146 過去と記憶の底
――――すべてが完璧な女の子。
そうでなければ、東條芽榴はいらない存在だった。
「お嬢様」
芽榴はドレッサーの前で長い漆黒の髪を結われていた。自分に呼びかけた作り笑顔のメイドに芽榴は鏡越しに視線を向ける。すると、メイドは芽榴から目をそらして窓の外にその視線を移した。
「賢一郎様がご出発なされますわね」
芽榴はゆっくりと首を動かす。
窓の外では皺一つない綺麗なスーツに身を包む父親の姿があった。芽榴はいつもこの場所からこの時間に彼を見送る。その声で「行ってらっしゃい」と彼に言ってあげたことはない。いつも遠い距離から芽榴は父親を見ていた。父親の――凛とした大きな背中だけを見つめていた。
東條と芽榴が顔を合わせる唯一の機会は食事のときだけ。
細長いテーブルの端と端に向かい合って座るものの、その距離は5メートルもあって前を向いたところで互いの顔をはっきり見ることはできない。
「いっぱい食べなさい」
「はい。……いただきます」
会話はいつも数える程度のそれだけ。けれど芽榴はその数少ない会話のどれもが嬉しくて一言一句聞きもらさなかった。
芽榴にとって東條は憧れだった。
でもそれはきっと、手を伸ばしても届かないと分かっていたからこその思いだった。
「賢一郎様の奥様って、お嬢様を産んでお亡くなりになったの?」
「しーっ! 声が大きいわよ」
噂好きのメイドはよくその話をしていた。運の悪いことに、芽榴はよくその会話の最中に近くを通りかかってしまうのだ。陰口のつもりなら屋敷の外ですればいいものを、メイドたちは知らず知らずのうちに芽榴を傷つけていった。
「ああ……だから賢一郎様はお嬢様のことを直視できないのね」
メイドたちの噂話は芽榴の幼心を少しずつ抉っていった。芽榴は幼いながらに父親が自分を見てくれないことを分かっていた。その理由を芽榴は分かっていて考えないようにしていたのに、メイドたちは容赦なくそれを言葉にしてしまう。
自分のことが嫌いだから――。だから東條は芽榴を直視できないのだと、その考えが芽榴を支配して芽榴の無垢な心を穢した。自分が母の命を奪ったから、そんな自分を東條は恨めしくて仕方ないのだと、芽榴は自分が生まれてきてしまったことを嘆くことしかできなかった。
そんな芽榴の不安は些細なことにさえ敏感に反応していった。たとえば幼稚園もそう。当時の芽榴は意外なことに普通の幼稚園に通っていた。家柄のよいお嬢様が通う幼稚園もあったのに、東條自らが選んだのは誰もが通うことのできる幼稚園。しかし、それゆえに芽榴が「東條家のお嬢様」であることを知られないように東條はあらゆることに手を回し、その事実を知っていたのは園長先生だけだった。
「めるちゃんのおとうさんってどんなひとなの?」
お母さんに結ってもらった左右対称ではない2つ結びを揺らしながら、その女の子は教室の隅で本を読む芽榴に近づいてきた。
「すごい人だよ」
「すごいの?」
「うん。誰よりもすごいんだ」
それは本当のこと。芽榴にとって、世間の人にとっても、東條は「すごい人」だった。けれど、幼い子どもにとって、すごいの基準はとても曖昧で単純だった。
「すごいひとなのに、めるちゃんのおとうさんはどうしていつもうんどうかいみにきてくれないのー?」
「……」
「おゆうぎかいもぜんぶみにきてくれないのはどうして?」
幼い少女の言葉は芽榴を容易に傷つけた。
自分ができの悪い娘だから、普通の幼稚園に通うことになった。できが悪いから、自分を見に来てくれないのだ。そんな思い込みが芽榴の心を覆い尽くす。芽榴は自分のすべてが大嫌いで、いつしか誰より自分が自分のことを恨めしく思うようになっていた。
