108 振り出しと大絶叫
文化祭2日目の始まりを告げるチャイムが校舎に響き渡る。
F組の生徒が奮闘し、一日がかりでも難しいと思われた修復は予想よりもはるかに順調に進んでいた。
しかし、F組の出店の準備はまだできていない。
始まりの合図と、校舎に響く来客の楽しげな声にF組の生徒の顔は曇ってしまう。
昨日の高評価によってF組に真っ先に来てくれる客もいたが、他のクラスのように役員目当てでないから特に話は厄介で、準備のできていないF組には客を引き留める術がない。
昨日勝ち取った客足はすぐに遠のいてしまう。
また振り出しに戻った。
実際に客がガッカリした様子で帰っていくのを見ると、やはり悔しい思いが募ってF組の生徒たちの動きが鈍る。
「はーい、暗くならない」
そんな中、芽榴は手をパンッと叩き、暗くなりかけた空気を断ち切る。その声はいつものような芽榴らしいノンビリした声だ。
「昨日も出だしはダメダメで昼頃から波に乗って3位になれたんだから。昼までに修復できれば余裕だよー、ね、委員長」
芽榴はバケツを持って委員長のほうを振り向く。すると委員長は笑顔で頷いて「昼には出店できるよう、頑張りましょう」と言い、中間発表の時と同じようにF組の生徒たちは「おー!」と大きな声でやる気を見せた。
「芽榴」
「舞子ちゃん。飾りつけどうー?」
芽榴のほうに駆け寄ってきた舞子に、芽榴は尋ねる。舞子は女子組の飾りつけの指揮をとっているのだ。
「なんとか、ね。元と同じようなのは無理だけど、見苦しくない程度に雰囲気出せればいいわよね」
「さすが、舞子ちゃん」
芽榴は微笑む。芽榴が舞子の立場でも、舞子と同等かそれ以上の飾りつけを施すことができただろう。しかし、芽榴は心からスゴイと思って褒めているため、その言葉に嫌味はまったく感じられず、舞子は素直に喜べた。
「それより、表の片付けはもうみんなに任せて、あんたお菓子作り始めたほうがいいわ。厨房のほうは片付いたみたいだから」
「あ、ほんと? じゃあ、調理道具とってくる」
芽榴の持っていたバケツを舞子が受け取り、芽榴はそのまま教室を出て行く。
「楠、原」
教室を出て行った芽榴を、ぎこちなく呼び止めたのは滝本だ。久々にその声で名前を呼ばれ、芽榴はすでに廊下の外に出ていた体をそらすようにして上半身だけ教室の中に戻した。
「滝本くん? 何?」
芽榴は何事もないような笑顔で問いかけた。
あのときと同じ笑顔に、滝本は口を開いて、そしてまた閉じる。
「ごめん……何でもねー」
滝本はやっぱり芽榴から目を逸らして、力仕事をしている男子組に混ざって行った。
芽榴は少しだけ寂しそうに笑って、今度こそ教室を出て行った。
ガヤガヤ
混雑する廊下を早足で歩く。
まず教室から数歩先のE組の行列を前にして、芽榴はため息を吐いた。開始してまだ間もないのに、昨日以上の大行列を勝ち取っている〝占いの館〟はさすがだ。
風雅いわく翔太郎のタロット占いはよく当たるらしい。そしてそんな彼がクラスメートに簡単なタロット占いの仕方を伝授しているため、クラスの生徒のただのタロット占いもそれなりに的中しているのだ。加えて翔太郎自ら少しだけ催眠術を使ったりしてお悩み相談とその解決などをしているらしいのだから、人気が高いのも当然と言えるだろう。
ここは通れないと悟った芽榴は別の道を行こうと踵を返す。
「くっすはーらさーん」
行列に背を向けた芽榴の耳に、まさにその行列の中から女子特有の鼻にかかった高い声が聞こえた。芽榴はすぐに振り返って目を見開く。
「渡辺さん……」
芽榴はE組の大行列の中の一人を見て、顔を強張らせる。目の前には、音楽室の前に並んでいそうなくらい濃い化粧で、その年の女子高生に相応しい衣装に身を纏う渡辺夏美の姿があった。彼女は夏休みに風雅の宿題を手伝ったときに再会した元クラスメート。
「ねぇF組でしょ? あんたのクラスって」
