130 血濡れた頬と掴まない手
芽榴は頬を抑えたまま、保健室へと向かった。
頬に当てたハンカチは生暖かい。けれど、その傷口にそれほど痛みはなくて、流れている血の量が大袈裟に感じられた。
2学年棟に戻り、玄関口を抜けて、芽榴は保健室へとたどり着く。
「失礼しまーす」
芽榴は空いてるほうの手で保健室の扉を開け――中を見てもう一度閉めた。保健室に行くのはもう少し後にしようと心に決め、芽榴は踵を返す。しかし、中の人はやはり芽榴に気づいていたらしく、ご丁寧に向こうから扉を開けてくれた。
「待ちなよ、芽榴」
そう言って、颯が芽榴の腕を掴み、保健室に連れ戻した。
芽榴は中に連行され、辺りを見渡すが保健医の先生はいない。おそらく出張なのだろう。
「怪我……したのかい?」
「そっちこそ」
颯が保健室にいるということはつまり、彼もどこか怪我した、あるいは調子が悪いといったところだろう。
芽榴に問われ、颯は肩を竦めた。
「別に。少し頭痛がしてね」
颯はそう言って、頭痛薬の箱を元あった場所へと戻す。彼の頭痛の原因が自分にあることはさすがの芽榴も気づかない。
「で、芽榴はどこを怪我したんだい?」
「いや、特にたいしたことは」
「どこ?」
芽榴は誤魔化そうとするが、その声を掻き消すように颯が低い声で問う。芽榴の「たいしたことはない」という発言を颯は信じていない。
颯の視線は、不自然にハンカチを当てられた芽榴の頬に向いていて、もはや聞かなくても颯はその答えを分かっているはずだった。
「はあ……」
芽榴は堪忍したように、ハンカチを頬から外した。
「……っ」
血で濡れた頬と、その傷口は颯も予想外だったらしく驚いた顔をしていた。そんなに酷い傷なのかと芽榴は考える。そんな芽榴の頬に、颯は手を伸ばした。
「神代くん、血が」
「構わないよ」
傷口は深くはないが浅くもない、五センチほどの長い切り傷だ。颯は傷口に触れないように、けれどその傷口をちゃんと確かめるようにソッと芽榴の頬に触れる。滴る血は颯の綺麗な手を汚してしまっていた。
「よりにもよって、顔に傷なんて」
颯はまるで自分が傷つけられたかのように、切ない顔をしていた。
女の子の、それも大切な女の子の顔に傷がついたのだ。颯のその表情も当然と言えば当然。
「どうしたの、これ」
颯はそんな複雑な表情のまま、芽榴に静かに尋ねた。
けれどその理由さえも、颯は分かっているように芽榴には思えた。
「猫に、ひっかかれて」
「学園に猫がいたの?」
苦し紛れの嘘が颯に通用しないことくらい芽榴だって分かっている。だからと言って馬鹿正直に本当のことを話す気はないのだ。
「庇う必要なんてないだろうに……」
颯はそう言って芽榴の頬から手を離し、棚から消毒液や包帯を取り出す。
その颯の言葉が答え。
やっぱり颯は芽榴の怪我の理由に気がついた。
「少し沁みるだろうけど、我慢して」
「ひ……っ」
消毒液をつけた綿で颯が芽榴の頬を消毒する。颯は少しと言ったが、芽榴の頬はかなり沁みていた。切り傷自体の痛みより消毒による痛みのほうがはるかに大きかった。
「……芽榴」
「な、に」
痛みを我慢して声を出したため、声が詰まった。
颯は血の滲む綿をゴミ箱に捨て、綺麗なガーゼを患部にのせる。そして優しい声で颯は言った。
「僕に……助けを求めないんだね」
「……」
芽榴の心に、その言葉がまるで甘い誘惑のように広がっていく。
颯はそうやって、芽榴に手を差し伸べようとしていた。その手を掴むのは至極簡単で、だからこそ芽榴はその手を振り払うことを選んだ。
「助けられたら、みんな認めてくれないよ。認めてもらえなかったら……やっぱり私は役員にふさわしくないってことだよ」
