152 光の粒と答え
下校時刻の迫る生徒会室はとても静かだった。
吹き抜ける空気は、まるで心を表すかのように冷たい。
過去をすべて話した芽榴は目を閉じたまま、一つ息を吐き出す。
「だから、みんなに会った時の私はいろんなことから手を抜いて……今思えば本当に最低だったけど、そうでもしないと周りの人みんなを傷つけることしかできなかったんだ」
思い込みと誤解から生まれた少女は、自分の才能に押しつぶされて過去に置き去りにした、芽榴が誰よりも大嫌いなもう一人の自分。
「ずっと誰にも言えなかった。自分で決めた約束を何一つ守りきれなくて弱い意志しかない本当の私は、みんなに認められた《楠原芽榴》とは全然違う、狡賢くて弱虫な女の子だったから……」
芽榴は息ができなくなりそうだった。自分からすべてを手放そうとしている気がして、怖いのに出てくる言葉を止める方法も分からなかった。
「私が、みんなの理想の私じゃないって分かったら……今ある幸せが全部壊れていくんじゃないかって思って……怖かった」
言い訳のしようがない本音が芽榴の口からこぼれていく。でも言わなければならない。それが芽榴の唯一絶対につけなければならないケジメ。
「偉そうなこと言って……誰よりも、みんなのことを分かってるフリして、最後まで狡いことしか、できなくて……やっぱり、私はファンの子たちの言う通り『最低な女の子』だったんだ」
芽榴はそう言って悲しそうに睫を伏せた。
「本当に……ごめんなさい」
芽榴が隠していたのは、嘘のような、否、嘘だと信じたくなるような悲しい過去。
しかし、芽榴の過去を知った役員たちはそれによって合点がいく会話がいくつもあった。芽榴がかつて自分の能力を「反則」と言っていた理由も、中学の同級生にあそこまで顔を強張らせた理由も、東條への態度も対応も、どこか浮世離れした雰囲気の理由も、そして聖夜の言っていた「芽榴が役員の手に負える単純な女ではない」という言葉の真意も――すべての辻褄があってしまうのだ。
芽榴は顔をあげない。前に進むために過去を明かしたけれど、みんなから拒絶されたらどうすればいいか分からなかった。
幸せがどんなに簡単に崩れ去るかを芽榴は知っている。もしみんなのそばにいられるこの幸せが消えたら――そんなことを今更になって考え直して怖くなった。
誰も何も言わない。それが余計に芽榴の心を不安にさせた。
そしてその不安を読み取ったかのように、貫かれた沈黙はその人物によって破られた。
「本当に……信じられないね」
颯の声が芽榴の耳に届いた。芽榴はきつく拳を握りしめる。
芽榴の中に再び悪魔の声が聞こえた。いつも心の奥底で芽榴に囁いていた声がとても鮮明に芽榴の頭に響く。聞きたくないセリフを何度も。芽榴に与えられる幸せは――――。
「もっと早く分かってあげられていたら、芽榴が一人で傷つかずに済んだこともあるなんて……そんなこともできなかった自分が信じられないよ」
颯の言葉に芽榴は即座に顔をあげる。そして芽榴の過去を知ったみんなの顔をその目に映し、目を見張った。
「本当、るーちゃんがこんなに辛い秘密抱え込んでたのに、私たちは何も知らないで……私たちばっかりるーちゃんのこと頼って、最低なのは私たちの方だよ」
来羅は眉を顰めて本当に申し訳なさそうに芽榴に言った。そんな自分たちが芽榴に言い続けた「頼って」という言葉が芽榴にとってどれほど軽く響いてしまったかを来羅は責めていた。
「楠原さん……本当に頼りない男で、すみませんでした」
「ち、違うよ。藍堂くん、そーいうんじゃ」
芽榴は有利の言葉を否定しようとした。決してみんなが頼りなくて言えなかったのではない。けれど悔しそうに言葉を吐く有利の瞳は、芽榴の中に溢れる闇をすべて浄化してくれるかのように真っ直ぐな《白》だった。
「楠原さんが、僕の不安を一緒に抱えてくれたように……これからは僕にも、楠原さんの不安を一緒に抱えさせてください。楠原さんがそうできるような男になりますから……お願いです。僕たちに全部ぶつけてください。ちゃんと、絶対…受け止めますから」
