136 弱虫と八方塞がり
授業が終わり、芽榴は放課後の教室で一人、生徒会の仕事をしていた。さっきまでは舞子が一緒にいてくれて教室は少しだけ明るい雰囲気だったのに、今はただ重苦しい静かな空気が流れるのみ。
「……」
もうすぐ仕事も終わるため、舞子には部活に行ってもらった。いくら迷惑じゃないと言われても、芽榴はやはり自分のせいで舞子に迷惑をかけている気しかしなくて、それが何より辛くて嫌なのだ。
「きゃははは!」
そんな中、廊下の方から芽榴の苦手とする女子特有の笑い声がして、芽榴は咄嗟に自分の机から立ち上がり、鞄だけ持って教卓の下に隠れた。
なんとなく、その女子たちがこの教室に入る気がしたのだ。芽榴の予想通り、廊下で響いていた笑い声が教室に辿り着いた。
「あっれー、これ生徒会の仕事じゃない? 置きっ放しじゃん」
芽榴への嫌がらせに慣れた生徒たちは難なく芽榴の席を見つける。女生徒たちの会話を聞いて、芽榴は自分が机の上に仕事を広げたままだったことを思い出し、教卓の下で慌てた。
「今日はどうしよっかぁ?」
今、出て行けば確実に何かされるだろう。しかし、黙ってこの様子を見ていたら机の上の資料に何か悪戯されかねない。それは非常にまずい。
「……あ」
「何してるの?」
芽榴が声を出しかけるのと同時に、扉の方から芽榴のよく知る声が聞こえた。
「え、ひ、柊さん。あはは、どうしたのぉ?」
ちょうど芽榴の机の上から資料を全部かき集めてどこかに隠そうとしていた女生徒たちは、慌てて手に抱えた資料を背のほうに隠し、ぎこちない返事をする。
F組に現れたのは綺麗な金色の髪を揺らす来羅だった。ウィッグの髪を結っていない来羅を見るのは初めてで、いつもは可愛らしい雰囲気だけれど、今日はどちらかというと綺麗だった。
「用はないけど……B組のあなたたちこそF組に用でもあるの?」
来羅はB組というところを強調した。B組の女子のほとんどは風雅ファンで溢れていて、おそらく来羅の目の前にいる3人の女子はその主たる人物たちだ。
「えっとぉ、すっごく言い辛いんだけどね……」
来羅を前にして、瞬時に都合のいい言い訳を思いついた一人の女生徒が本当に申し訳なさそうに下を向く。
「楠原さんから生徒会の仕事を代わりにやってくれって押し付けられて……あ、あたしたちも断ったんだよ? 役員の仕事だからダメだよって。でも、ほら」
そう言って、女生徒は後ろに隠した生徒会の資料を来羅に見せるようにして掲げた。
「柊さんたちは楠原さんを信用して、今も仕事任せてるから言いたくはなかったんだけど……」
女生徒はそう言って口を閉じた。
何も知らない人が見たら演技には思えないだろう。芽榴をあからさまに悪く言わないところが上手いやり方だった。さりげなく、芽榴が悪いのだと来羅に伝えていた。
もちろん、彼女たちの言葉はすべてデタラメ。
けれど教卓の下に隠れている芽榴はそれを否定することができない。
「それが本当なら、るーちゃんは最低だね」
来羅は静かに冷めた声で言う。
「……っ」
一瞬、目の前の女生徒たちがニヤリと笑ったのを教卓の下から盗み見している芽榴は見逃さなかった。
「役員は優しいから楠原さんのことを信じてるだろうけど……楠原さん、酷いよ。こんな柊さんたちを裏切るようなことして――」
女生徒たちは本気で役員を心配しているような声を出す。
来羅は女生徒たちが持っている資料を手に取って、中身を確認した。
「間違いなく、るーちゃんに渡した仕事ね」
来羅はそう言って女生徒たちの腕の中に紙切れを返す。
女生徒たちの言うことが嘘だという証拠はどこにもなくて、今来羅が目にしている光景は彼女たちの発言をすべて肯定していた。
「本当に――最低だね」
来羅がもう一度、そう言うと女生徒たちは悲しそうな顔をしてみせる。けれど、その目はいやらしいほどに笑っていて、教卓の下に隠れている芽榴の頭は一気に冷えていった。
「うん、あたしらも楠原さんは最低だと思う」
しかし、そう女生徒たちが同感するように言葉を吐くと来羅はクスクスと笑った。
「え?」
芽榴を含め、その場にいた女子はみんな来羅の反応に目を丸くし、不思議そうに来羅の様子を窺った。
「私が〝最低〟って言ってるのはるーちゃんじゃなくて、あなたたちなんだけど?」
笑うのをやめた来羅はひどく落ち着いた声音で、目の前の華美な女子たちに言葉を吐いた。
確かに来羅の声で紡がれたその言葉に、芽榴は瞠目する。
「な……っ」
「いい加減、我慢ならないのよね。私のこと、バカにしてるの?」
来羅の顔が、声が、すべてが怖くて女生徒たちは一歩ずつ後ろへ後退していく。
「あなたたち、役員のこと……風ちゃんのこと本当に好きなの?」
「当たり前だよ! じゃなきゃこんなふうに心配したりなんか」
「心配、ね」
女生徒の返事を来羅は繰り返す。そして嘲笑うかのような視線を彼女たちに向けた。
「じゃあ、あなたたちの大好きな役員は……こんなにるーちゃんと一緒にいるのに、るーちゃんが『仕事誤魔化して媚売りのためだけに役員になった狡くて最低な女の子』ってことにも気づかない大馬鹿者ってことよね」
