93 ネクタイと臆病者
「翔ちゃん。身長伸びた?」
昼休み、翔太郎が生徒会室に寄ると来羅が鬼ごっこ用の衣装の原案を作っているところだった。
「別に。昨年と変わっていない」
翔太郎はそっけなく告げる。アンケートで決まったことにそれ以上文句は言わないが、やはりコスプレ自体への抵抗はあるのだ。
「翔ちゃんのは1番地味なのにしておくわ」
「ああ」
来羅が苦笑しながら言う。翔太郎は頷いて、今来羅が描いている衣装の原案を見て目を細めた。
「それは貴様が着るのか?」
「まさか。こんな可愛い衣装はるーちゃんに着てもらうしかないでしょ」
来羅は笑顔で言う。確かに可愛い。しかし可愛すぎて逆に芽榴が絶対に選ばなそうな衣装だ。そう思いながらも来羅があまりにも楽しそうに笑うため、翔太郎は何も言わない。
翔太郎は用を済ませて生徒会室を出て行く。しかし、出て行く翔太郎を来羅が引き止めた。
「ねえ、翔ちゃん」
「……なんだ?」
「るーちゃんが男の子だったら何も問題なかったのにね」
来羅の言葉に、翔太郎は首を傾げる。衣装のことについて言っているのか。そう思った翔太郎に、来羅はクスリと笑って静かに言葉を続けた。
「翔ちゃんは私のことお人好しって言ったけど、みんなそうでしょ?」
来羅の顔は長い綺麗な髪に隠れて見えない。来羅が笑っていても泣きそうな顔をしていても、どっちにしたってその言葉は翔太郎の胸に深く沁みわたっていく。
「みんな優しいけど、臆病だから」
今日も学園は文化祭準備で賑わっている。しかし、最近の放課後は文化祭準備と、そしてそれとは別の青春で盛り上がる人たちも増えてきた。
そんな中、芽榴は現在かくれんぼをしている。いや、正確には中庭に咲いている花壇の花々と少し生い茂った草むらに隠れているだけなのだが。
なぜ、芽榴が中庭にいて、しかもその場に隠れなければならなくなったのか。それを語るために少しだけ時間を遡ることにしよう。
20分前・F組
今日の放課後は生徒会ではなく、クラスの出し物の準備に芽榴は参加していた。
「楠原ー! ペンキー!」
「はいはーい」
クラスの男子に言われ、パシリ業務をこなしている芽榴はペンキを持ってその男子のもとに行く。
「楠原さん! これ25枚コピーして!」
「はーい」
女子に言われて何やらメニュー表原案のようなものをコピーしに、印刷室に向かい、芽榴は再び戻ってくる。
「楠原! 差し入れー!」
「はー……は?」
思わず返事しそうになるが、次のそれは芽榴の仕事ではない。発言主の滝本を半目で睨んだ後、芽榴は再び仕事に戻る。
「楠原! 大変だ!」
次に芽榴を呼んだのは松田先生。
職員室にいるはずの先生がいきなり現れたことに、クラスの生徒は少し驚いていた。しかし、そんなことはお構いなしの松田先生は青ざめた顔で芽榴の肩を揺らす。
「ぬぉーーー!」
「……どーしたんですか?」
「暑くて、扇風機を回したら、俺の机の上にあった紙が中庭に飛んで行ってしまった!」
「……それは大変ですねー」
芽榴は目を細める。ただの報告であるはずがない。嫌な予感しかしないのだ。
「大変……。そう、その通りだ、楠原! 俺は大変なんだ! というわけで頼むぞ!」
「全然意味分かりません」
芽榴はクラスの飾り付けの花を作りながら、ニッコリ笑顔で松田先生に返す。しかし、松田先生はさらに勢いよく芽榴の肩を揺らした。
「このクラスで、現在仕事という仕事がないのはお前しかおらんだろう! 先生を手伝うというボランティア精神を見せろ!」
「そんな精神ありませ……うっ」
「言い訳はきかーん!」
あまりにも揺らされて吐き気を催す芽榴のことは完全無視で、松田先生はデボデボしたお腹を揺らしながら教室を後にした。
「松田、芽榴大好きねぇ」
松田先生の後ろ姿を見ながら舞子が言い、芽榴はため息をついた。クラスに上がってくる余裕があるなら、中庭に行って自分で拾えばいいのにと心の中で愚痴る。
「舞子ちゃん、これよろしくね」
「了解」
