143 届いた声とおまじない
真っ暗な世界で、芽榴はたった一人で立っていた。
『やっと、来てくれたね』
闇の世界はいつも芽榴の心を飲み込もうとしていた。芽榴はその闇に飲まれないように、強い心で常にその世界を退けてきた。
芽榴がどんなに優しい言葉を吐いても、どんなに強い行動をとっても、その隣にはいつも闇が、芽榴の心が壊れていくのを待ち構えていた。
そして芽榴の心が壊れた今、弱い心は闇の世界に容易く飲み込まれてしまった。
『ずっと待ってたよ』
膨らんだ芽榴の闇は、形を作って芽榴の前に現れる。それは人形のように空っぽだった10年前の芽榴の姿をしていた。
芽榴の消せない過去の姿――東條芽榴がそこに立っていた。
「ここは……寂しいね」
『うん。でも私をここに閉じ込めたのは……あなたでしょう?』
そう。この闇を作ったのは他でもない芽榴自身。光の中を生きる芽榴は過去の自分を闇の中に葬った。
『私ごと全部、忘れようとした。忘れられるわけないのにね』
芽榴の前に立つ、小さな《芽榴》の声は芽榴の心を支配するように、芽榴の頭の中に響いて溶け込んでいく。
『そんな最低なあなたを誰も助けに来てくれないよ』
闇の住人はそう言って笑う。
どんなに繕っても、寂しがり屋の少女はただこのひとりぼっちの世界に芽榴を連れ戻したいだけ。置き去りにされた心は本体を求めていた。
「……かもしれないね」
芽榴はそう言って少女の頭を撫でた。
少女の欲しい言葉も温もりも、芽榴には分かる。なぜなら、少女は芽榴自身なのだから。
「でも、もし誰かが助けにきてくれたら……」
芽榴は微笑んだ。
「今度はあなたもちゃんと連れていくから」
もう一人じゃない、そう囁いた芽榴と可哀想な闇の少女は溶けて一つになる。
「お願い、誰か……助けて」
届かないと分かっていても、芽榴はそう呟いた。
「楠原!」
翔太郎は芽榴の前にしゃがみこんで、その肩を揺らす。両手で顔を覆う芽榴は目の前にいるのが翔太郎だということに気づかない。
脅えるように、芽榴は身を捩って翔太郎の手を振り払おうとしていた。
「俺だ……葛城だ」
翔太郎は必死に芽榴に訴えかける。
けれど、いつも芽榴の心を温かくしてくれた翔太郎の優しい声は、芽榴の心に届かない。彼の声が聞こえているはずなのに芽榴は手を顔に張り付けたままだった。
「芽榴!」
辿り着いた颯は中に入って、そして目を見開いて口を閉ざす。こんな弱った芽榴を見るのは颯も初めてで、その姿は想像もしていなかった。
「……楠原さん」
有利は震える芽榴を辛い表情で見つめる。芽榴にかけたい言葉はたくさんあるのに、そのどれも今の芽榴を救うには足りない。何一つ、今の芽榴の不安を取り除いてあげられる言葉が思いつかなかった。
「……楠原、手を離せ」
翔太郎は肩に触れていた手を芽榴の手首へと移す。すると、芽榴は「……ひっ」と声をあげて弱々しく足をバタつかせた。
「や、だ……お願い……離、して……」
芽榴の顔から芽榴の小さな手を、無理やりに翔太郎は引き剥がす。そして、翔太郎は――颯も有利も、芽榴の顔を見て固まった。
絶対に芽榴は泣いているだろうと思っていた。震える手も小さくなった体も、すべてが芽榴の心を表している。だからその顔は苦しみの涙で濡れているはずだった。
けれど、閉じたままの芽榴の瞳からは一滴たりとも涙が流れていなかった。
度が過ぎた恐怖と不安は芽榴から涙さえも奪ってしまったのだ。涙を流している芽榴よりも、涙を流していない芽榴のほうがはるかに3人の心を罪悪で締め付けた。
「るーちゃん! ……っ!」
「……芽榴、ちゃん」
同時にやってきた来羅と風雅は倉庫の中の様子に、先に入った有利と颯同様、声を飲んだ。
「たす、けて……おねがい、だれか……」
その声はもうちゃんと届いているのに、芽榴の心は自分の声が誰にも届かないと思い込んで、まるで呪詛のように芽榴を苦しめ続ける。
「……助けて……」
それは芽榴の心からの願い。
ずっと、10年間叫び続けた心の声。
