも翔太郎に負担がかかる。再婚相手との間に子どもができたら尚のことそうだ。
「俺のため、ですか」
「馬鹿なことを。お前も知っての通り、私はそんなに良い父親ではない。全部私のためだ」
祐太郎はフッと軽く息を吐き、翔太郎に向き直る。
「私が私の力量を考えて……お前だけでいいと思った、それだけだ」
祐太郎は氷の入った水を飲み干す。
翔太郎の親権を父が手にしたことを、翔太郎はずっと苦渋の決断だったのだと思っていた。でも父があれからずっと不器用ながらも翔太郎を育ててきたことは確かだ。たったそれだけの気持ちのために、男手一つで子育てなどできない。
多くを語らない。しかし、翔太郎には十分すぎるほど伝わった。
コップの氷が少し溶けて、カランと音を鳴らす。
「そうですか……」
翔太郎の返答は相変わらず愛想がない。翔太郎もそれを自覚済みだ。
けれど内心、睡眠時間を少しずらそうなどと計画している翔太郎は誰よりも可愛らしい息子なのだ。




