148 決断と重荷
芽榴が閉じ込められていたのは、犯人が勤めていた東條グループの傘下の会社の倉庫だった。その倉庫が滅多に使われないこと、そして灯台下暗しという考えから、犯人は芽榴をそこに閉じ込めて、犯人の思惑通り発見は遅れたのだ。
警察によって見つかった芽榴は一度死んだも同然だった。
開いた瞳孔は久々に与えられた光を拒絶する。芽榴の心はどこにもなかった。
一週間のあいだに口にしたのは、倉庫の中に偶然置いてあったペットボトルの水だけ。その水がなければ、生きて見つかったかも分からない状態だった。
「……芽、榴」
芽榴と再会した東條はひどく窶れていた。芽榴が誘拐されて、東條は一週間一睡もしなかったのだ。その顔に刻まれた隈は、芽榴を連れ去った犯人よりも深い。
発見された直後の芽榴は、そんな東條の姿よりもはるかに酷い姿をしていた。
扉を壊そうと必死で叩き続けた手はボロボロになり、その痛々しさを隠すように包帯を巻かれていた。グチャグチャの髪も、涙のあとが残る頬も、腫れた目も、どれもが事件の残酷さを伝えていた。
「すまない……芽榴」
東條はとても苦しそうに、芽榴に謝罪の言葉を述べた。しかし、その言葉は芽榴の耳には届いていなかった。壊れた心はどんな言葉も受け入れることができなかったのだ。
「私を許してくれ。芽榴。……本当に、すまない」
東條の唸るような声は、芽榴の耳を通り過ぎていく。傷ついた愛しい娘をただ抱きしめてあげたくて、東條はその手を伸ばした。
けれど東條が芽榴の体に触れた時、芽榴のすべてが音を立てて崩れた。
「や……やだぁぁあぁあ!」
芽榴の嗄れた喉から裂くような声が漏れた。叫び声とともに芽榴は東條の手を拒んでしまった。
芽榴を暗闇に閉じ込めた手と同じような大きな男の人の手が怖かったのだ。その手が持つ優しさを感じるよりも早く、芽榴はその手を振り払った。
「あ……いや、……ごめ、なさい」
振り払った瞬間に見た東條の顔を芽榴は一生忘れられない。他でもない父の手を振り払ったことに気づいたとき、芽榴は自分のしたことを信じられずにいた。一番大切に思っていた人の手をこんなにも酷い形で振り払った自分が愚かすぎてワケが分からなかった。
「まだ不安定だから、仕方ないです。お嬢様を責めないであげてください。お嬢様も、大丈夫ですよ」
警察の優しい言葉は芽榴の頭に入ってこない。「不安定だからどうした」と芽榴は自分に問いかけた。心が不安定なのは今始まった話ではなかった。生まれた時からずっと何もかもが不安だった芽榴に、その類の慰めは通用しない。自分の弱さが東條に迷惑をかけて、最低なやり方で彼を悲しませたのだ。
「う……あぁぁあぁぁあぁあ!」
頭の中はグチャグチャだった。自分のすべてが悪の根源であるような感覚は芽榴を容赦なく壊していく。
「ごめん、なさい。どうして、どうして……私、本当に、ごめ」
「芽榴……もう、いいんだ。もう……いい」
壊れた人形のように自分を責めて謝り続ける芽榴に、東條がかけた言葉はそれだった。東條の精一杯の優しさを、芽榴の荒んだ心は諦めのように感じてしまった。
芽榴の心はその一言で粉々に砕けた。
「……ごめん、なさい……」
東條にあんな辛い顔をさせた自分を、芽榴は一生責め続けることになった。
しかし、事件の最中よりも事件の後のほうが悲惨だった。
芽榴は瞬間で全てのことを記憶し、その記憶は永続する。驚異的な芽榴の記憶力はとても便利で誰もが羨む能力。けれど、それと同時に何より残酷な能力でもあった。
事件の記憶は薄れることなく、常に鮮明な記憶として芽榴を襲った。ふとした瞬間に蘇る事件の記憶は生々しいほどにリアルだった。倉庫の中の汚い様子も、埃くさい匂いも、自分の手から流れる血の匂いも、自分の醜い叫び声も、何一つ忘れることはできない。欠ける記憶はなかった。
「……うっ」
芽榴は屋敷の中に入ることができなかった。屋敷の中に入ろうとすると、全身が拒絶して芽榴は吐くようになった。
東條と向き合うと、芽榴の口からは謝罪の言葉しか出てこなくなった。
「……芽榴」
屋敷も、父親さえも拒絶するようになった芽榴を東條はどう扱えばいいか分からなくなっていた。
誰もが、芽榴を東條の元に置いておくことを不可能だと判断していた。誰よりも大切に思っているはずなのに、互いが互いを傷つけていく様はとても悲しかった。
そんなどうしようもない状況に終止符を打ったのは祖母だった。彼女以外にその無慈悲な答えを下すことができる人はいなかった。
芽榴が壊れたのは少なからず祖母の責任で、それを祖母も自覚していた。自分の決断がいかに残酷だったかを祖母も感じていた。
ただし、祖母のほんの少しの人間性が芽榴に同情していただけで、残りのすべてである東條グループの総帥という立場が祖母に一つの決断を下させた。
「あの子を、あなたの元から離します」
祖母の告げた言葉を東條は理解できなかった。
「どういう意味ですか……」
