05 傘とオセロ
神代颯は生徒会室の窓の前に一人佇んでいた。別に集合命令などかけていないのに昼休みには誰からともなく生徒会室に集まっていた役員も最近では一人、また一人と姿を見せなくなっていた。
颯は一息つくと、窓の外を見る。颯の赤みを帯びた瞳に映ったのは高等部2年の棟の一角――唇を尖らせながらプリントを運ぶ少女の姿。
「芽榴ちゃーん」
「ぎゃあー!」
その少女の数メートル後ろにはよく見知った明るい茶色の髪、風雅だ。風雅がその少女に背後から抱きつくと、その少女は体を前に傾ける。何とか体勢を保った少女は風雅を振り返って睨んでいた。とうの風雅は心底嬉しそうにニコニコしているのだが。するとそこへ眼鏡を押し上げるこれまた見知った長身の男がやってきた。
「蓮月。貴様は何をしている。楠原が困っているだろう?」
翔太郎は風雅の首根っこを掴み、少女から風雅を引き剥がす。女嫌いの翔太郎が女子を気遣うなどこの上なく貴重な場面だ。
「ありがと、葛城くん」
「ふんっ、別に礼を言うようなことではない」
「ちょ、翔太郎クン! 芽榴ちゃんとオレの仲を邪魔す……!」
「貴様は一度思い知らせなければ分からないようだな」
「イヤー! オレは芽榴ちゃんとー!」
「ばいばーい」
面倒顔の翔太郎と泣き目の風雅。2人の姿が消えると、やる気なく片手を振っていた少女のもとにこれも見知った小柄な少年が現れた。
「楠原さん、手伝います」
「毎度悪いねー」
慣れたように少女と有利はプリントを分け合っていた。
そんな様子を眺める颯の耳に扉が開く音が聞こえる。
「颯?」
横目に背後を伺えば、来羅の姿が映る。
「来羅か」
「うん。何見てるの?」
来羅は長い髪を揺らしながら颯の隣に並ぶ。
「あっ、るーちゃんと有ちゃんじゃない。有ちゃんってば、るーちゃんのお手伝いなんて役得よね」
来羅はフフフと手を口に当てて笑う。所作が女性よりも女性らしいと颯はいつも感心する。
「楠原芽榴、か」
颯は窓の外を見ながらその名を口にする。その声音からは感情を読み取ることができなかった。
その日は雲一つない晴天からバケツをひっくり返したようなどしゃ降りの雨天に変わる山のような天気だった。そして、運の悪いことに芽榴は傘を忘れていた。
「傘くらい生徒会に言えば貸してくれるわよ」
「えー……」
舞子の言葉に芽榴は眉を寄せる。舞子は相変わらずな芽榴を見て苦笑した。
「誰もが理由をつけて生徒会室に行きたがるのにね」
「だって生徒会室に行ったら帰れないもん、たぶん」
芽榴は今日も散々抱きついてきた風雅のことを思い出しながらため息をつく。
「でもこんな雨の中を傘もささずに帰ったら風邪引くわよ」
「いっそ風邪をひいてでも……」
「行け」
「……ハイ」
いつの日かのやり取り同様、舞子の圧力に負けた芽榴は重たい腰をあげたのだった。
芽榴は生徒会室の前の扉で大きく深呼吸する。
「失礼しまーす」
コンコン、とノックをして、芽榴は茶色い大きな扉を開けた。
扉を開けるとそこは予想よりも遥かに静かな場所だった。しっかりと整理整頓された室内は流石といったところだ。必要以上の複雑な機械類が置いてあることについて芽榴はあまり深く考えないことにした。
芽榴が部屋を見回していると、凛とした声が室内に響いた。
「どうかしたのかい?」
芽榴が振り返れば、そこにはニコリと笑う颯の姿があった。彼も今、生徒会室に赴いたところらしい。
「傘を借りに来ました」
「あぁ。ちょっと待っててくれるかな?」
「はい」
颯は芽榴の横を通り過ぎて奥にあるロッカーへと足を進めた。
そんな仕種一つとっても雰囲気があり、芽榴はしばらく颯の後ろ姿に見惚れていた。そういえば彼と話すのはこれが初めてだったか、などと考えていると、芽榴の肩がビクッと揺れる。芽榴は慌てたように扉から死角になりそうな場所へと移動し、その場に座り込んだ。
「楠原さん? 何してるの?」
突然の行動に少し驚いた顔で颯が尋ねる。それと同時、部屋の扉が勢いよく開いた。
「芽榴ちゃん!?」
その声は風雅のものだ。扉が開いたことによって芽榴も風雅も互いの姿は目にできない。
ウキウキ声で入ってきた風雅に颯は呆れた顔をした。
「風雅……。何をしている」
「は、颯クン!? ご、ごめ……っ」
芽榴がいる気がして扉を開けた瞬間に風雅は芽榴の名を叫んでしまった。中にいる人物をまったく想像していなかった風雅は颯の存在を目にして焦ったように言葉を取り繕う。が、対する颯は顔に恐ろしい笑みを浮かべていた。
「あぁ、そんなに仕事がしたいのか。風雅は変わったヤツだね」
「いや、颯クン! ストップ、ストップ! オレが入ってきたときに一番に颯クンの名前を呼ばなかったことは謝るから!」
風雅は冗談などではなく本気でそんなふうに謝った。風雅らしいと言えば風雅らしい考えなのだが、颯は額を押さえつつ困ったように声をもらした。
「ノックもなしに扉を開けたことを怒ってるんだが、どうしたらそういう解釈になるんだい?」
「えーっ! とにかくごめん! ……って今はそれどころじゃなくて! 芽榴ちゃん来なかった!?」
