150 居場所と別離
「芽榴ちゃんがいない!?」
楠原家では重治の悲鳴まじりの声が響いた。
芽榴は重治たちの前から忽然といなくなった。
楠原家から出ていくことでしか、感情を抑え込む方法が見つからなかった芽榴は行くあてもないのに、重治たちの元を去った。
「帰ってきたら、荷物も全部なくなってて……ど、どうしよう。芽榴ちゃんに何かあったら、ああ……もう、芽榴ちゃんも無理やり買い物に連れていけばよかった!!」
取り乱した真理子は自分で自分を責めていた。近所はすでに探して、芽榴はどこにもいなかったのだ。
「まったく……っ、あの馬鹿そっくりだ」
重治は困ったように溜息を吐く。たった一人で重い荷物を背負おうとする芽榴の姿は在りし日の東條の姿を彷彿とさせていた。
「駅の方に行ってみるか」
家の中で待っていても何も解決しないことだけは確かだった。重治は芽榴を探しに家を出ていこうとする。けれどそんな重治の耳に息子の震える声が聞こえた。
「めるねえちゃん……いないの?」
圭が心配そうに、重治と真理子のことを見ていた。幼さゆえの直感だったのだろうか、圭には芽榴がいつか急にいなくなってしまうような予感があったのだ。
悲しそうな顔をする圭の頭を、重治は優しく撫でた。
「必ず連れて帰ってくるぞ。安心しろ、圭」
けれど、重治にも芽榴がどこに行ったかは分からない。最終手段を使うことを決めた重治はポケットから携帯を取り出した。
『はい、東じょ』
「おいこの馬鹿!」
通話が繋がった瞬間に、重治はそう怒鳴った。
「芽榴ちゃんが行きそうな場所、分からないか!?」
携帯に向かって重治は叫ぶ。重治から問われ、察しのいい東條はすぐに芽榴がいなくなったのだと気づいた。
『楠原、お前……今どこだ』
「待て待て待て。お前は動くなよ? またお前んとこのおばさんが煩くなる」
一緒に芽榴の捜索をしそうになった東條を、重治が止めた。あくまで芽榴を今預かっているのは重治で、東條ではない。受け入れた分の覚悟と責任を重治はちゃんと分かっていた。
「どこでもいい。芽榴ちゃんが行きそうなところ、分からないか?」
重治は冷静に問いかける。東條は自分の記憶を必死に辿った。思い返せば思い返すほど、芽榴との思い出が少ないことに気づかされる。芽榴が行きそうな場所――そもそも芽榴は何処かに行きたいと願うような子ではなかった。
そして東條は気づいた。芽榴が自分に行きたいと願った場所がたった一つだけあったことを。
『……墓』
かつて芽榴が自分とともに何度か出向いた場所はそこだった。
『榴衣の、墓だ』
「……っ」
その答えは重治の心をも締め付ける。すべてを繋ぐその場所はとても儚い記憶の巣窟だった。そして芽榴が自分の母親の眠る場所を居場所にしようとしている事実は何より切なかった。
墓場に一人佇む少女は、とても小さい体をしていた。その体とは正反対に、抱え込んだものは大きすぎて容易に少女を押し潰してしまえるのだ。
「お母さん」
芽榴は綺麗に手入れされている墓に、そう呼びかけた。透き通るような声は静かな空気に消える。もう周囲は薄暗かった。
「……どうして、お母さんは私みたいな子を産んだんですか」
写真に映る母親はいつも笑顔だった。祖母にあれほど嫌われて、芽榴よりもはるかに多くの憎まれ口をたたかれて、それなのに榴衣が笑っていない写真は一つもなかった。
「産むだけ産んで、すぐに死んで……無責任すぎますよ」
墓に向かって、どうしようもないことを芽榴は言い続ける。誰にも言えない思いを芽榴はただひたすらに言葉にした。物言わぬ墓は唯一のはけ口になった。
「どうして、一緒にいてくれないんですか」
