102 ドン底と愛しい距離
顔を真っ赤にした芽榴を見て、慎は笑い続ける。さすがにムカついてきた芽榴は慎に文句を言おうとするのだが。
ガラッ……バコンッ
突如勢いよく教室の扉が開き、現れた人物はそのまま慎の頭をこれまた勢いよくグーパンチで殴った。
「……いってぇ」
慎は頭を押さえながら、自分を殴った人物を睨み返す。しかし、慎の目がその人物の姿を映した瞬間、慎は「やべっ」と思わず声に出していた。
「早かったな、聖夜」
「せやな。はよう来れてよかったわ」
タイミングよく現れた聖夜を慎は笑顔で迎え入れるが、聖夜は不機嫌に言葉を返す。
「琴蔵さん」
芽榴は少し驚いた様子で聖夜を見上げた。聖夜の登場に、芽榴の頬の赤みも薄れていく。
「芽榴、大丈夫か?」
聖夜が芽榴を見て尋ねると、芽榴は「大丈夫じゃないです」と素直に返した。芽榴の返事に、聖夜は慎のことをものすごい形相で睨む。その視線を受けて慎は笑いながら肩を竦めた。
「俺の意見も聞こうぜ?」
「お前の意見なんか聞いたところでムカつくだけやろ」
聖夜は冷たい声で告げる。聖夜の意見は最もなため、慎はそのことについてはそれ以上何も言わないことにした。
「つか、なんでここが分かった?」
芽榴と慎が隠れているのは何も出し物が行われていない階の空き教室。ずいぶんと探したにしては、聖夜の到着が早いと慎は思ったのだ。
「お前ら、噂になっとるで。蓮月風雅のファンにキスして失神させるわ、ヤツのクラスに乱入して消えるわ。噂の的が隠れるとしたら何もあらへんところやろ」
聖夜の言葉に慎は納得し、芽榴はため息を吐く。
「あとで蓮月くんに謝らないと……」
困り顔の芽榴を見て聖夜はまた慎を睨みつけて、彼の頭を叩いた。
「あんま、こいつに迷惑かけんなや」
「いつもかけてる聖夜が言うか? それ」
「かけてへんし、俺はええねん」
「よくないです」
ドヤ顔で言う聖夜に芽榴は思わずツッコミをいれ、慎は楽しげに笑った。芽榴と慎が仲良く見えてしまい、聖夜は2人のあいだに立った。
「もう楽しんだやろ。出てけ、アホ」
聖夜がむくれたように言う。噂で聞く限り、慎は芽榴と十分すぎるほど楽しい時間を過ごしているのだ。聖夜にとってこれほど面白くない話はない。
「はいはい」
慎はそれを察して空き教室を出て行こうとする。
「簑原さん」
そんな慎を芽榴は呼び止めた。呼び止められた慎は一瞬目を丸くする。
「な、んだよ」
「F組の客寄せするの、忘れてないですよね」
芽榴が真剣な顔で言う。芽榴が休憩時間、慎と一緒にいることになったのはそれが理由なのだ。
「分かってるっつの」
一瞬浮かんだ甘い期待は慎の中から消える。愚かな自分を笑うように、慎は笑顔で教室を出て行った。
慎が出て行くと、慎のいた場所に聖夜が座り込んだ。そんな聖夜を見て、芽榴は躊躇いつつも尋ねた。
「見て回らなくていーんですか?」
「は?」
「いや、その、文化祭ですから……」
芽榴はこれ以上目立ってはいけないと分かりつつも、聖夜を気遣った。
せっかく来ているのだから慎のようにいろいろと見て回りたいのではないかと思ったのだ。
「えぇよ。正直な話、そないに時間もあらへんのや」
聖夜は苦々しく言った。
新学期早々、聖夜は一度だけ芽榴に会いに来た。そのときも聖夜は忙しい合間を縫ってわざわざ芽榴に会いに来たのだ。
この時期、聖夜のような上の立場の人間は忙しくなり始める。そして自身の行動にも最大の注意を払わなければならなくなるのだ。そのことを芽榴はよく知っている。
「無理して来なくても……」
「俺は俺のために無理しとんのや。お前のためやないねんから、お前が気にかける必要あらへん」
聖夜の言葉は強い。しかし、その声音はとても優しかった。
「……こっちは楽しそうやな」
「はい。楽しいですよ、とても」
芽榴は笑った。
