10 家族と涙
芽榴は自分の部屋のベッドに座り、トランプを眺めていた。それは以前颯に大会へ向けての練習用と直々に渡されたものだ。
「優勝して、かー」
芽榴は呟いて困ったように笑う。
すると、部屋の戸をノックする音が聞こえた。入ることを許可すると、圭が扉を開けた。
「芽榴姉、勉強教えてくれ。期末がピンチだ」
目の下にクマをつくってそんなことを言う圭に芽榴はクスリと笑って了承した。
部屋の丸卓に参考書やノートを広げ、芽榴の解説に圭は「ほー」とか「あー」とか言って頷いてる。
「……って感じで使役で用いるときはこうなるの。だから《I had my bag stolen.》は?」
「《私はバッグを盗まれた》だろ!」
「正解。うん、圭は理解が早くて助かるよー」
芽榴は圭の英語を一通り解説し終えた感想を述べ、パチパチと手を叩く。芽榴が微笑むと、圭は照れ臭そうにしながら肩を竦めた。
「芽榴姉の教え方が分かりやすいからだって。やっぱ芽榴姉、頭いいな」
「ありがとー」
芽榴は参考書をトントンッと机に揃えた。軽く息を吐くと視界の端に圭の鞄から世界史の教科書が見え、芽榴は思わず苦笑いをこぼしてしまう。
「さすがに歴史は理論より暗記だからねー」
「それだけは芽榴姉の頭自体を借りたいと心から願うよ」
圭は世界史の教科書を手に取り、パラパラとめくって閉じた。
「俺もこれだけで覚えられたらいいのにな…あ、ごめん」
圭はハッとして、罰が悪そうに目を伏せて謝る。芽榴はそんな圭の姿にやはり苦笑を残した。
「確かに便利だけど、こればかりは伝授できないや」
芽榴は圭の閉じた世界史の教科書を圭と同様にしてパラパラと一通りめくる。
「芽榴姉……」
圭の表情が曇り始め、芽榴はその空気を断ち切るようにパンッと両手を叩いた。
「よし、休憩! 麦茶飲む?」
「あ、あぁ」
「うん。じゃあ、とってくるねー」
芽榴は戸惑っている圭にニコリと笑って部屋を出て行った。
「圭と勉強か?」
芽榴がコップに麦茶を注いでいると、父、重治が居間から顔を出した。
「圭ったら、このあいだ赤点をとって帰ってきたけど、大丈夫そう? 芽榴ちゃん」
重治の隣に座ってテレビを見ていた真理子が額を押さえながら尋ねる。
「うん、順調ー。圭はやればできるんだよ。できないのはやらないから」
芽榴が指摘すると、重治は「芽榴とは大違いだな」とゲラゲラ笑う。そんな重治の反応に芽榴も笑って応えた。
「まー、私はやっててもできないからねー」
「逆よ! 芽榴ちゃんはやらなくてもできるから凄いの!」
真理子はそう言うが、芽榴の成績はミス平均というあだ名がついてしまうほど普通だ。真理子の反応に、芽榴はハハハと笑った。
「いえいえ。普通ですから、成績表ちゃんと見てるー?」
「芽榴が手を抜いてるのが毎度ありありと伝わるな」
重治と真理子が困った顔で頷き合う。それを見つめる芽榴はさらに困った顔をしていた。
「親バカもいいとこだよー。できないものはできません」
芽榴がそんなふうに言って話を打ち切ろうとするが、真理子がチッチッと人差し指を揺らして芽榴の言葉を再び否定する。
「そう思ってるのは家族だけじゃないわよ? 芽榴ちゃん」
「へ?」
「今日、学校のお友達から電話があって……。生徒会長の神代颯くん、だっけ?」
真理子が言うと、芽榴は目を丸くし、次の瞬間には限りなく細めた。
「なんて言ってたー?」
「芽榴を生徒会役員に引き入れてもいいですかって」
「はー!?」
珍しく芽榴が大きな声を出すので重治も真理子も驚いているようだった。
「あ、ごめん。ていうか、それ。明日のトランプ大会で優勝しなきゃ入れないし」
「神経衰弱なんだろう? 芽榴は無敵じゃないか」
楽しそうに言う重治に芽榴は訝しげな視線を送る。
「お父さん。麗龍の生徒会って有名なんだよ? 流石に知ってるでしょ?」
芽榴が困ったような顔をしているのを見て重治は芽榴の言いたいことを察してくれたようだった。
「だから、優勝はしない。以上、この話題終了ー」
芽榴がパンッと手を叩いて今度こそ話を打ち切る。しかし、お盆を持とうとする芽榴を重治が呼び止めた。
「芽榴、こっちに来なさい」