芽榴は手をギュッと握りしめた。これを口にしたところでどうにもならないと芽榴は分かっている。けれど、どうしても吐き出してしまいたかった。
母親が生きていてくれたら、違う人生もあったのではないか。そんな妄言を吐くことしかできなくなった自分を、芽榴は嘲笑う。
「私はお母さんの代わりにはなれませんでした……」
芽榴は東條の顔を思い出しながら、そう呟いた。東條に心配な顔しかさせられなかったことを芽榴はそんなときでも考えていた。
「……お母さん、私……」
「芽榴ちゃん!!」
その声を聞いて、芽榴はすぐに後ろを振り返った。
「……重治おじさん」
振り返ると息切れをした重治がそこに立っていた。芽榴は唖然としたまま立ち尽くす。
ゆっくり、ゆっくりと歩み寄った重治は芽榴の肩を掴んだ。
「勝手に……何も言わずに出て行ったら駄目じゃないか!」
とても心配そうな顔をして、重治は芽榴を見ていた。重治の困り顔は東條が芽榴に向けていたものと似ていた。
その顔を、芽榴は見たくないのだ。芽榴は心配をかけることを重荷になることと結びつけ、誰の重荷になることも拒んでいた。
「……ごめんなさい。でも、私はもう戻りません」
芽榴ははっきりと重治に告げた。重治は少しの間をおいて「じゃあ…どこに行くんだい?」と優しく芽榴に問いかける。その答えはどこにもなくて、芽榴は黙るしかなかった。
「まだ芽榴ちゃんは7歳だ。一人で生きていける歳じゃない。いや……一人で生きていける人間なんていないんだよ」
重治はしゃがみこんで、芽榴の目線にあわせて喋ってくれた。重治から滲み出る優しさが芽榴を引き戻そうとするけれど、芽榴は必死にもがいていた。
「……私がいたら、きっといつか……私のことを疎ましく思いますよ」
まるでその確信があるかのように、芽榴はその考えを疑いもしない様子で言った。
「私は……人とは違うんです」
「……どう、違うんだい?」
重治は静かに芽榴に問いかける。芽榴は重治の目を見て、ある質問を投げかけた。
「おじさんは、3年前の今日……お昼ご飯に何を食べたか思い出せますか?」
何の脈絡のないような質問に重治は戸惑った。それでも、冷静に芽榴の質問を考えて首を横に振った。覚えているはずがなかった。特に記憶しようと思うわけでもなかったこと、まして3年前の平凡な一日の記憶など無に等しかった。
「私は3年前の今日、朝起きて寝るまで自分が何をしたか全部覚えてます。2年前の今日も、今日じゃなくてもいいです。どんな日のことでも、私は全部……覚えてます」
芽榴の告げた真実は重治に大きな衝撃を与えた。そんなことができる、まして7歳の子どもが持ち得る記憶力ではないと重治は思った。
「大きくなっても私の頭の中には、事件の記憶が何一つ欠けることなく残って……だから私はいつおかしくなるか分からないんです」
事件の後、落ち着きを取り戻すための方法は唯一熱りが冷めるのを待つしかなかった。小さい子なら特にそうとしか言えない。けれど芽榴の中からその熱りが消えることはない。
記憶の中ではいつだって事件の最中の自分に戻ることができる。暗い部屋の中に入ると、自分を見失うほど怖いのだ。きっとその恐怖が拭われることはこれから先もない。そう、芽榴は分かっていた。
永遠の爆弾を抱えた少女を引き受ける覚悟は簡単なものではなかった。
7歳で、心がどうしようもなく不安定にもかかわらず、芽榴は冷静に大人の事情まで理解していた。そんな芽榴をすごいと言う人もいるのかもしれないが、重治にはそんな芽榴を可哀想だと思うことしかできない。