芽榴は作りかけの花を舞子に託す。
教室の扉に向かうため、芽榴は小道具作り中の男子の前を通った。
「まっちゃん、無茶ぶりだなー」
看板作り中の滝本がトンカチをクルクル回しながら芽榴に言う。芽榴は滝本のその動作に対して「危ないよ」と一言だけ告げて教室を出て行こうとした。
「手伝おうか?」
「いーよ。それ大変でしょ?」
芽榴は滝本が釘をうっている看板を指差す。滝本は「別に」と言おうとするが、芽榴はそれを聞く前にさっさと教室を出て行った。
そして5分前・中庭
松田先生が不注意で吹き飛ばしてしまったプリントの山を芽榴は中庭でかき集めた。
「これで全部かな?」
とりあえず目に入った紙はすべて拾い、芽榴は松田先生のいる教室に向かおうとする。しかし、
「待って、葛城くん!」
高い声でその名前が呼ばれた瞬間、芽榴は反射的に目の前にあった花壇を覆う茂みに飛んで隠れた。
声のしたほうを恐る恐る見てみれば、普通に可愛らしい女の子と、不機嫌な葛城翔太郎の姿があった。
芽榴はタイミングを間違えたと今日何度目かのため息をつく。
そして現在に至るのだ。
「なんだ……」
頗る不機嫌に返事をする翔太郎に芽榴は苦笑する。しかし、ちゃんと話を聞いてあげようとしているところからして彼なりに頑張っているのだろう。
基本中庭を通るのはゴミ捨てか廃材を取りに行くとき、あとは体育館に向かう時くらいだ。そして2人は互いに板のようなものを持っており、おそらく翔太郎とその女生徒は、2人で廃材を取りに行った帰りなのだ。
ここにいてはいけないと分かっていても、さすがの芽榴でもこの独特な空気をぶち壊すことを覚悟で出て行くことはできなかった。
「葛城くん、あの……」
女の子は恥じらいながらも、一生懸命翔太郎に向かって言葉を紡いでいた。
「葛城くんのネクタイ、もらえないかな……」
女生徒の発言に芽榴は目を丸くする。思わず「え」と声に出しそうだったため、芽榴は自分で自分の口を塞いだ。
その空気からして、芽榴は女生徒が翔太郎に告白するのだと予想していた。しかし、女生徒の言葉は違った。
女生徒は顔を真っ赤にして言う。その姿からしてもやはり告白に見えるのだ。
どちらにせよ、目の前の男、葛城翔太郎はまったく動じない。先ほどと違うとすれば、表情が不機嫌というよりは少し気まずそうなものになっていたところくらいだ。
「すまないが、渡すつもりはない」
「……そうだよね」
翔太郎が眼鏡を押し上げながら言い、女生徒はそれを分かっていたかのように小さな声で返事をした。
「もう、誰かと交換する予定……なの?」
「……別にそのつもりはない」
翔太郎は突き放すような声音で告げる。女生徒もそれに気づいて「ごめんね」と言い、気まずそうな顔をして一人先に教室へ帰って行った。
一連の出来事を終始見届けた芽榴はやっと自分の置かれている状況を考え直す。なぜかまだ翔太郎はそこに立ち尽くしていて、芽榴はその場から離れられない。
どうしたものかと腕に抱えたプリントの山を見つめて考えていると、突如黒い影に覆われた。
「貴様はいつまでそこにいるつもりだ」
「うお……っ」
顔をあげれば翔太郎が真上にいた。さっきまで5メートル先の通路にいたはずの翔太郎が自分の真上にいて、芽榴は瞬間移動したのではないかと素直に驚く。
「あっはは。バレてた?」
芽榴はすぐに立ち上がって、少しだけ申し訳なさそうに首を傾げた。
「ああ。聞いていたんだろう?」
「うん、ごめんね」
芽榴は松田先生の書類を抱え直して2学年棟へと向かう。翔太郎も廃材を持って芽榴の隣を歩き出した。
「葛城くんのあーいう現場に遭遇するのって二度目だなー」
「そうだったか?」
「うん。体育祭前に、ほら。私が雨の停電でダウンしちゃった日」
芽榴は苦笑ぎみに言う。確かにあの日、芽榴と生徒会室に行く前に翔太郎は女生徒からのお菓子を断っていた。
「あの時よりは優しい断り方だったけどね」
「さっきの女生徒は、普段からおとなしいヤツだからな。そう強く言わずとも理解できるだろう」
