117 狼少年と愛すべき馬鹿
鬼ごっこスタートから約15分が経過した頃、早々にして芽榴は最大のピンチを迎えていた。
「これはヤバイねー」
のんきな発言に聞こえるかもしれないが、一応これでも芽榴は焦っているのだ。
「楠原芽榴、もう逃げ場はねーぞ!」
「おとなしく捕まれ!!」
1学年棟の廊下に立っている芽榴の前後にはこちらへと走ってくるものすごい男子生徒の姿がある。彼らの顔は獲物を見つけたライオンのごとき恐ろしい様だ。
「予想外の展開だなー、これ」
芽榴は苦笑して、暇そうに歩いていた15分前の自分を懐かしんでいた。
15分前。
鬼ごっこスタートの合図が校舎に設置されたスピーカーから聞こえた。がしかし、自分のファンなどいないことは分かっているため芽榴はのんびりと校舎を歩き回っていた。
今頃他の役員はファンに追いかけられて大変だろうなどと呑気に考えていた芽榴の耳に、けたたましいくらいの足音が聞こえる。
誰か役員が逃げてきたのかと芽榴が振り返ると、大量の男子生徒が芽榴の目に映る。
「へ?」
芽榴はおそらくかなり間抜けな顔をしていただろう。
「いた! 楠原芽榴!」
一人の男子生徒が芽榴を指差してそう叫ぶと、途端にその恐ろしい集団が芽榴のほうに走ってきた。
「え、え、えーー!?」
芽榴はまさかの事態に急いで走り出した。
もちろん芽榴が走れば男子と言えど、追いつくことはできない。同じような距離を保ったままひたすら走り続けることとなった。
そして15分が経過し、芽榴はとうとう行く手を生徒に阻まれ、絶体絶命のピンチを迎えたのだ。
「捕まえるのは俺だ!」
「どけ! 俺だー!」
獲物を取り合うかのように、互いに押し合いながら男子生徒が芽榴に近寄ってくる。
芽榴は盛大な溜息を吐いた。これは予想外にきついイベントだ。
男子生徒たちに囲まれ、芽榴は廊下の窓際に追い詰められる。
捕らえた、と誰もが思ったその時。
ガラッ
芽榴は即座に廊下の窓を開け、窓の下枠に飛び乗った。
「く、楠原さん?」
芽榴を追い詰めていた男子たちの行動がピタリと止む。それもそのはず、今いる場所は4階。もし芽榴がそのまま飛び降りてしまったら大事故が起きるのだ。
男子生徒に緊張が走る。
しかし、そんなふうに固まった男子生徒たちに芽榴はニコリと笑いかけた。
「それでは失礼しまーす」
そう言って芽榴は何の躊躇もなくそこから飛び降りる。
「嘘ーー!?」
芽榴のとんでもない行動に、その場にいた男子生徒も大画面を見ていた観客も真っ青になった。
芽榴は着地予定の場所、本棟と1学年棟を繋ぐ2階の外廊下を、確認して飛び降りた。
「……っ! 芽榴ちゃん!?」
「え」
しかし、飛び降りた瞬間、寸前までいなかったはずの男子生徒の悲鳴まじりの声が芽榴の真下から聞こえた。
そのまま急降下した芽榴はボスッとその男子の腕の中に収まる。運よく、芽榴はその男子を蹴り飛ばすことなく彼にお姫様抱っこをされる形で着地することができた。
「間に合ったぁ……」
芽榴を腕に抱え、風雅は尻餅をついて安堵のため息を吐く。
「蓮月くん。ごめん、大丈夫? お尻痛くない?」
そんな風雅に、芽榴は心配そうに尋ねる。反動で芽榴を抱えたまま尻餅をついてしましった自分が情けない上に心配する立場と心配される立場が完全に逆なのだ。いいところを見せようとしても最終的に様にならない自分が悲しくて風雅はもう一度ため息を吐いた。
「芽榴ちゃんが落ちてきて……心臓止まるかと思った」
「あはは、ごめんねー」
着地可能圏内であるから飛び降りたのだが、風雅があまりにも心配するため芽榴は申し訳なさそうに謝った。
「でも、受け止めてくれてありがとー」
芽榴はヘラッと笑ってそう付け加える。