東條に振り向いてほしい。
その願いだけが、幼い芽榴を構築していった。
ピアノも、バイオリンも、書道も茶道も華道も、武芸まで、ありとあらゆるすべてのことをその小さな体は並の人の倍以上に吸収していく。芽榴が自分の記憶力のよさを実感したのもそのころだった。
そしてその結果生まれたのが、できないことは何一つない完璧な少女、大切な感情がすべて欠落した《東條芽榴》だった。
「お嬢様。今日はどちらのワンピースをお召しになりますか?」
1人のメイドが芽榴に2つのワンピースを持ってくる。紺色のシックなワンピースと赤色の可愛らしいワンピース。普通の5歳児に問えば、きっと何の迷いもなく可愛らしい赤色のワンピースを指さすだろう。
「今日はおばあ様が来るんですよね? なら、そちらの方がいいです」
5歳とは思えないほどはっきりした物言いで、芽榴は紺色のワンピースに決めた。
高級なワンピースに笑顔一つ見せない芽榴をメイドたちは「本物のお人形」と陰で言っていた。その名には憧憬がこめられているときもあったが、多くは芽榴への皮肉がこもっていた。
年齢を偽らない唯一の可愛らしい白い顔は笑顔を見せることなく、物言いは常に大人のそれを凌ぐほどに落ち着きはなっていた。生まれて5年しか人生を経験していないはずの少女は、すでにその背中に負う必要のない責任と罪悪を抱えていた。
「総帥、お疲れでしょう。少しお休みになりますか?」
「いいえ。それより賢一郎はいるのかしら」
「まだ賢一郎様は帰られておりませんので、しばしの間こちらへ」
執事長がいつもよりはるかに腰を低くし、まだ皺の少ない東條グループ総帥・東條由紀恵を屋敷の中に誘導する。
芽榴の祖母にあたる彼女は月に1度、芽榴の住む東條賢一郎の屋敷へと足を運んでいた。そのころ、東條はグループ社長の座を譲り受けたばかりで権限は総帥である祖母にすべてあり、東條家のすべては彼女の決断に委ねられていた。妻を亡くしてしばらく使い物にならなかった東條の尻拭いをしていたのも祖母で、東條が妻の死から立ち直ることができても東條はずっと祖母の監視下に置かれていた。
賢一郎が帰るまで、祖母は広い部屋の中に居座る。彼女の地位は賢一郎よりも高く、メイドも安易に近づくことはできなかった。だから祖母の相手をするのは常に執事長と芽榴だった。
「おばあ様、紅茶をお持ちしました」
芽榴は何一つ文句のつけどころがない美しい所作で祖母の目の前にティーカップを置く。執事長も幼い芽榴の動作一つ一つに感嘆するが、祖母はそんな芽榴を決して褒めたりはしなかった。それどころか榴衣の面影をチラつかせる芽榴を祖母は忌み嫌うことしかできなかった。
「勉学や稽古に習い事、することはたくさんあるのに……わざわざ私の機嫌取りにくるなんて、相変わらず狡賢い子ね……あの方にそっくり」
祖母は榴衣の名前を口には出さない。それほどまでに憎い女性の子である芽榴を、祖母は血の繋がる孫として愛そうとはしなかった。
「そ、総帥。申し訳ございません。お嬢様をこちらへ寄越したのは私でございます。お嬢様を責めないでくださいませ」
執事長はそう言って祖母に頭を下げる。けれど執事長は芽榴を総帥の前に連れてこないわけにはいかなかった。芽榴を総帥に会わせなければ、それはそれで「挨拶にも来ない礼儀知らずの子」と言って、また榴衣とともに蔑むことしかしない。執事長にとって、これは芽榴のためだった。
「いいえ。私がおばあ様に会いたくて来たんです。ごめんなさい。すぐに稽古に戻ります」
「……」
「……お嬢様」
