149 天使と悪魔
芽榴の楠原家での仮の生活が始まった。
仮と名付けたことに深い意味はない。ただ、どうせ重治たちも自分のことを厄介に思ってすぐに他の家に回すだろう、と自分の処遇をまるで他人事のように考えていただけ。
だから芽榴はいつでも出て行けるように心の準備をしていた。
「芽榴ちゃん、はじめまして。楠原真理子です。こっちは圭。芽榴ちゃんの1つ年下になるのかな」
重治に連れられてきた芽榴に、真理子はそんなふうに自己紹介をする。そして自分の足元で芽榴を興味津々に見つめる小さな男の子の紹介もしてあげた。
「はじめまして、めるねえちゃん」
そう言って圭が躊躇いがちに芽榴の手を握る。圭の手が触れた瞬間、芽榴は瞠目した。
圭の手は信じられないくらい温かかった。数度しか握ったことのない父の手の温もりと似ている、とても愛しくて温かい手をしていた。
芽榴の冷たい手に触れた圭ははにかむようにして笑う。笑顔を知らない芽榴に、圭は可愛らしい笑顔を向けた。
そんな圭の純粋な笑顔は荒んだ芽榴の瞳に何よりも美しく映った。圭のことを綺麗だと感じ、そしてそれゆえに芽榴は自分の汚さが浮かびあがるようで怖くなる。
「はじめ、まして……」
今までの分家の人とは違う。
重治と真理子、そして圭のまとう雰囲気は今まで芽榴を取り囲んできた空気とは明らかに違っていた。
優しい家庭なのだと芽榴はすぐに察した。だからこそ自分がここにいていいはずがない。出て行かなければならない。いや、きっとすぐに追い出されてしまうだろう、と芽榴は思い込んだ。
「圭ってば、お姉ちゃんができて嬉しいのね」
一瞬、真理子の言葉の意味が芽榴には分からなかった。
「姉……? 本気で、私を引き取ろうと、思ってるんですか」
芽榴は「ありえない」とでも言いそうなくらいに呆然とした表情で真理子を見ていた。真理子の笑顔はとても優しくて、その笑みが偽りのものではないと分かっているのに、ありもしない真理子の裏の感情を見ようと必死だった。
「気休めなら……結構です」
本当の優しさを知るのが怖かった。
知ってしまえばきっとこの場所にいたいと思ってしまう。知らなければ傷つくことはない。切り捨てられたときに悲しい思いをする必要はないのだ。
「芽榴ちゃん、ご飯の時間だぞー」
とても穏やかな家族だった。
この家族が異常なのか、それともこれが普通なのか、芽榴には分からない。けれど、芽榴を包み込む暖かさは確かに本物だった。
「……何ですか、これ」
真理子の料理を目にした芽榴は、唖然とした表情でそう言った。
当時の楠原家の食卓に並んでいたのは真理子の作った食事だった。当然すべて真っ黒。
苦笑いを浮かべながら文句を言わずにそれらを食べる重治と、「料理は基本真っ黒なものなのだ」とでも言わんばかりに平然とした顔で食する圭が、芽榴には信じられなかった。
「これじゃあ、お腹を壊します。台所を貸してください」
身体に影響を及ぼしそうな料理には、さすがの芽榴も黙っていられなかった。芽榴は楠原家の台所に立ち、冷蔵庫にある材料をいくつか使って、作り上げた料理を食卓に並べた。
「す、ごい。テレビでみるごはんだ……」
適当に材料を選んで作った料理で、栄養バランスまでは考えられていない。芽榴にとってそれは不完全な料理だった。けれど、美味しそうな匂いを放つ料理を目の前にして圭はそんな感嘆の声をもらす。数分で作った簡素な料理にさえ目を輝かせる圭が不憫で、芽榴は少しだけ泣きそうになった。
「芽榴ちゃん、料理が上手なんだな……」
重治も感動しながら、芽榴の料理に箸をのばしていた。
「あ……」
2人の様子を見ていて、芽榴はふと気づく。この家の台所を預かってきたのは真理子で、芽榴のしたことは真理子に対して失礼だったのではないか。出過ぎたことをしてしまった、と芽榴は後になって自分のしたことを後悔する。