東條は呆然とした様子で、祖母に問いかける。対して祖母はまったく動じた様子もなく、その決断を東條に伝えた。
「あの子を分家に預けます」
「待ってください……。あの子に、今のあの子にそんな重荷まで背負わせるつもりですか」
東條の声は怒りで震えていた。最後の最後まで祖母は榴衣を認めず、その忘れ形見である芽榴にさえ酷い仕打ちをしようとしていた。
「これがあの子のためだと私は思っています」
「そんなはずが」
「あの子がどんな状況か、あなたもよく分かっているでしょう? 屋敷に入れば嘔吐して、あなたの顔もまともに見れなくなって……あなたの元にいることは、あの子にとって辛いだけなのですよ」
その言葉は、東條の不安を確信に変えた。
東條はずっと不安だったのだ。生まれた瞬間に母親を亡くした芽榴にどう接すればいいのか、7年間ずっと分からないまま。芽榴にとって自分は恨めしい存在なのではないか。芽榴と同じように東條もその不安を抱えていた。
だから、東條は祖母の言葉を否定することができなかった。動転した頭は冷静な考えを失っていた。
そして、芽榴は分家に引き渡されることになった。
「お嬢様。大丈夫ですよ? 私たちが責任を持ってお嬢様の面倒を見させてもらいます」
すべてが汚く見えた。
「こら! お嬢様に気安く触らないの。申し訳ございません。お嬢様」
分家筋の人間たちはまるで壊れ物を扱うかのように、芽榴を扱った。
「お嬢様、欲しいものはございませんの?」
分家筋は本家との繋がりを求める者ばかりだった。所詮芽榴をその道具としか思っていない者たちは、簡単に芽榴を受け入れ、芽榴の機嫌をとった。
芽榴の心の傷は癒えることなく深くなるばかり。
「……あ、ぁあ……いやぁぁあぁぁあ!」
突如として奇声をあげ、物を投げ散らかして暴れる芽榴は誰も手が付けられなかった。
家柄だけがよくて厄介なだけの芽榴を、たとえ本家との繋がりのためとはいえ、本気で育てようと思う分家の人間はいなかった。
東條は分家に芽榴を預けておくつもりはなかった。芽榴を利用することしか考えない人間たちの中に芽榴を置いておくことはできなかった。
けれど芽榴を傷つけることしかできない自分のそばにこれ以上芽榴を置いておくこともできなかった。どんな綺麗事を並べたてても、東條は傷つけることを覚悟して育てぬく、その責任から逃げただけなのだ。
芽榴を手離した最低な東條が唯一芽榴にしてあげられたことは芽榴が最も幸せでいられる場所を彼女に与えてあげることだった。
「今……何て言った?」
東條は楠原家の居間で土下座をしていた。
「頼む。……芽榴をお前の元にいさせてくれ」
重治は土下座する東條を立ち上がらせて、その頬を殴った。
「重治さん!」
「離せ、真理子! この馬鹿野郎が! その言葉をもう一度、榴衣の墓前で言ってみろ!」
床に転がった東條の胸ぐらを掴み、重治は東條を罵った。しかし東條は何も言い返さず、重治はそんな東條に苛立った。
「お前の子を、お前が育てなくてどうするんだ? それがあの子の幸せ? 違うに決まってる! お前はあの子のたった一人の父親だろう! しっかりしろ!」
重治は東條の目を覚まさせるように、叫んだ。
「榴衣の……お前が愛した榴衣との、たった一人の娘をどうして手離そうなんて思えるんだ!? とうとう頭がおかしくなったか!」
重治の言葉は何一つ間違っていない。すべてが大きな棘となって東條の心を突き刺した。けれどその痛みから東條は逃れることをしない。東條は重治の前に頭を下げるばかりだった。
「……頼む。東條家で育った自分では……あの子を幸せにできない。7年、共にいたのに、あの子の笑顔を見たこともない。……最低な父親……私は父親にさえなりきれなかったんだ」
誰よりも自分を責める東條は、確かに芽榴の父親だった。生まれてからずっと自分を責めることしか知らない芽榴は東條とそっくりだった。
「……東條、お前は……。本物の馬鹿だ……っ」
祖母のような育て方では自分のような人間しか育たない。だからこんな人間になってほしくなくて、芽榴にいろんな世界を見てほしくて、東條なりに考えた行動もすべてが逆効果だった。東條家の生き方に縛られる東條では所詮娘を家の縛りに巻き込むことしかできないのだ。
「芽榴、すまない。お前を不幸にすることしかできなかった私を……許してくれ」
事件がすべてではなかった。芽榴が7年間で背追い込んだ荷物をすべて降ろすには、地位や権力からかけ離れた場所でなければならない。そこはかつて東條自身が束の間の幸せを掴み取った場所。その場所を東條は芽榴の永遠の居場所として与えようとしていた。
「楠原……真理子さん……お願いします。あの子に、笑顔を教えてあげてください」
すべては芽榴のためだった。
その思いを重治も真理子も痛いくらいに理解した。
そして事件から半年後――。
「芽榴ちゃん。おじさんの家へおいで」
分家を転々としていた芽榴の前に、楠原重治が現れた。