有利の言葉に芽榴の視界がぼやけ始めた。
自分の過去のことで泣くことは、やめたはずだった。どんなに泣いても何も変わらないと知っていたから、芽榴はもう自分の闇のせいで流す涙はないと決めたはずだった。
「……そんな、優しいこと、言わないで……」
信じたくなる。自分がまだみんなの隣にいてもいいのだと。
「みんなの、重荷にはなりたくない、から……今のうちに……」
「何が重荷だ。相変わらず肝心なところで馬鹿だな……貴様は」
厳しい言葉を吐く翔太郎だけど、その声はとても優しくて芽榴に伝えている思いも芽榴には温かすぎた。
「貴様の背負うものが大きかろうと小さかろうと、望むところだ。まったく、どうせ言うならそんな辛気臭い言葉じゃなく……『ありがとう』と、いつもみたいに呑気に言ってみろ」
翔太郎は照れ臭そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。そんないつも通りの翔太郎の仕草さえも嬉しくて、芽榴は歯を食いしばった。
「……本当に、いいの? 分かってる? 私は、狡い。最低、なんだよ。私は……みんなの思ってるような、人間じゃ、っ」
――ない。その言葉は空気となって消える。芽榴の口を塞いだのは、久々に感じる風雅の胸。芽榴の隣に座っていた風雅は泣きそうな芽榴の姿に堪え切れず、芽榴を抱きしめた。
「芽榴ちゃんは……芽榴ちゃんだよ」
風雅の声はやっぱり鼻声で、一度緩んでしまった涙腺はどうしようもなかった。芽榴の過去を聞いて、まるで自分のことのように風雅は辛くなって泣いていた。
「オレが抱きしめてる芽榴ちゃんは、そんな辛い思い抱えてんのに……オレみたいなバカのことだってちゃんと気にかけて、芽榴ちゃんが何を思ってたって、結局芽榴ちゃんはオレたちのことを思ってくれてたんでしょ? だったら……芽榴ちゃんはやっぱ……オレの大好きな最高の女の子に決まってる」
風雅は泣きすぎて、自分の言っていることが理解できなくなっていた。そんな風雅の言葉は芽榴の望んでいた言葉だった。欲しくて欲しくて、でも自分がそんな言葉をかけられていい人間じゃないと芽榴が勝手に決めつけた言葉だった。
「風雅の言う通りだよ。……芽榴がどんな芽榴でも、それを含めて全部、僕たちの認めた《芽榴》のはずだ」
颯の目はあのときと変わらない。芽榴のすべてを肯定すると約束した――あのときと同じ目で芽榴を見つめ、あのときと同じように再び芽榴を受け入れようとしてくれていた。
「悩んでばっかりで足元ふらついてる私を励ましてくれたのはるーちゃんでしょ」
来羅の可愛らしい声が、
「僕が木刀を振り上げても笑い飛ばして……どんな僕だって、受け入れてくれたのも楠原さんです」
有利の透明な声が、
「俺が疑心暗鬼になったら、真っ先に駆けつけると約束した――俺が唯一認めた女は他でもない貴様だろう?」
翔太郎のぶっきらぼうな声が、何一つ変わらず芽榴の耳に届いた。
みんなの優しい言葉は芽榴の真っ黒な罪悪感をすべて溶かして、真っ白に変えていく。
そして芽榴の体はギュッと抱きしめられた。
「芽榴ちゃんを、今さら嫌いになるなんて……絶対、絶対に無理なんだ」
信じた思いを、神様は叶えてくれた。
「だから、芽榴。……僕たちのそばにいてくれるかい?」
颯がそう問いかけて芽榴に微笑む。すると、来羅も有利も翔太郎も、みんな芽榴に優しく笑いかけた。風雅だけは鼻水を啜って泣き続けているけれど、思いはみんな同じだった。
「……私……」
答えは最初からそこにあったのだ。
「みんなの……そばに……っ、いたい」
芽榴の目から零れ落ちる光の粒はとても綺麗で、自分を穢れていると思い込んだ独りよがりの少女は暗い世界から光の世界へ放たれた。
過去の話をして、笑える日が来るとは思ってなかった。
「みんな……ありがとう」
闇の中にいた少女は嬉しそうに笑っていた。そう、今の芽榴も昔の芽榴も元は同じ、温もりを探す寂しがり屋の少女。
そしてみんなの隣に立つことができる、たった一人の女の子だ。
芽榴はそのとき初めて「私が私でよかった」と心の底からそう思った。