それは聖夜が求めていた答えだ。でも実際に楽しいと言われると、聖夜の心の中に少しだけモヤモヤしたものが残った。
「こんな庶民の遊戯会で、そないに楽しめるんか?」
おかげで不意にそんなとを口にしてしまう。でも実際、聖夜がそう思っているのは事実だった。
聖夜の言葉を聞いて、芽榴は怒るでもなく肯定するでもなく、優しく微笑んだ。
「琴蔵さん」
「なんや?」
「庶民とお金持ちの決定的な違いって何だと思います?」
芽榴は突然そんなことを聞く。聖夜は不思議に思いながらも、芽榴の質問にちゃんと答えた。
「金と肩書き……ちゃうか?」
「私もずっとそう思ってたんです」
芽榴は聖夜の答えを予想していたかのような口ぶりで言った。そして芽榴はまっすぐ前を見る。
「見えてるものが違うんです」
「見えとるもの……?」
聖夜は目を細めた。
聖夜が問い返すと、芽榴はゆっくり頷いた。
「お金持ちの人は…先のことをちゃんと考えて、何より未来を見据えていて……。でもここにいる人たちはみんな、目の前の今を一生懸命楽しんでいて……。それが何より違うんです」
芽榴は静かに告げる。
芽榴が何を言いたいのか、 聖夜には分からない。急かすこともできたが、聖夜はただ黙って芽榴の言うことを聞いていた。
「でもさっき簑原さんが笑ったの見て思ったんです。お金持ちでも、今を楽しむことができたら、この学校にいるみんなと何も変わらないんだって」
「……」
「私、何度か思ったことあるんですよ。……あの頃の私が、あのまま何事もなくお嬢様のままでいられたらどーなってたかなって」
聖夜は前に、芽榴が東條芽榴なら自分と結ばれていたはずだと言っていた。
それはきっと間違いではない。
「でもそしたら、私は何でも知ってるくせに、何も知らない無知なお嬢様のままで……」
芽榴は聖夜へと視線を向ける。その瞳はやはり聖夜の心を虜にするほどまっすぐなのだ。
「きっと、琴蔵さんが気にかけてくれる『楠原芽榴』という女の子には……なれませんでした」
もし過去のある一点が違えば芽榴をこの手にできた。そう思うことが、聖夜が自分を慰める唯一の方法だった。
しかし、芽榴の言葉はそんな聖夜の思いを抉る。
「……そうかも、しれへんな」
聖夜は掠れる声で芽榴の言葉を肯定した。
肯定すればもっと虚しくなる。それでも聖夜は納得するしかなかった。
「私は今すごく楽しいです。全部の幸せを使い果たしてるのかもって思うくらいに」
「お前が楽しいんやったら……ええ」
聖夜はどこか寂しげにそれでも満足げに呟く。そんな聖夜の顔が芽榴を不安にさせるのだ。
「琴蔵さんは意外と優しいですよね」
「……当たり前やろ」
聖夜は静かに小さな声で言う。不安げな声で強気な言葉を残す聖夜に、芽榴はクスリと笑った。
「だからいつか、琴蔵さんにも私の今見ている景色を見せてあげたいです」
芽榴は笑った。
「そしたら、きっと琴蔵さんも心から笑えますよ」
芽榴が一番伝えたかったのはそれなのだ。聖夜のいる場所が、そこに立つ者の気持ちが誰より分かっているからこそ芽榴は言える。
たとえ他意がなくとも、疲れ果てた聖夜の心に、芽榴の言葉は甘く響き渡るのだ。
ゆっくりと聖夜が芽榴へと手を伸ばし、聖夜の腕に結ばれたミサンガが揺れる。
「庶民の景色見て、幸せになれるほど単純ちゃうわ」
そう言って聖夜は芽榴の顔を自分から突き放すように向こう側へと押しやった。
「あー、そーですか」
芽榴は呆れるような困ったような声を出す。そんな芽榴は今、聖夜がどんな顔をしているのか知る由もないのだ。
「……アホ」
どん底に突き落としたかと思えば、また引き戻す。芽榴が聖夜に与えるものはいつだって極端なものばかりで、だからこそ聖夜の心は囚われてしまう。
ただそれでも、聖夜に背を向ける芽榴とのこの微妙な距離感が、手を伸ばせば届きそうなこの距離感が、今の聖夜には心地よかった。