総帥に認められなければ、榴衣と同じように疎まれ続けるしかない。それを分かっているからこそ芽榴も月に1度祖母に会う機会を大切にしていた。
それでも、健気に努力しても、事がうまく転ぶわけではなかった。
東條と祖母の会話には常に芽榴の処遇が絡んでいた。
「今、何と言ったんですか……?」
「あなたには養子をとらせる、そう言ったんです。あの子を後継にはさせない。よい家柄の、それこそ琴蔵家に娶られてくれれば本望ね」
「総帥!」
そんな会話を耳にして傷つかないほど、芽榴は無関心になりきれていなかった。芽榴の心があと一歩のところで切り裂かれずに残ったのは、東條が総帥に反抗して養子をもらわずにいてくれたことだけだった。
東條はほんの少しでも、芽榴を必要としている。芽榴を娘と思ってくれているのだと、そう思うことで、芽榴は自分の傷を自分自身で縫い合わせた。
誰もが認める女の子にならなければならなかった。そうすればきっといつか、東條も祖母も自分を認めてくれるだろうと芽榴は信じていた。
東條が自分のせいで祖母と口論しなくて済むように、東條が恥をかかないように、そんな思いの中で成長した芽榴は本当に、ただのお人形になってしまった。
身を裂くような思いで時を過ごした芽榴は、それだけの実を結んでいたはずだった。
努力に努力を重ね、芽榴は公の場に参加できるようにさえなっていた。けれど公と言っても相当上位の人間しか集まらないパーティー。まだ多くの人の目に映る場に出してもらえなかったのが芽榴の中での真実だった。少しだけ認められたのだと実感するも、まだまだ足りないのだと痛感してしまう。実った果実を、ただの子房の塊としか思えない芽榴の心は少なからず壊れていた。
その悲しみの表し方を知らない芽榴は、パーティーの最中でさえも突然として心の行き場を失くすようになっていた。そんなどうしようもない感情をぶつけるように、芽榴はピアノを弾いた。
そのピアノの音が会場にまで響き、地位の高い人々のあいだでも「素晴らしい」と噂になっていたことを芽榴は知らない。
ただ、感情をぶつけるだけの鍵盤に意味はなかった。
「あなたは……どちらのご子息様?」
そんな芽榴のピアノの音色を確かめに来た男の子が1人だけいた。まだ純粋な目をしていたその少年は芽榴のことをどこか憐れむような目で見ていた。
「琴蔵聖夜です。……あなたは?」
幼い聖夜は同年代で初めて対等に話ができる人間だと芽榴はすぐに理解した。そして琴蔵という家柄を背負う彼が、祖母の望む結婚相手になるのだろうと芽榴は幼いながらに感じていた。
「東條芽榴です。下は退屈でしたか?」
「……いや。ただ、ピアノの音色がきれいでしたから」
どこかぎこちない標準語で聖夜は芽榴に問いかける。
「その曲は?」
聞かれた芽榴は直前まで弾いていた曲を思い出す。
「別れのワルツ。憧れの人が好きな曲なんです」
告別という名の曲は悲恋の中に最大の愛を綴っている。それはまるで東條が榴衣へ贈るために綴られたような曲で、芽榴にとって自分を切なく苦しめる音色でしかない。けれど、父が好きなその曲を芽榴は何度も何度も聞き直し、本物そっくりな音色で弾けるまで弾き続けた。それでもまだ本物の音色には及ばないと芽榴は自分を追い込む。
東條芽榴は自分を追い込むことでしか自分の存在を許すことができなかった。
何もかもが逆回りに進んでいく芽榴は自分で創り上げた殻の中を延々と回り続けるしかない。前も後もない芽榴の孤独な世界は彼女をすでに闇の中へ導こうとしていた。
そして、芽榴を一生苦しめることになる――――あの事件が起きた。