重治がいつもとは違い、真面目な顔で言う。芽榴は珍しいな、と首を傾げながら居間に向かい、重治と真理子の前で正座になった。
「芽榴」
「なに?」
「家族に気を遣うことはないと言っているだろう?」
重治の言葉に芽榴は眉を下げた。
「別に気を遣ってるんじゃなくて興味ないだけ」
「それならいいけど……」
真理子は納得していない様子でボソッと呟く。
「芽榴。1つ言っておくが、父さんたちがもしお前に生徒会に入ってもらって困ると思ったならそもそも麗龍に入学することを許可していないぞ?」
確かにそうだ、と芽榴は思った。ごくわずかな可能性を拒むなら、最初から可能性を与えないように仕向けるのが当然だ。
「芽榴姉なら麗龍の役員になれるだけの力量は持ってるしなー」
いつの間にか降りてきた圭が話に参加してそんなことを言う。すると真理子が圭の言葉に頷きながら呑気に笑った。
「芽榴ちゃんが役員になったらお母さん、鼻が高いわ。ご近所さんへの自慢話が増えちゃう」
「お母さん……」
芽榴がため息まじりな声を出すと、重治が落ち着いた様子で口を開いた。
「芽榴。お前はいろいろなことを我慢しすぎている。それは仕方のないことかもしれないが、父さんたちからしてみれば悲しい」
芽榴は重治の言葉に拳を握りしめる。嬉しい言葉なのに、心がキュッと締め付けられるような感覚が芽榴を襲った。
「十分、我儘を聞いてもらったよ」
芽榴はそう言ってニコリと笑う。自分が風雅に言えないほどぎこちない笑顔をしていることは分かっていた。でも、笑いたいのも笑えないのも芽榴の心の真実だった。
「芽榴姉……」
「芽榴ちゃんは全然我儘言ってないわよ」
芽榴は首を振った。「今ここにいれるだけで十分な我儘だよ」と言うと、部屋がシンとしてしまう。
「芽榴。ふざけたことを言うな」
次に響いた重治の声が低く唸るようなもので、芽榴だけでなく圭も真理子も目を丸くした。
「重治さん?」
「お前は娘だ。お前がここにいることは我儘でも何でもなく、当たり前だろう?」
「……っ」
その言葉を聞くと、芽榴の鼻の奥がツンとして視界がぼやけてしまう。そんな情けない顔のまま圭と真理子に視線をやると、2人とも寂しそうな顔で笑った。家族にこんな顔をさせてしまったことが芽榴の心をさらに締め付けた。
「ごめん、なさい」
芽榴は顔を伏せる。そうでもしないと堪えきれずに涙が流れてしまいそうだった。
胸の奥が詰まるような感覚のせいで、芽榴は言葉を発するのも億劫になる。それでも言わなければならないことが芽榴にはあった。
生徒会に入ってみたい。その気持ちは少なからず芽榴の心にある。
「でも……私の力は人に見せるべきものじゃ、ないから」
だから生徒会に入れる力量も見せられない。力量を示せないなら入る資格もないのだと芽榴は言う。しかし、重治はそんな芽榴の意見に異を唱えた。
「父さんは思うんだが、きっとその生徒会長さんはお前の実力に気づいてる。それで勧誘しているんじゃないのか?」
芽榴は前に颯が言っていたことを思い出す。『君は君だけの何かを持っているはずだ』と彼は言った。
「わかんない」
芽榴は目を逸らす。そんな些細な動きも重治は見落とさない。
「芽榴」
「……」
「父さんは芽榴の能力を知ったとき、凄いと思った。だからあの時、お前が他のどの家でもなくこの家を選んでくれたことを心の底から嬉しいと思ったんだ」
芽榴の肩がピクリと揺れる。芽榴は反射的に顔を片手で隠すが、そんな芽榴の姿を愛おしげに見つめながら重治は続けた。
「きっと彼も同じ気持ちになってくれるはずだ」
「芽榴ちゃんだもの。それだけの実力がある人が認めて当然よ」
真理子は頬を膨らませて胸を張る。圭は「母さん……」と呆れるようにため息をつくと、芽榴の頭に手を乗せた。
「何かあったら、俺の高校来ればいいし」
圭が言うと、重治と真理子が「色気付いてるなー」といつかの時のように揶揄する。圭が「うっせーよ」と頬を赤らめているのが想像できた。
「……バカ家族」
片手で顔を覆っているため、芽榴の声がくぐもる。それでも芽榴の声音はいつも以上に柔らかい。
「……ありがと」
そう言った芽榴の頬に一筋の光が流れ落ちた――。