届けたいのに届かない、そう決めつけて仕舞いこんだ芽榴の弱さだった。
「……楠原」
翔太郎は眼鏡を外し、芽榴をぎこちない様子でそっと抱きしめる。
他でもない翔太郎がするその行動に役員は瞠目した。
「やぁ……っ、離し……ごめ、なさ……おね、がい……いや……」
「……大丈夫だ。怖くない」
翔太郎はあの日と同じ言葉を芽榴に囁いた。
芽榴は目を開かない。開いたところで、翔太郎の目を見ても芽榴に翔太郎の催眠誘導が効くことはない。そんなことは全部分かっている。
それでも翔太郎は芽榴に届くように、気休めにしかならない言葉を告げる。代わりに、翔太郎はただの言葉に限りない自分の想いを込めた。
「貴様の怯えるようなことは……何もない」
芽榴の体がピクリと反応する。
「……っ」
芽榴の記憶の底に翔太郎が同じ言葉を告げた日のことは残っていた。震えが微かに収まった、そのチャンスを翔太郎は逃さない。
「楠原、助けに来た」
そう言って翔太郎は芽榴を抱く腕に力を込めた。
「かつ……らぎ、くん…」
芽榴が吐息とともに口にした言葉を、誰も聞き逃さない。
芽榴が翔太郎の胸を掴む。弱々しくて、微かな力だけれど翔太郎はそれを感じて目を見張った。
「葛城くん、だ……」
ゆっくりと躊躇いがちに目を開いた芽榴は、自分を抱きしめている男の子が翔太郎だと確認して、もう一度安心したように彼の名を呼んだ。
「声……やっと、届いた」
芽榴は嬉しそうに、そう呟く。10年間誰にも届けられずにいた声は今この瞬間、確かに届いた。
深呼吸をして芽榴が落ち着いたのを確認すると、翔太郎は芽榴を自分の腕から解放する。そして芽榴は役員全員をその視界に入れた。
「るーちゃん!」
来羅は芽榴の元に駆け寄り、芽榴のことを抱きしめる。いつかの時と同じように、来羅の柔らかい髪がふわりと揺れて芽榴の体に触れた。
「ごめんね、本当に……ごめん」
来羅は芽榴の肩に顔を埋め、何度も謝る。来羅が何に謝っているのか、芽榴には分からない。でも芽榴の存在を確かめるように、強く芽榴を抱きしめる来羅が愛おしくて、芽榴はその背中に腕を回した。
「楠原さん……」
有利はいつもの無表情を崩して、本当に辛そうな顔で芽榴の名を呼ぶ。
「見つけるのが……遅くなってしまって……本当にすみません」
心の底から自分を責めるような有利の言葉を、芽榴は首を横に振って否定する。
「でも、見つけてくれた」
芽榴は有利に笑いかけ、そしてその後ろで誰よりも、自分よりも泣きそうな顔をしている男の子に芽榴は目を向けた。
「ありがとう」
芽榴は風雅に笑顔を見せる。
もう二度と見ることができない、そう思っていた笑顔を風雅はその目で見ていた。
「……っ」
風雅は堪えきれず、倉庫の外に出た。そして地面にしゃがみこんだ風雅は自分の顔を押さえ込んだ。
「うっ……くっ……っ」
泣きたくないのに、風雅の目から涙が零れ落ちる。芽榴が泣かないのに、自分が泣いてはいけない。そう思えば思うほど風雅の涙は溢れていく。
「芽榴ちゃん……ごめんっ」
風雅の涙はポタポタと地面に落ちて、跡を残した。
そんな風雅の後姿を見て、芽榴はそれでも優しく微笑んだままだった。
そして芽榴はその視線を颯に移す。
「……芽榴」
颯は静かに芽榴の名を呼ぶ。彼の言いたいことを芽榴は分かっていた。もう1度颯が差し伸べてくれる手を芽榴はもう振り払わない。
「神代くん。やっぱり……私一人じゃ、どうしようもできなかった」
芽榴が求めるのは、目先の幸せじゃない。そんな幸せはまたすぐに壊れて消えてしまう。仮初の幸せは芽榴を苦しめることしかできない。それを芽榴は痛いほどに分かっていた。
自分が幸せを掴むための方法がただ一つ、過去の闇に置き去りにしたもう一人の自分に光をあてることだと、芽榴はずっと前から知っていた。
知っていて、芽榴は逃げ続けた。逃げ続けた結果、得られたものは何もなく失ったものだけが募り積もる。
前に進むことを、芽榴はもう心に決めていた。
「私はみんなに、話さなきゃいけないことがあるんだ」




