91 直球男子と不器用少女
メニューが決まってからというもの、F組の文化祭準備の進みがよくなった。
芽榴が新たに試行錯誤したメニューを吟味し、委員長率いる数人のF組の頭脳派が値段を考える。舞子たち女子組は売り子の衣装や教室の飾り付けを決め、滝本たち男子組は看板作りや机運びといった力仕事に励む。
そして芽榴は――。
「これはこれで大変なんだよねー」
2学年棟の最上階の廊下を歩きながら溜息まじりに呟く。
芽榴は男子が使った工具を片付けに、美術準備室へと向かっていた。当日忙しくなるからという理由で芽榴には決まった役割が振り当てられていない。だから自然と回ってくる仕事は簡単なパシリ業になってしまうわけなのだ。
しかし、これが意外ときつい。1階から最上階まで上って下りてクラスに寄って、という作業を幾度となく繰り返している。筋肉痛にならない自分に感動しているくらいだ。
そんなことを考えながら、少し大きな段ボールを抱えて芽榴はのんびり歩く。
「えっと鍵はー……」
美術準備室の前にたどり着き、スカートのポケットから先ほど借りた鍵を取り出す。鍵を開けて、芽榴は段ボールの中の工具を順番に直していった。
「よし、これで最後……って、うわー。あそこ届くかなー」
段ボールの中の最後の工具を手に持って、芽榴は半目になる。
その工具の置き場所は工具棚の一番上。芽榴が美術室の小さな脚立の上で背伸びをしてやっと届くような場所にある。
しかもそういう場所であるがゆえに他の人も工具の置き方が雑だ。今にもトンカチ類の山が落ちてきそうだ。
芽榴はフッと息を吐いて脚立にのった。背伸びをしてまずは元々あるそれらを整頓する。しかし、今にも崩れ落ちそうな工具の山に芽榴の伸ばした手が当たってしまった。
「う、わ!」
ガタガタガッターン!
崩れ落ちるトンカチやペンチなどを避けるように、芽榴はジャンプしてその場から離れる。ものすごい音が部屋に響いた。
「やっちゃったー……。不覚」
芽榴がそう言って額を押さえる。すると、忙しい足音とともにいきなり美術準備室の扉が開いた。
「何かものすごい音がしたんですけど大丈夫です、か!?」
最初は恐る恐る、そして語尾はほぼ悲鳴で、その男の子が準備室に入ってきた。
「芽榴ちゃん、何やってんの!」
風雅が血相を変えて、座り込む芽榴に駆け寄った。
「はははー。ちょっとミスっちゃった」
芽榴は呑気に笑うが、実際芽榴の反射神経が悪ければ大怪我になっていたかもしれないのだ。
「笑い事じゃないよ……」
風雅は困ったように言う。安堵する風雅の表情を見て、芽榴は申し訳なさそうに微笑んだ。
「驚かせてごめんね」
「いいよ。でもお願いだから手伝わせてね」
風雅は芽榴に拒絶されないように先手を切ってそう言う。さすがの芽榴もこの状況では背の高い風雅に手伝ってもらうしかないため、素直に彼の申し出を受けた。
「ありがと。ほんと助かった」
「芽榴ちゃんのためならお安い御用だよ」
準備室を綺麗に整頓し終えると、芽榴は風雅に頭を下げた。芽榴の役に立てたのが嬉しいのか、風雅はとてもニコニコしていた。
「でも久しぶりだね、蓮月くん」
芽榴が美術準備室の鍵をかけて、風雅に言う。
風雅と会うのは約一週間ぶりなのだ。生徒会の仕事日もかぶらなければ、クラスも教室のある階も違うのだから、風雅と会わなくても何もおかしくはない。むしろ、それが当たり前なのだ。
それでも風雅がF組にさえ姿を見せないことを、芽榴は少しだけ気にしていた。
そんな芽榴の反応に、風雅は苦笑する。
「最近ほとんど音楽室に篭ってるから」
「ライブの練習、忙しーの?」
音楽室のほうに向かいながら芽榴が首を傾げる。しかし、風雅は首を横に振った。
「ほとんど個人練習だから、全然。でもみんなには忙しいってことにしておいて」