芽榴は柔らかい表情で笑った。
「私は本当の役員になりたいんだ。胸張ってみんなのそばにいたい。だから……神代くんの手は掴まない」
芽榴は颯の目を見て答えた。
この手を掴んでほしいと颯は思う。けれど、この手を掴むとしたらそれは芽榴じゃない。颯の知る芽榴は、彼が認めた芽榴はこんな手に縋るような子ではないのだ。
「……そう」
颯は芽榴の頬の傷をガーゼで隠し、使った道具を再び棚に戻す。
そして棚を閉め、芽榴に背を向けたまま颯は呟くように声を出した。
「それでも、耐えられなくなったら……絶対に僕のところへ来て」
「……うん、ありがとう」
芽榴の、颯に治療された頬は痛むけれど、少しだけ暖かい気がした。
「るーちゃん……何そのほっぺ」
「……怪我したんですか?」
その日、もう何度聞かれたか分からない質問に芽榴は苦笑する。
放課後になり、生徒会の仕事を芽榴に届けに来てくれた有利と来羅は芽榴の頬を見て唖然としていた。
「アハハ、ドジっちゃったー」
芽榴はそう言って笑う。舞子や滝本たちに聞かれたときには「学園に猫がいて、抱っこしてみたらほっぺをひっかかっれた」と、少しの違和感は残るものの、それらしい嘘を作り上げて伝えた芽榴だが、2人には通用しないと思い、笑って誤魔化すことにした。
「それより、2人とも仕事持ってきてくれてありがとー。はい、これ昨日の分。神代くんに渡しておいて」
芽榴はもらったUSBの代わりに昨日仕上げた仕事が入っているUSBを来羅に渡した。
芽榴は簡単にその話題を切り上げてしまったが、風雅の発言もあって、芽榴の左頬を覆うガーゼが来羅と有利の顔を険しくさせた。
「どう? 生徒会。大変そうだけど」
芽榴はそんな2人の顔に見て見ぬふりをした。
「大変ですけど……それより、楠原さんがいないのが一番きついです」
有利は躊躇いがちに答える。そう言ったところで、今はまだ芽榴が生徒会には戻ることはできない。それでもこの仕事量にして、颯の次に仕事をこなしてきた芽榴がいないのは生徒会にとってダメージでしかないのは事実。
そして何より、芽榴がいないということが生徒会メンバーの精神を疲弊させているのだ。
「ごめんね」
芽榴は少し申し訳なさそうにして笑った。
「るーちゃん……あの」
そんな芽榴に、来羅は声をかける。その顔には不安が溢れていて、芽榴はそれを和らげるように「何?」と優しく話を促した。
それに気づいて、来羅は苦笑する。本当に芽榴は敏い子だと実感するのだ。
「風ちゃんのこと……嫌いにならないであげてね」
来羅は静かに告げた。
それが本題。小さなインターフェースを渡すためだけにわざわざ2人で来る必要はない。2人が芽榴のところへ来たことには別の理由がある。そしてその理由を芽榴は来羅の一言で悟った。
「……なれたら、お互い楽なんだろうけどね」
芽榴は目を伏せる。
嫌いになれないから、怒りをぶつける先が見つからない。お互いに自分の知らないところで傷つく相手のことを想像してしまう。それが余計に芽榴と風雅の両方を辛くさせているのだ。
「2人は蓮月くんのそばにいてあげて。あの人が1番辛いはずだから」
そんなことをお願いする芽榴が一番辛いはずなのに、何の打算も考えずに芽榴は風雅の心配をした。
それが芽榴らしい行動。けれど今は、自分たちに縋ってほしいと有利も来羅もそう思った。
「お願いね、藍堂くん」
「……楠原さん」
発言も笑顔もいつもと同じ力強い芽榴なのに、有利の目にはなぜかその姿がいつもより弱々しく映った。
抱きしめたくなるけれど、今の彼にその資格はない。芽榴を傷つけることしかできない手を仕舞い込むしかないのだ。