いつもの芽榴ならまだしも、今の芽榴は美少女という言葉が似合うくらいに可愛い。まして風雅の目には他の人よりも数倍芽榴が可愛く見えるのだから、今の芽榴と向き合うだけでも大変なのだ。
「でもなんで飛び降りてきたりなんか…」
風雅は自分を落ち着かせるようにしどろもどろに尋ねる。芽榴はこちらを見ない風雅に苦笑しながら上を向いて、自分が飛び降りた4階を眺めた。
「予想外に男子に追いかけられちゃってねー」
芽榴がそう言うと、風雅は目を丸くして「あ゛あ゛ー」と叫んでいた。
「蓮月くん?」
「……来羅がこんな格好チョイスするから」
落ち着くどころか、風雅は唸るように呟いて、芽榴のことを膝に乗せたままギュッと抱きしめた。
「ちょっと、もう降りるから……」
「ダメ」
「え……」
「ほんと誰にも触らせたくない」
芽榴の耳元で風雅が囁いた。
いつお互い追いかけられるか分からない状態にあるのに、芽榴は不覚にも頬を染めてしまう。
「……蓮月くん」
芽榴が困ったように名を呼ぶと、風雅は芽榴を抱きしめたまま顔だけずらして芽榴と向き合った。
芽榴は赤くなった顔を風雅に見られないように顔を両手で覆った。
「芽榴ちゃん、顔見せて」
「……ムリ。かなり変だから」
「絶対ないから、それ」
「今は本当に駄目だって!」
芽榴の顔に貼り付いた手を風雅が無理やり引き剥がした。見えた芽榴の顔に、風雅は目を見開いて固まる。
「芽榴ちゃん……」
風雅はほぼ反射的に芽榴の頬に手を添えた。
風雅の顔がどんどん近づいてくる。
疎い芽榴でも風雅が自分にしようとしていることくらい分かる。
「ちょっと……待っ」
「うん。もう……ずっと待ったよ」
風雅が少し切なげな顔で芽榴を見つめ、芽榴はその先を言えなくなった。
唇が触れ合うまであと数センチ。
「風雅くんみっけーーーー!」
「楠原芽榴がいたぞーーーー!」
風雅の動きがピタリと止まる。
ほぼ同時に自分たちを追いかける人物たちに発見されてしまった。
「「やばっ」」
芽榴は逃げるために立ち上がろうとするが、風雅は芽榴を手放すことなく芽榴を抱きかかえたまま走り始めた。
「ああーー! もうタイミング悪すぎだよ!」
「蓮月くん降ろして! 重いし走るの遅くなるでしょ!?」
「芽榴ちゃんが重いとかありえないから!」
後ろから大量の女生徒と男子生徒に追いかけられながら芽榴と風雅はそんなことを言い合う。
「つか、芽榴ちゃん捕まえようとしてるヤツなんかに絶対渡せない!」
「いや、降ろしたほうが効率いいって……」
「オレが絶対芽榴ちゃんを守るから!!」
「だから人の話聞こーね」
走るのに必死な風雅はほぼ芽榴の話をスルーで外廊下を駆け抜け、本棟に入る。
「げっ」
風雅は思わず声に出してしまった。
さっきファンをまくために本棟から外廊下を渡ろうとしていたことを風雅はすっかり忘れていたのだ。つまり、本棟には風雅ファンがたくさん存在するわけで。
「きゃーー! 風雅くん発見ー!」
前方からも風雅ファンがやってきた。
芽榴が先ほど経験した絶体絶命シーン再びという状況になってしまう。
「蓮月くん降ろして」
後ろからも芽榴狙いの男子生徒と風雅ファンが押し寄せている。おそらくどちらかが囮になって生徒たちの衝突を狙えば、片方は逃げ切れるかもしれない。
「私が……」
「芽榴ちゃん」
芽榴が何かを言う前に風雅が芽榴を降ろす。
そして廊下の死角、階段のあるほうへと芽榴を突き飛ばした。
「蓮月くん!」
「言ったでしょ。芽榴ちゃんは誰にも触らせない」
風雅はそう言ってニッと笑い、廊下を再び走り始める。
芽榴が風雅に降ろされたことに気づいていない男子生徒たちはそのまま風雅についていった。
そのあとすぐに「風雅くん捕まえたー!」という女子の嬉しそうな叫び声が芽榴の耳に届いた。
「バカ……」
芽榴は困ったように呟く。
風雅の男らしい笑顔を思い出すと、芽榴の頬は自然と赤くなるのだった。