反省している様子のない風雅にため息をつくと、颯が芽榴にチラッと目を向けた。芽榴が口元に人差し指を立てると、颯は少しだけ頬を緩め、風雅に視線を戻した。
「彼女なら傘を借りて出て行ったよ。さっきね」
「本当!? ありがとう! 颯クン!」
風雅は嬉しそうに言って芽榴を追いかける旅へ出ようとするのだが、颯の声がしばしそれを制する。
「礼は仕事3倍でいいよ」
「え……颯クン、ちょ、待って」
「あぁ、すまない。5倍がよかったかい?」
抵抗すればするほど倍数方式で増えていく気がしたため、風雅は「ストップストップ!」と声を荒げた。
「3倍させていただきます! 急がないと芽榴ちゃんがー!」
そう言って嵐のように風雅は去って行く。扉がバタンと閉じたのを見計らって、芽榴は息を吐いた。
「ありがとう、神代くん」
「大したことはしてないさ」
芽榴が颯に近づき、傘を受け取ろうとすると颯が芽榴に手渡したのは傘ではなかった。
「え? 何?」
「今、出て行ったら風雅に捕まるよ?」
颯は笑みを浮かべたまま、そんなふうに言う。
確かに風雅が芽榴を見つけることを特技としているのは最近分かってきた。
「あー、そうですね」
「だから暇つぶしに僕とこれでもしようか」
オセロを片手にする颯に芽榴は明らかに面倒そうな顔をした。
「いやで」
「断ったらすぐに風雅をここに呼んであげるよ」
オセロを持っているほうとは別の手で颯が携帯を掲げる。自分に拒否権がないことを悟った芽榴はため息混じりに了承した。
「そうだね、普通にやっても楽しくないから賭けでもしようか」
生徒会室の端にある二人用の席に座ると、颯がそんなことを提案した。
「負けたほうが勝ったほうの言うことを聞くっていうのでどうだい?」
「どーぞ、ご自由に」
芽榴は反論することを諦め、台に黒石を置いた。満足そうに微笑んだ颯が同様にして二つの白石を置く。そしてゲームを始めると、パチパチ、と無機質な音が部屋に木霊した。
「君と話すのはこれが初めてのはずなんだけど、そんな感じがしないんだ」
「でしょーね」
颯は有名人だが、芽榴はミス平均とうたわれる普通の女子だ。つまりは颯にとって芽榴はほぼ初対面と言っても過言ではない。にもかかわらず、いきなりゲームをしようなどと持ちかけてくるのだから颯がそんなふうに感じていることも納得だ。
「君はアイツらにかなり気に入られてるらしいね」
〝アイツら〟というのは役員のことをさしているのだろう。芽榴は少し考えてから口を開いた。
「まぁ、よくはしてもらってます。一部を除いて」
「風雅か。アレがここまで他人に執着することは今までなかったんだけどね」
「へー」
芽榴は盤を見たまま返事をした。
「風雅だけじゃない。来羅も有利も、翔太郎に至っては女嫌いだからね」
「あー、なるほど」
翔太郎の日頃の行動を考え、芽榴はなんとなく納得した。翔太郎が女嫌いということによって、納得できる場面が多々ある。それらを思い出しながら、芽榴は盤に黒石を置いた。
「でも君には普通に接しているみたいだ。いや、普通以上かもしれないね」
「そーですかね?」
芽榴は颯の言葉に苦笑する。芽榴自身、そんなふうに感じたことはないが、颯はそう感じるらしい。
「だから……」
颯は白石を置き、黒石を白石に変えていく。
「君に興味があるんだ。どうやってアイツらを手玉にとったのか、ってね」
芽榴は顔をあげた。すると、颯の視線と芽榴のそれが絡み合う。
「手玉、ですか」
芽榴は颯から目を逸らして盤上の白石を黒石に変える。
「できたら苦労してないんだけどねー」
「え?」
「神代くん」
芽榴は盤を指差した。それに促されるように颯も盤に目を向ける。すると、颯の目が大きく見開いた。
彼の目に映ったのは同数の黒石と白石。完璧なドローで終着したオセロ。
「ドローだから賭けはなしだよね?」
「……あぁ」
颯が頷くと、芽榴は立ち上がった。
「そろそろ蓮月くんがこっちに戻ってくるだろうし」
芽榴はそう言って会長席の隣に立てかけてあった傘をとり、そこにおいてあった貸出名簿にサインして颯に手渡した。
「明日、返しにくるね」
片手に傘を持って芽榴は扉に向かう。
「芽榴」
「……。え」
颯に名前で呼ばれた。気のせいかと思って振り返るが、どうやら気のせいではないらしい。
「楽しかったよ」
「あー。それはよかった。うん」
「また相手を頼むよ」
「……」
芽榴はそれには返事をせず、「失礼しましたー」と一礼して今度こそ部屋を出て行った。
芽榴が出て行き、しばらく颯はオセロの盤を眺めていた。見れば見るほど驚いてしまう。ゲームが終わったことにも気づかないほど話に没頭していた自分と、引き分けとなった結果。
彼は誰かに1番の座を譲ったことがない。それは何においても彼にとっての揺るぎない事実であり、異例にも高等部へ進学してすぐに生徒会長となりえた所以だ。
颯は芽榴に負けなかった。だが、勝ちもしなかったのだ。
「なるほどね」
颯は貸出名簿を見てクスリと笑う。《楠原芽榴》という文字がこの上なく愛おしかった。




