140 友情と不穏
「……ん?」
颯は誰かに名前を呼ばれた気がして後ろを振り返る。
午後のオリエンテーションに備えて、颯は掃除時間のあいだも担任の中井先生がプリントを綴じるのを手伝っていた。それがやっと終わって颯は教室に戻る途中、2学年棟と本棟を繋ぐ渡り廊下に差し掛かっていた。
振り返った先には、ポツリポツリと人影があるけれど、颯を呼んだと思しき人は誰もいない。
「気のせい、かな」
颯は腑に落ちないような顔をしたまま再び歩みを進める。けれど、颯が前を向くと複雑そうな顔をした友人がそこにはいた。
「颯クン」
さっき颯の名前を呼んだのは風雅だったのか。普通はそう思うところなのだろうけれど、颯はなんとなく違う気がしていた。
「お前が一人なんて、珍しいね」
颯がそう言うと、風雅は気まずそうに目を逸らした。颯の言葉は風雅がファンの子を突き放さずにいることを指しているのだ。
「颯クンに用があって……」
「僕に?」
掃除時間は終わり、2年生は午後のオリエンテーションのため、学年棟の4階にある多目的教室に例外なく向かう。わざわざここまで颯に会いに来たのは2人で誰にも聞かれないようにして話す必要があったから。風雅の一言で颯はそこまで察した。
「今日から、芽榴ちゃん……生徒会に戻ってくるよね」
「ああ」
颯は表情を変えないまま、風雅の質問に答える。なんとなく、風雅が言い出しそうなことが分かっていたのだ。
この麗龍学園で、生徒会に関するあらゆる事柄、役員の勧誘も退会もすべての権限は生徒会会長にある。それを侵すことのできる例外はキングの権限のみ。
風雅が颯に言わなければならないことがあるとしたら、間違いなくそれだった。
「芽榴ちゃんの代わりに……オレが生徒会を」
「やめるなんて言ったら、僕はお前を殴るよ」
颯はそう言ってそこの壁に背を預けて、腕を組んだ。風雅を睨む颯の目は鋭い。
「お前がたどり着く答えはきっとそんなろくでもないことだろうと思っていたよ」
颯はため息を吐きながら風雅に告げる。颯たちが傷つく芽榴のために行動していたように、風雅だって何かしたいという気持ちはあった。ただ一番大きな原因因子となった風雅にできることはあまりにも少なすぎたのだ。
「あの子たちにとって、芽榴ちゃんが生徒会にいることもオレが生徒会にいることも大した問題じゃないんだ……。問題なのはオレが芽榴ちゃんのことを好きになって、一緒にいること……それだけなんだ」
最後の言葉を告げる風雅は本当に辛そうだった。風雅の考えは間違っていない。ただそれは風雅だけじゃなく、役員全員に言えることだった。
「だから芽榴を残して、お前が生徒会をやめるって?」
「……うん」
「お前は本当にそれでどうにかなると思っているのかい?」
颯は風雅の答えを待つ。
授業開始まであと数分、渡り廊下にはもう人はいなかった。
長く、息の詰まりそうな沈黙が2人のあいだを流れた。
「たぶん、オレは逃げたいだけなんだ」
沈黙を破ったのはそんな弱々しい言葉。
風雅のファンが芽榴を追い詰めれば追い詰めるほど、限界に近づくのは風雅のほうだった。
芽榴に刃が向かないように、必死に言葉を繕っても何一つ状況を変えられなかった。まるで芽榴への嫉妬が当初の理由――役員から気に入られているというその理由から離れて独り歩きしてしまっているようにさえ感じた。きっと風雅が生徒会をやめても何も変わらない。芽生えた闇は光をあてずして消えることはない。
