153 悔恨とプログレス《柊来羅編》
夕食のときの笑い声は当たり前だと思っていた。
「……羅、来羅」
「え、あ……パパ」
父に名前を呼ばれて来羅は顔を上げた。
ボーッとしていた来羅はお皿の上のハンバーグに、もうちゃんと切れているにもかかわらず延々とナイフを通していたのだ。
「何か考え事かい?」
「学校で何かあったの?」
そう言って、父と母が来羅のことを心配そうに見ていた。
「あはは、ごめんね。ちょっと宿題で分からないとこあったから、考えてた」
そんなふうに言い、来羅は誤魔化すように笑った。考えていたことはそんなことではない。もちろん、芽榴のことだった。
――るーちゃんはあんなにいい家族に囲まれてるのに――
芽榴との会話を思い出せば思い出すほど、無関心すぎた台詞が来羅の頭を悩ませた。
自分の不用意な言葉が、いったいどれほど芽榴を傷つけてしまったのか。それを考えると無償に怖くなる。
悲劇のヒーローを演じてきた来羅は本物の悲劇を経験した芽榴の目にどう映っていたのだろうか。
「パパ、ママ」
来羅は皿にナイフとフォークを置いて、目の前に座る父と母に呼びかけた。すると、2人は「何?」とやっぱり優しく来羅に笑いかけてくれる。
ずっと昔から、この笑顔を来羅は持っていた。正確には、来羅が女の子の姿をしていることを条件にしてこそ成り立っている笑顔だ。
世間からすれば、それもおかしな家族関係。けれどそれでもその条件を満たしているかぎり、来羅に与えられる幸せは本物だった。
芽榴は幼い頃、どんなに頑張っても並の幸せさえ掴み取れなかったのだ。きっともし芽榴が男装をすれば東條家の祖母に認められると言われたなら、喜んで男装していただろう。
そんな条件さえ与えられなかった芽榴はどれほど苦しかったのだろう。来羅よりもはるかに辛かったはずだ。その辛さを考えるだけで来羅の心は押しつぶされそうだった。
「私は幸せだなって。今日……なんとなく思ったの」
来羅は薄く笑った。それを聞いた母の薫子は嬉しそうに微笑み、父の春臣は驚いた顔をしていた。
結果として来羅に今までずっと女装をさせてきたのは父だった。来羅を半強制的に女の子のようにして育ててきたのだ。
当然来羅の口から「幸せ」という言葉を聞いたことは今の今までなかった。来羅が髪を切り続けていることもその理由も父は知っていた。
「パパもママも、ちゃんとそばにいて……私は幸せだよ」
幸せだからこそ、それが当たり前になって、もっと幸福を求めてしまう。
男としての自分を受け入れてもらいたい。その願いは変わらないけれど、それに固執している自分が一番自分を不幸にしている。その事実に来羅は気づいた。
「今ある幸せをちゃんと受け止められるようになりたいなって思ったの」
足りない幸せや受け入れてほしい思いばかりが先に立って、肝心な手元にある幸せから来羅は目をそらしていた。自分を不幸だと思い込むことはただの自己満足に過ぎない。
「ママも、来羅といれて幸せよ」
薫子は恥ずかしげにそう言って、空になった水差しに水を注ぎ足しにキッチンへと席を立った。
薫子がいなくなると、春臣は来羅のことをまじまじと見つめる。どこか悲しげな表情の春臣に、来羅は困ったような顔で笑いかけた。
「パパ、そんな顔しないで。本当に心からそう思ったの」
「……すまないね。不安になるのは『幸せ』って言葉を疑うようなことしか来羅にできていない証拠だ」
それでも家族の平穏のために、春臣が選択したことを来羅は責めない。悩んで悩んで、何度間違っても寄り添っていくのが家族の在り方なのだと気づいたから。
「でもね、パパ」
「なんだい?」
「もしいつか……私がちゃんと男の子として生きたいって言ったら、そのときは今度こそ認めてほしいな」
来羅はそう言って、春臣の様子を窺う。簡単に「いいよ」と答えられる話ではない。答えられるなら、今こうして来羅が女装をしていることもないのだろう。
「違うね。認めてもらうんだ、ママにも」
来羅は真剣に悩む父に、そう笑いかけた。
「今はやっぱりまだ勇気がないけど……きっと私がその道を選ぶときは本気でそうしなきゃいけないときだから。だから、認めてもらうんだ」
来羅はフォークを握り、切り分けたハンバーグにそれを刺した。
「どんな私でも私だから」
来羅はそう言って美味しそうにハンバーグを口にする。世間のどんな女の子にも負けないくらい可愛らしい来羅の姿は、来羅の苦労の証。母のために誰よりも可愛くなることを選んだ来羅が、その道を捨てるということはそれだけの決意あってのことだ。
「……その時までに、パパも来羅に味方できるくらい強くなりたいな」
その返事に来羅は目を丸くする。そして次の瞬間には嬉しそうに「期待してる」と微笑んだ。
そうして来羅と春臣は水差しを持って戻ってきた薫子を笑顔で迎えいれた。