目の前にいる少女は重治の想像よりもはるかに儚い。少し弾けば、すぐにでも壊れてしまいそうだった。
だから重治はそっと芽榴を抱きしめた。
「や……ぁ……うっ」
抱きしめられた瞬間、ゾクリと気持ち悪い感覚が芽榴を襲った。けれど重治は芽榴の拒絶しようとした手ごと、芽榴を抱きしめた。
「おじさんに全部ぶつけていい。おじさんに遠慮する必要はないんだ。お父さんにできなかった分、おじさんにぶつけなさい」
重治は言った。
親子の絆はとても固いけれど、その反面とても脆い。だからこそ東條は芽榴に拒まれた瞬間に芽榴を抱きしめることができなくなった。
それを重治はしてあげられる。拒まれても構わないという感情はある意味で、縛りのない関係だからこそ出来たことだったのかもしれない。
「……まだこんなにも幼いのに……放っておけばいい荷物まで抱えて……」
芽榴の考えていることはすべて大人の事情だ。確かに子どもはそれに振り回されるしかない立場にある。けれど芽榴はその事情を当の大人からも取り上げて自分のものにしようとしていた。
「……全部、降ろしていいんだよ。君が抱え込まなきゃならない荷物は何一つないんだ」
重治の言葉は芽榴の心にジワジワと広がる。欲しい言葉で溢れすぎていて、芽榴はどうすればいいのかも分からなくなっていた。
「本当は誰よりも守られなきゃいけないはずだったのに。……芽榴ちゃんは悪くない。芽榴ちゃんがおじさんの家を出て行く理由は何もないんだ」
芽榴は重治の服を掴んだ。その手に力をこめ、歯を食いしばって涙だけは堪えていた。
「……おじさんは…おじさんたちは……どうして、そこまで……してくれるんですか。血の繋がりなんて全くないのに、どうして」
芽榴は言った。重治が東條の分家の人間でないことは知っていた。だから重治はどの分家よりも早く芽榴を追い出す権利があって、逆に芽榴を受け入れたことのほうが疑問だった。
「芽榴ちゃんが、大切な友人たちの大事な子だから……血の繋がりがなくても、おじさんと芽榴ちゃんは繋がっているよ」
「……っ」
「おじさんは芽榴ちゃんが赤ん坊のときから、芽榴ちゃんのことを知っているんだ」
重治は芽榴に教えてあげた。芽榴の母親が自分の幼馴染で、芽榴の憧れる東條は大嫌いな大親友だと矛盾する思いさえも芽榴に伝えた。
「芽榴ちゃんのお父さんは……よく真理子おばさんに相談していたんだよ。女の子はどんな物を欲しがるのか、どんな服を着たいのか。内容は全部芽榴ちゃんのことだったよ」
「……そんなの……嘘、です」
嘘だと言い張る芽榴に、重治は「嘘じゃない」と優しく答える。
芽榴は重治の言う事実を信じられなかった。東條は完璧な人で、手を伸ばしても届かない人で、芽榴のことをそれほどまで気にかけるはずがなかった。
その芽榴の思い込みを重治の言葉は根底から否定していた。
「だからおじさんは、ずっと芽榴ちゃんのことを知ってた。芽榴ちゃんが何でもできることも、頑張り屋ってことも――かけっこで必ず1番をとることもおじさんは知ってる」
重治の言葉で、芽榴は目を見張った。
「どうして……そんなことまで」
最後のことは誰も知るはずがなかった。芽榴が幼稚園の運動会、かけっこで1番をとり続けたことを芽榴は誰にも言わなかった。幼い子どもが何より自慢したいことまで、芽榴は自分の心に閉じ込めていた。
「芽榴ちゃんのお父さんは、芽榴ちゃんが思ってるよりずっと不器用なんだ。誰にも、芽榴ちゃんにもバレないように、こっそり運動会もお遊戯会も顔を出していたんだよ。それをいつも自慢げにおじさんに電話で伝えてきた。芽榴ちゃんに言わなきゃいけないことを、お父さんはおじさんに全部言ってたんだ」