「オレのせいで、芽榴ちゃんが傷ついて……。じゃあ芽榴ちゃんを特別扱いしなければいいだけの話って、そんなの無理なんだ。今だって芽榴ちゃんのこと大好きで顔見ただけできっと思いは膨れ上がって……。芽榴ちゃんが傷つくことからも、そんな思いからも、オレはただ逃げたいだけだ」
素直に風雅は彼の思いを告げる。自分の弱さも儚い感情もすべて颯にぶつけた。
弱い自分を理解している風雅は、本当は誰より強い。それを颯は知っている。初等部からずっと風雅とは一緒にいたのだ。芽榴の存在が風雅にとってどれだけ大きくて、どれだけの想いがそこにあるのか、本当は互いが一番よく知っているのだ。
「風雅、お前は大事なことを分かっていないよ」
颯は整った顔を歪ませる風雅に、優しく声をかける。
「お前だって、大事な役員だよ。簡単に切り捨てられる存在じゃない」
颯の言葉に風雅は目を見開いた。
芽榴を守ることに必死で、風雅はそのことを忘れていた。
「誰一人として、こんなことで生徒会をやめる必要はないよ」
芽榴にとって、生徒会がかけがえのない居場所であるのと同時に、風雅にとってもそこは大切なたった一つの居場所だった。
「……いつもいつも颯クンはかっこよすぎだよ」
風雅は顔を押さえてハハハと悔しそうに、でも嬉しそうに笑った。
夏休み――芽榴と颯が喧嘩したとき、風雅は芽榴のためだけじゃなく、颯のためにも芽榴に仲直りのヒントを与えた。
颯は風雅にいつも厳しくて、風雅は理不尽な扱いを受けてしまうことが多々ある。けれど風雅が颯のことを大切な友人と思うように、颯も風雅のことをそう思っているのだ。
「もしお前が仕事効率の悪さを気に病んで生徒会をやめるなら、僕は考えるかもしれないけれどね」
「あれでも結構頑張ってるんだけど」
颯の図星をついた冗談に、風雅は苦笑する。
「知ってるよ」
2人並んで午後のオリエンテーションに向かう。
いつか違う道を行く日が来ても、この友情は変わらずここにある。そう、風雅は実感して鼻水を啜った。
「――芽榴が帰ってこない」
同じ頃、掃除を終えてオリエンテーションのある4階に向かおうと思った舞子は神妙な顔でそう呟いた。
松田先生に呼び出されているため、芽榴は昼休みの途中から舞子と別れた。ギリギリになったらそのまま掃除に行こうと芽榴は呟いていたため、今の今まで芽榴が帰ってこないことを舞子は不思議に思っていなかった。
芽榴が掃除を時間いっぱいするということも分かっている。だから掃除終了の鐘が鳴ってしばらくした頃に、芽榴が教室に戻ってくるだろうと思っていたのだが、いくら待っても帰ってこない。
「……おかしいなぁ」
芽榴が何の問題も抱えていない女の子ならば、舞子も掃除が長引いているくらいにしか考えないが、生憎今の芽榴は問題しか抱えていないのだ。
「様子見に行こうかな」
舞子はオリエンテーションに遅れること覚悟で、芽榴を探しに席を立った。
「芽ー榴ー」
舞子は行き違いにならないよう、そんなふうに名前を呼びながら歩く。
芽榴の掃除場所は3学年棟の中庭だった。
しばらく歩いて舞子はそこにたどり着き、そして顔を青くした。
「え、ちょっと……嘘でしょ」
舞子が目にしたのは綺麗な花壇の周りに置き去りにされたゴミの山。
花壇に水やりはされていない。落ち葉も集められた形跡がない。
「掃除に来てない……」
目に映った光景を見て、舞子はそう判断した。まだ松田先生と生徒指導室にいるのかもしれないと思って、そちらに向かって走る。
けれど、生徒指導室にはもう誰もいない。
「冗談やめてよ……」
もしかしたら行き違いになってオリエンテーションに行っているかもしれない。
そのことに願いをかけて、舞子は走った。