夏美は並んでいたE組の行列から抜けて、まるで仲の良かった旧友に話しかけるようにして芽榴に駆け寄ってきた。もちろん夏美の取り巻きの一人が彼女の代わりに行列の中に残ってくれているからこその行為なのだが。
芽榴がぎこちなく頷くと、夏美は目を輝かせた。
「やっぱりー!」
「……やっぱり?」
芽榴は眉をひそめる。
「だって、なんか荒らされてたんでしょ? 2年F組」
「……!」
「……荒らされてた?」
「……準備できてなかっただけじゃないの?」
夏美の声が大きくて、夏美の言葉はE組に並ぶ外部の人の耳にまで届く。芽榴は事が大きくならないように静かに否定した。
「違う」
「ウソはいいから。さっき麗龍の友達から聞いたし」
夏美は片眉をあげて楽しそうに言う。芽榴はこれ以上夏美と話していたくなかった。そこで話を切り上げてさっさと家庭科室に調理器具を取りに行こうとする。
しかし、芽榴がその場から逃げないように夏美は芽榴の腕を掴んだ。
「待ちなよ。愛想悪いのも相変わらずだね、あんた」
「まだ……用があるの?」
芽榴は強張った表情のまま告げる。
すると夏美がニヤリと笑い、芽榴はしまったと目を見開いた。
「あんたって本当疫病神だよねー。あんたがいるからクラス荒らされたんでしょ?」
「……それは」
「せっかく逃げてきたのに麗龍でもみーんなに嫌われてんじゃん?」
夏美の声が響く。
芽榴と夏美の様子を見て外部の人々はコソコソと耳打ちを始めた。
「F組かわいそうだよねー。あんたのせいでクラスの出店が台無しだもん」
夏美は同情するような目で芽榴を見つめる。
昔よく見たその顔に芽榴はうまく声が出せなくなった。
「ちが……」
「台無しではない」
芽榴の消え入りそうな声を掻き消すようにしっかりとした声が廊下に響いた。
「葛城、くん」
芽榴はタイミングよくE組から出て来た翔太郎を見て驚いたように目を丸くした。翔太郎はそんな芽榴の様子を気にすることなく、自分のクラスの扉近くでもめている2人のあいだに割って入った。
「か、葛城翔太郎くん!?」
声を裏返して、夏美は嬉しそうに口元を両手で押さえた。E組にわざわざ並んでいた理由である、お目当ての美形役員の一人、翔太郎の登場に夏美は頬を染める。
「F組は荒らされてはいない。単に準備が遅れているだけだ」
しかし、翔太郎は夏美の可愛らしい反応にはまったく関心を向けず、咳払いをして話を戻した。
「と、と、友達が言ってたからぁ。あたしは別にそう思ってるわけじゃない、ですよぉ?」
翔太郎が芽榴を庇うような発言をするため、夏美はいつかと同じようにまた態度をあからさまに変え始めた。しかし、翔太郎はそんな取り繕うような演技に騙されるような男ではない。それ以前に女嫌いの翔太郎に媚びるような態度をとるのは逆効果なのだ。
「噂がどうなっているかは知らないが、あまり勝手なことを言ってもらっては困る」
翔太郎が顔色一つ変えずに告げる。
生徒会副会長の言葉と生徒でもない外部の生徒の言葉、人々がどちらを信じるかは明白だった。
コソコソとした声しか聞こえなくなっていた廊下の人々も「なーんだ」と呆れたような声をあげて、すぐにまた楽しげにざわつき始める。
「……っ」
夏美は周囲の視線が痛くて、顔を真っ赤にして隠れるように人混みの中へ消えていった。
「騒がせてごめん……葛城くん」
芽榴は俯いたまま口を開く。
翔太郎の目には、そんな芽榴の姿が前に一度だけ見た、暗い生徒会室に怯える芽榴の姿と重なって映る。
「私、家庭科室に行かなきゃ」
いつもでは想像がつかないほどに頼りない空気を纏う芽榴を放っておけず、翔太郎は芽榴の手を掴んだ。
「かつ……」
「楠原、来い」
翔太郎は周囲が騒ぎだすのも気にせず、芽榴を連れて階段へと向かった。
人で混み合う1階の玄関口を抜け、芽榴と翔太郎は家庭科室や保健室のある廊下へとやってきた。
目的の場所にたどり着いたが、どうして翔太郎が一緒に来たのか分からず、芽榴は首を傾げた。
「大丈夫か?」