けれど、恐る恐る真理子のほうを見た芽榴の頭からその考えは消え去った。
「おいしーっ! 芽榴ちゃんすごいわ。 ねぇねぇ、これどうやって作るの?」
芽榴の料理を食べて真理子は両頬を押さえていた。怒るどころか、真理子は心から芽榴の料理を褒めていた。
「え……えっと」
楠原家での生活は芽榴の常識を覆すことばかりだった。
芽榴に接する人たちは常に芽榴とある一定の距離を保ち続けてきた。けれど、楠原家の人たちはその距離を一気に近づけて、芽榴との壁を壊していった。
「めるねえちゃん、これなに?」
何でも知っている芽榴を圭はまるで本当の姉のように慕ってくれていた。
「芽ー榴ちゃん、ご飯味見させて」
真理子は芽榴のことを本当の娘のようにして扱ってくれた。母親がいなかった芽榴にとって、遠慮のない言葉も仕草もどれもがくすぐったくてもどかしかった。
「芽榴ちゃん、そんなところにいないで、こっちに座りなさい」
重治は芽榴を一人にしないようにいつも気を配ってくれた。そんな重治は東條の分まで芽榴の父親になろうとしてくれていたのだ。
親しげな呼び方も態度も、全然癪ではなくて、逆にその感覚を心地よいとさえ芽榴は感じていた。
芽榴はせめてこの生活を、彼らの家庭を壊さないようにしたかった。
「おやすみ、芽榴ちゃん」
芽榴が部屋のベッドに入ると、真理子は優しく笑いかけ、部屋を閉める。同時に部屋の中の明かりも真理子は消してくれた。
「……っ、うっ」
暗い部屋が怖い。あの事件からずっと、暗い部屋の中は倉庫の中を思い出させるようで芽榴は苦手だった。
しかし、ただその一言さえ芽榴は言おうとしなかった。我慢してどうにかなるような問題でもないのに、ずっと隠し通すつもりで芽榴はそれを黙っていた。
けれど、そんな独りよがりの芽榴を楠原家の人たちは放っておくことはなかった。
「芽榴ちゃん、寝てるのにごめんねー」
ある日真理子は芽榴を部屋に連れて行った後、そんなふうに言って戻ってきた。
次の日の朝のことについて芽榴に話し忘れていたことを言いに来たのだが、真理子は部屋の中にいる芽榴を見て、顔色を変えた。
「……芽榴ちゃん? 芽榴ちゃん、どうしたの!?」
ベッドの上、耳を塞いだまま体育座りで縮こまっている芽榴に真理子は慌てて駆け寄った。
芽榴は震えていて、真理子はその理由が分からずに混乱してしまう。
「芽榴ちゃん、どうしたの? お腹、痛い?」
芽榴の背中を摩りながら、真理子は優しく問いかける。耳を塞ぐ芽榴の手に触れ、真理子はずっと芽榴に心配の声をかけ続けた。
「……真理子、さん……ごめん、なさい」
真理子の温もりと声が聞こえた芽榴は、少しだけ正気に戻った。けれど真理子に厄介な自分を見られて、芽榴の震えは余計に止まらなくなってしまった。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
「どうしたの? 芽榴ちゃん、謝らなくていいから、どこか痛くない?」
「……ごめんなさい。部屋の中……暗いのが……ダメなんです」
芽榴は本当のことを言ってしまった。真理子の声が優しくて、黙っておくつもりだったのに、簡単に白状してしまったのだ。
聞いた真理子は急いで部屋の電気をつけた。
「大丈夫? 芽榴ちゃん、これで大丈夫?」
明るくなった部屋の中で、真理子はもう一度芽榴に駆け寄って、芽榴の顔色を確認するように問いかけた。
「はい……ごめんなさい」
芽榴は自分が情けなくて泣き叫びそうだった。ただ、真理子たちに迷惑をかけたくないないだけなのに、何もかもうまくいかず、余計に心配をかけてしまうだけ。そんな自分が腹立たしくてならなかった。
「謝ることじゃないわ」
でも真理子はそう言って芽榴を抱きしめてくれた。芽榴が落ち着くように、何度も何度も頭を撫でてくれた。
「芽榴ちゃん、遠慮なんかしないで。大丈夫だから」