東條は本当に不器用だった。娘の褒め方さえ分からないくせに、重治に嬉しそうに芽榴の自慢だけはしていたのだ。芽榴が気づかなければ、やっぱりそれは見に来てないのと同じ。でも、東條が時間を割いてまで自分の勇姿を見に来てくれていたのなら、芽榴にとってそれより嬉しいことはなかった。
「……は、ぁ」
芽榴の口から声が漏れる。でもそれは言葉にならない。
「…うっ……あ…あ、ぁぁあぁあぁああ!」
芽榴の頭の中で何かが音を立てて切れた。
募り積もった思いは叫びとなって芽榴の口から漏れていく。芽榴は重治の胸の中で泣いていた。涸れたはずの涙はとめどなく芽榴の目から流れた。
「……ぁ……くっ、すまない……芽榴」
そんな芽榴は近くで、もう一人自分と同じくらい泣いている人がいたことを知らない。
芽榴はその次の日、重治に一つだけ我儘を言った。「最後にもう一度だけ、お父さんに会いたいんです」と、芽榴は真っ直ぐ重治を見てお願いした。
重治は了解した。そのときの芽榴は重治のところに預けられているだけで、まだ《東條芽榴》だった。だから親子が会うことに許可がいるはずもないのだ。
重治は夜、社員もいなくなった頃に芽榴を東條のオフィスに連れて行った。芽榴だけが中に入り、重治は扉の外で待っていてくれた。
「――――お父さん」
芽榴は見慣れた背中に呼びかけた。
「……私、おじさんのところに行きます。楠原芽榴に、なります」
芽榴の答えを東條は望んでいた。芽榴がそう言ってくれることを願ったはずなのに、東條の心は切なく締め付けられた。
「そうか……」
東條は振り向かない。それはケジメだった。どんな理由であれ、東條は芽榴を手放したのだ。振り向けば、芽榴に謝って抱きしめてしまうだろう。けれどそんな権利も、もう東條にはなかった。
「もう、私を見て不安になることはない。……東條家の荷物を下ろしていいんだ。幸せに、暮らしてくれ」
何という無責任なセリフなのだろう。そう、東條は最後まで自分を責めることしかできない。天下の地位を得たところで、東條は並の父親にさえなることができなかった。誰に言われなくても、東條自身が1番分かっているのだ。
「最低な父親で……悪かった。もし許されるなら……」
東條は拳を握る。
「――――最後にもう一度顔を見てもいいだろうか」
東條はゆっくりと振り返ろうとしていた。けれど、それを止めたのは静かな少女の声だった。
「見ないでください」
拒絶の言葉は東條を苦しめる。しかし東條はそれに対して文句を言えない。言う資格などなく、芽榴の答えは当然だと東條は納得した。そんなことを考える東條に、芽榴はもう一度言葉を告げた。
「最初で最後のお願いがあります」
振り向くなと言った芽榴は、東條の背中に告げる。東條は目を瞑り、芽榴の願いに耳を傾ける。どんな罵倒も受ける覚悟だった。
けれど、芽榴が東條をこれ以上拒絶することも罵ることもできるはずがなかった。
「いつか、私がみんなに自慢できる女の子になったら……会いにきてください」
透き通るような芽榴の声が東條の耳に届く。瞬間、東條は瞠目した。
「もっと、お父さんを笑顔にできるくらい……立派な人間になったら、必ず会いに来てください」
芽榴の願いは昔から何一つ変わらない。東條の自慢の娘になることだけだ。でもこれからは違う。東條のためだけじゃない、自分のために楠原家の人たちのために、芽榴は頑張ることを決めた。
「だから、そのときまで絶対後ろを振り返らないでください」
それが芽榴と東條の約束だった。
けれど、その約束が叶うのは十年先。
楠原芽榴になっても、平穏無事な生活が送れるわけではなかった。