芽榴が口を開く前に、翔太郎がそう問いかける。
芽榴は「あ」と小さく声を漏らして、申し訳なさそうに笑った。
「うん、もう大丈夫。ごめんね、すごく情けない顔してた」
芽榴は自分に呆れるようにため息を吐いた。
「あれは……知り合い、か?」
詮索する気はなかった。
しかし、聞きたいという気持ちに嘘はつけず、言葉が勝手に口から出て行ってしまう。友人かと問おうとしたが先ほどのやり取りからして絶対にありえないと思い、翔太郎は言葉を選んだ。
「小中学が同じだったの」
「そうか……」
「葛城くん」
芽榴は翔太郎を見上げた。翔太郎を見つめる芽榴の瞳は微かに揺れる。
「……どこから、話聞いてた?」
芽榴が小さな声で尋ねると、翔太郎は少しだけ言うのをためらう。しかし、芽榴相手に嘘を吐くこともしらばっくれるのも無理だと思い、フッと息を吐いた。
「貴様が疫病神、とかなんとか言われていたあたりから」
翔太郎が告げると、芽榴は分かっていたように苦笑して「そっか」と呟いた。
「しっかりしないといけないよね。これ以上クラスに迷惑はかけられない」
「貴様のせいでは……」
翔太郎は言おうとしてやめた。〝芽榴のせいではない〟と、そういうのは簡単だ。でもそれは半分本当で半分嘘。そして何より、芽榴自身がクラスが荒らされていた理由に気づいていることを翔太郎は分かってしまったのだ。
言葉を選ぶ翔太郎を見て、芽榴は優しく笑った。
「ほら、葛城くんも戻らないと。また中間発表で負けちゃうよ?」
芽榴が翔太郎の肩を押す。
すると翔太郎はその芽榴の手を掴んで、向き合うように引き寄せた。
「楠原」
「何……」
「荒らし犯のことはもう問題ない。すべて解決したことだ」
芽榴の眉があがる。翔太郎の言葉の意味が分かり、芽榴の表情がまた曇った。
役員みんなが芽榴のために犯人を探してそして事態を解決してくれた。それは喜ぶべきことなのに、みんなの手を煩わせてしまったことが辛いのだ。
「だから、そんな顔をするな」
翔太郎はそう言ってゆっくり眼鏡を外す。
「貴様のせいであっても貴様は悪くない。絶対自分を責めるな」
芽榴に催眠誘導は効かない。それでも翔太郎がそうするのは、それが翔太郎が芽榴にしてあげられる精いっぱいのおまじないだからだ。
芽榴は鼻の奥がツンとして反射的に俯いた。
すべて自分のせいで壊れてしまう。だから自分が何とかしなければいけない。いつだってそれが芽榴につきまとう現実で、その解決策は手を抜くことでしか見つけられなかった。
でも芽榴は今回絶対に手を抜きたくなくて、そうしたら逆に焦りが募っていった。そんな駄目な自分を悟られたくなくて無理に空元気を見せて、でもそれだって少し叩かれたらグダグダに崩れてしまった。
相変わらず自分は弱いと芽榴は痛感する。
「情けないな、ほんと」
「楠原?」
か細い声でつぶやく芽榴を翔太郎は心配そうに見つめる。
翔太郎の呼びかけに芽榴は反応しない。
そしてそのまま大きく息を吸った。
「あああーーーーーーー!」
芽榴が突如大声で叫び出し、翔太郎は唖然とする。
「楠、原?」
芽榴は叫ぶのをやめてもまだ俯いたままで、翔太郎は恐る恐る芽榴の名を呼んだ。
すると、芽榴はヘラッといつものようにのんきな笑みを浮かべて顔をあげた。
「うん、スッキリした」
「は?」
動揺している翔太郎を見て芽榴はカラカラと笑った。
「葛城くん」
「なんだ……」
「絶対負けないよ」
芽榴は翔太郎の目をまっすぐ見て告げる。その瞳はもう揺れていない。いつもの、翔太郎が焦がれてやまない綺麗な瞳だ。
「そうか」
翔太郎はそう言って眼鏡を掛け直し、自分のクラスへと足を向ける。
「葛城くん、いつもありがと」
芽榴は翔太郎の背中に向かってそう言い、家庭科室の中に消える。
翔太郎はゆっくりと振り返って困ったように肩を竦める。
「それはこちらのセリフだ、馬鹿が」
翔太郎は小さく呟いて、騒がしい文化祭の波に消えた。