翔太郎のファンは風雅のファンとはまったく正反対の子たちが多い。おとなしくて頭のいい子がほとんどだ。
体育祭前に、翔太郎がコテンパンにした女生徒はどちらかといえば風雅ファンのような性質があったらしく、例外的にかなり強く突き放したようだ。
しかしそれなら、おとなしくて物分かりのいい女の子に、ネクタイくらいあげても罰は当たらないだろう。
「告白ならともかく……ネクタイくらいあげればよかったのに」
芽榴がボソッと言う。しかし、そんな芽榴の台詞に、翔太郎は目を丸くし、すぐに納得したように溜息をついた。
「え、何?」
「この時期にネクタイやリボンを渡したりもらったりすることは告白を受けるのと同じ意味だ」
翔太郎が淡々と説明する。
麗龍学園指定のネクタイとリボンは男女兼用で、女子はネクタイ状のものをリボンの形に結んでいるだけなのだ。
そしてそのネクタイを文化祭シーズンに男女で交換すると永遠に結ばれるという麗龍学園の迷信があるらしい。
これまた初めて聞く話に芽榴は「へぇー」と驚いているのか驚いていないのか分かりにくい反応を示す。もちろん本人はちゃんと驚いているのだ。
「蓮月に言われなかったのか? ヤツなら真っ先に貴様と交換しそうだが」
翔太郎がそう言うと、芽榴は首を横に振る。
「このあいだ会ったけど、言われなかったよ」
芽榴は少し考えるようにして翔太郎に言う。翔太郎はそれを聞いて少し思案顔になった。何を考えているのか気になりつつも、芽榴はあえて聞かないことにした。
「葛城くんはそーいうの興味なさそうだもんね」
「そういう貴様は興味あるのか?」
「その信憑性は少し気になるね」
芽榴はハハハと笑う。すると、翔太郎が芽榴の腕を掴んだ。そのはずみで芽榴はプリントを落としそうになるが、なんとかバランスをとってぶちまけずに済んだ。
「いきなり、何」
少し驚いた様子で芽榴は言ってみせるが、すぐにその口を閉じる。翔太郎が真剣な目で見つめていたのだ。
「試してみるか?」
「……何を?」
「迷信を」
信憑性を確かめるなら実際に自分たちで確かめてみよう、ということなのだろう。確かにそれが一番いい方法だが、まさか翔太郎の口からそんな言葉を聞くことになるとは思ってもいなかったのだ。
芽榴は翔太郎と見つめ合う。
翔太郎の手が彼のネクタイにかかったとき。
「ストップ」
芽榴は翔太郎の手に触れ、彼がネクタイを外すのを制する。そして、とうとう堪えきれずに笑い出した。
「ありがとね。でも、もし本当だったら葛城くん後悔するでしょ?」
「そんなことは……」
否定しようとした翔太郎はそこで言葉を詰まらせる。
――みんな優しいけど、臆病だから――
ふと頭を過ぎった言葉は翔太郎がその先を言うことを妨げた。
「信憑性確かめるにしても、ちゃんと人は選ばないと」
芽榴はそう言って翔太郎の肩をポンポンと叩く。
「楠原……」
翔太郎は何かを言おうとした。それは芽榴に対する文句だったのか、何だったのかも分からないまま、言葉にならずに消える。
「そうだな」
翔太郎はクスリと笑って頷く。
翔太郎がずれた眼鏡を押し上げ、彼の腕時計が芽榴の視界に入った。
「おっと、さっさと持って行かなきゃ。じゃあ葛城くん、またね」
芽榴はそう言って、笑顔で翔太郎の元を去った。
一人残った翔太郎は自分のネクタイを眺める。
芽榴はあんなふうに言ったけれど、翔太郎が押し切ればネクタイとリボンを交換することはできたのだ。
芽榴もリボンをあげる相手は決まっていないのだから。
しかし、翔太郎はそうしなかった。
「蓮月でさえ、我慢したのに……俺が出来るわけないだろう」
風雅が芽榴にネクタイを渡さず、彼女からリボンをもらわなかった。
その理由はたった一つ。
それが分かるからこそ、風雅が踏みとどまった一歩を、翔太郎も踏むことはできなかった。
来羅の言う通り。
――変わることを恐れ、戻れないことを拒む自分は臆病者。
翔太郎は自嘲気味に笑い、自分のクラスへと戻るのだった。