こんな芽榴を知って、分家の人たちは厄介払いをするかのように、すぐに芽榴を他の家へ回してしまった。それなのに真理子は包み込むように、芽榴を抱きしめてくれたのだ。
自分のような人間に向けられるはずのない愛情が十分すぎるくらいに注がれている。その事実が芽榴には切なくて苦しくて、どうしようもなく愛おしかった。
「……だめ。いつか無くなるんだから……」
楠原家で過ごす日々は暖かすぎて、芽榴はそれを失うのが怖くなり始めていた。後戻りできなくなる前に、この感情をどこかへ捨てなければならなかった。
「めるねえちゃん、めるねえちゃん」
けれど、声を聞いてしまえば心はそこに根を張ろうとしてしまう。
圭はいつも芽榴を笑わせようとしてくれた。まだ幼いはずの圭は、芽榴が笑わないのではなく笑えないことをちゃんと分かっていた。だからそのときもわざと変な顔をして、芽榴を笑わせようとしていた。
「圭くん、ありがとう」
変顔をしたところで、芽榴は笑わない。それでも圭の優しさや思いの分を返してあげたくて芽榴は精一杯の柔らかい表情で圭を見ていた。
「ごめんね、めるねえちゃん」
圭は顔を元に戻して、さみしそうに言う。圭にそんな顔をしてほしくなくて、芽榴は何か言葉をかけようと思った。けれど芽榴には何一ついい言葉が思い浮かばない。
そんな芽榴を見て、圭は芽榴を元気づけるようにニカッと歯を見せて笑った。
「でも、ぼくがぜったい……めるねえちゃんをえがおにしてあげるから! へんなかお、もっとれんしゅうしてじょうずになるから! だからだいじょーぶだよ!」
そう言って、圭は芽榴の手をギュッと握った。圭は芽榴を最高の言葉で励ました。
なんでも知ってるはずの芽榴は、まだ漢字も数えるほどしか読めない圭よりも、知らないことがたくさんあった。慰めの言葉一つ思い浮かばない芽榴は本当に大切なことを何も知らなかったのだ。
「圭くんが、本当の弟だったらよかった……」
芽榴は思わず本音をもらした。楠原家の人間は快く芽榴を受け入れてくれている。そのことをもう否定するつもりはなかった。
でも所詮、芽榴と重治たちは他人だった。吹いたら飛んでいきそうな薄っぺらい関係性だけが目について、芽榴は逃げ出したくなる。
「ごめんね。こんなことしか言えなくて」
芽榴は謝ることで、距離を置こうとしていた。けれど、圭はあのときから芽榴の壁を難なく飛び越えてくるような子だった。
「……なにいってるんだよ、めるねえちゃん」
芽榴の心はずっと泣いてばかりで、圭の剥き出しの優しさがその涙を拭いさってくれるように芽榴を溶かしていく。
「ぼくはめるねえちゃんがだいすきだから、ぼくのおねーちゃんは、めるねえちゃんだけだよ」
「……っ」
「めるねえちゃんはぼくのこと、すき?」
好きという言葉がこんなにも嬉しいと知らなかった。本で何度も目にしたその感情は芽榴には最も遠い感情だと放り投げたものだった。その感情ごと拾い上げてくれる圭は誰より大きな心を持っていた。
「好き……大好きだよ、圭くん」
その感情を知った芽榴は、そう言って圭の手を握り返す。すると、圭は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあやっぱり、ぼくはめるねえちゃんのおとうとだよ」
圭のそんな暖かい言葉はほんの少しの笑顔を芽榴に与えた。
「めるねえちゃん、わらった!」
「え……あ、ほんとだ」
驚いた顔をする芽榴を見て、圭はやっぱり芽榴よりも嬉しそうに笑うのだ。
どうしようもない感情は募るばかりで、嬉しさと幸せが芽榴の中に溢れていた。けれど、それと同時に相乗効果で膨れ上がる不安は計り知れなかった。
芽榴に与えられる幸せはないのだ、と。
芽榴の幸せはすぐに消えてしまうのだ、と悪魔のような囁きは芽榴の闇を濃くするばかりで――。
だから芽榴は、彼らの前から姿を消すことを選んだのだった。