「ちが……っ」
「そう。じゃあ何が心配なの?」
来羅が笑顔で尋ねるが、女生徒たちは何も言わない。言い返す言葉がないのだ。
詰まる女生徒たちの腕から、来羅は生徒会の資料を取り上げる。こんな醜い人間たちに自分たちの聖域に触れてほしくなかった。
「別に、るーちゃんが誰に生徒会の仕事押し付けても構わないわよ。るーちゃんの手にかかれば、こんな仕事にたいした時間もかからないだろうし。それでも誰かに押し付けるなら余程忙しいってことだし」
来羅はそう言って芽榴の机に資料を返す。
「もし仕事を押し付けられたのが植村舞子ちゃんなら私も信用してたかもしれないけど……るーちゃんがあなたたちに大事な仕事を預けるわけないじゃない」
「――っ」
「風ちゃんを予約制度で縛りつけたり困らせたりするような人たちを頼るはずがないの」
ただでさえ、芽榴は来羅たちの手すら掴もうとはしないのだ。誰かに頼ることを極端に拒む芽榴が、風雅を傷つける元凶に縋るはずがない。
「それから……今では私のことも慕ってくれてるみたいだけど、私はあなたのことよーく覚えてるわよ?」
来羅はそう言って3人の女生徒のうちの一人に近づき、彼女のリボンを掴んで引き寄せた。
「中等部に入学した当初、まだ今の役員と親しくなかった私を『所詮男でしょ、気持ち悪い』って言ったこと私はちゃんと覚えてる」
来羅の言葉を聞いて、女生徒がピクリと反応する。今、来羅が制服のリボンを掴んでいる女生徒はかつて来羅の陰口を言っていた人たちの一人だ。
来羅が役員に気に入られてその実力を発揮し、そして何より役員と関係を持ち得ぬ《男》という性別からいつのまにか立ち位置を変えた。周りが認めて、なおかつ自分たちに害がないと分かった瞬間、前日まで悪口を言っていた相手に「好き」と言えてしまうような心の持ち主なのだ。
そんな人の言葉に、来羅が騙されるはずがなかった。
「私も含めて、役員は意外と根に持つの。――あんまり甘く見ないほうがいいよ」
最後の声は来羅とは思えないほどに低く、勇ましい男のそれだった。
来羅がリボンから手を放すと、女生徒たちは顔を青くして急ぎ足で教室を出て行った。
「……はあ」
来羅は肩をコキッと鳴らして伸びをする。
「――来羅ちゃん」
「え」
完全に気を抜いていた来羅は同じ空間から聞こえる芽榴の声に固まった。
キョロキョロと来羅が辺りを見渡し始めると、芽榴は教卓の下から姿を現した。
「るーちゃん、そんなところにいたの?」
「ごめん。隠れてた」
芽榴は苦笑しながら正直に話した。
「じゃあ……さっきの聞いてた、わよね?」
「うん、一応教室の中にいたから」
来羅は眉をあげて少しだけ困ったような顔をした。確かに酷いことをサラッと言ってしまったり嘲笑ったり、来羅にとってあまり芽榴には見られたくない場面だった。
「ありがと、庇ってくれて」
けれど、芽榴はそんなふうに言って来羅に笑いかける。
その笑顔を見て、来羅は「久しぶりだ」と感じた。芽榴のちゃんとした笑顔を文化祭以降全然見れていないことを来羅は改めて実感する。
「……るーちゃん」
「ん?」
「辛そうなるーちゃんを見るのは、嫌だわ」
芽榴が追い詰められて笑わなくなればなるほど、役員だって同じくらい辛くなって傷つく。来羅の言葉を受けても芽榴は苦笑することしかできなかった。
「るーちゃんはどんな私でも味方でいてくれるって言ったでしょ? 私も同じ。どんなるーちゃんでも味方でいる」
「……」
「だから、ちょっとくらい狡くなって」
来羅は泣きそうな顔をしていた。今、一番泣きたいのは芽榴のはずだった。けれど来羅が泣きたくなるくらい、芽榴の受ける傷は同じように役員の心を切り裂いていくのだ。
自分が抱え込んだところで、みんなを傷つけるだけだということは芽榴も痛いほど分かった。圭の助言も心はすんなり受け入れた。けれど全部分かっているのに動けないのは、芽榴の心の闇が彼女に差し出された光をすべて飲み込んでしまうから。
「来羅ちゃん……私は、怖いだけなんだよ」
芽榴は震える手を抑え込むようにギュッとその手を握り締める。
――助けて、お願い……助けて――
「信じていても――助けの声が届かないことがあるって、私は知ってるから」
その怖さを知っているからこそ、あえて助けを求めるのを拒んだ。
結局芽榴は十年前のあの日から、何一つ変わっていないのだ。
「明日で、取材も終わりだって……葛城くんから聞いたよ」
「るーちゃん!」
話を変える芽榴に来羅は訴えかけるように、声をあげる。けれど、今の芽榴はただ仮初の幸せを願うことしかできない。
「明後日からは――またいつも通りだよ」
芽榴の願いが切なくて、来羅は口を噤んだ。
芽榴が抱えている闇は来羅が思っているよりずっと深いところに根を持っている。それが分かるのに、その闇に光を当てることを芽榴が拒んでしまえば来羅たちには何もできないのだ。
終わりはもうすぐそこまで来ているのに、それでも足掻く芽榴の心は十年前のあの日のまま時を止めていた。