風雅はそう言って口に人差し指を添える。みんな、というのはクラスメートやファンの子たちのことだ。
「もしかして、隠れてるの?」
芽榴は何となく思ったことを風雅に言ってみる。風雅のぎこちない笑顔からしてどうやら図星だったみたいだ。
「うん。この時期はあんまり、クラスにもいたくなくて……」
文化祭シーズンと言えば告白シーズンでもある。曖昧な返事だが、風雅の言いたいことが分かった芽榴はそれ以上は聞かないことにした。
「芽榴ちゃん、ちょっと時間ある?」
風雅の問いに、芽榴は「少しだけ」と答える。すると、風雅はさっきまで自分がいた音楽室に芽榴を連れて行った。
「ちょっと、蓮月くん」
音楽室に入るや否や、風雅はいつものようにギュッと芽榴を抱きしめた。油断してされるがままになってしまった芽榴は無駄と知りながらも風雅の胸の中で少しの抵抗を試みる。
「会いたかったぁ……」
大きなため息をもらしながら張り詰めた声で風雅が言う。同時に芽榴を抱く腕に力がこもった。
「そんな大袈裟な……」
「ううん。ほんと、芽榴ちゃん不足で最近ヤバかったから」
「何、その栄養素みたいな言い方」
芽榴はそう言ってカラカラと笑う。芽榴の笑い声に風雅がホッと肩をなでおろした。
「今は芽榴ちゃんに会いに行ってもいつも以上に迷惑かけちゃうだけだから……我慢しなきゃって分かってたんだけど。やっぱキツかった」
風雅が消え入りそうな声で言う。でもその声は芽榴の耳元で響くから、芽榴の耳には漏れずに全部ちゃんと届いた。
風雅が芽榴に向ける言葉はいつだって真っ直ぐで、さすがの芽榴も、風雅の好意だけはちゃんと分かっていた。
「蓮月くんさ……」
「うん」
「……趣味悪すぎだよ」
「え……」
芽榴の突然すぎる発言に、風雅は困り顔になる。芽榴は自分の言葉があまりにも足りないことに気づいて苦笑いをこぼした。
「他の子を好きになれば……もっと楽なのに」
芽榴は珍しく頼りない声で言う。
風雅の気持ちを分かっていて、こうやって抱きしめられていることも本当はよくない。
芽榴は風雅のことが好きだ。
でもその好きは風雅が芽榴に向けているものとは違う。まだ全然足りないのだ。
比べて風雅の周りには、風雅と堂々と並んで歩けるくらい美人な女の子も、風雅のことを心の底から想ってくれる優しい女の子もいて、風雅が芽榴に寄せる好意と同じものを風雅に向けている。
そんな子を好きになれば、きっと何もかもうまくいって、誰も文句なんか言わなくて、今こうやってファンの子から逃げたり、平凡な女の子のためにこんな苦しい想いをせずに済むのだ。
しかし、風雅はそうしない。いや、そうではない。
「私がそうさせないようにしてるね……」
全部分かっていて、それでも風雅を突き放さない自分の狡さに、芽榴はため息しか出てこなかった。
「芽榴ちゃん、違うよ」
目の前の風雅はそんな風には思っていないのだ。
風雅は芽榴を自分から解放して、芽榴の顔が見えるようにほんの少しだけ距離をとった。
「確かに芽榴ちゃん以外の誰かを好きになれば楽になるよ。でもオレはやっぱりこっちがいい」
そう言って笑う風雅の顔には嘘も偽りもなくて――。
「どんな子がそばにいても、オレは芽榴ちゃんを探して、そして見つける。それが誰にも負けないオレの唯一の自慢」
息ができなくなる。
そんな中で、芽榴は何とか声を出した。
「もう……行かなきゃ」
「あ、ごめん。準備忙しいよね」
「ううん、大丈夫」
芽榴はそう笑って、最後に「蓮月くんも頑張って」と言い残すと、急いで音楽室を出て行った。
音楽室を出て、階段を降りる。
途中で芽榴は耐え切れず、座り込んだ。
顔が、体が、熱い。
鏡を見ずとも自分が今どんな顔をしているのか芽榴には分かった。
「なんだこれ……」
最近、みんなが自分にかける言葉の一つ一つが胸をキュウッと締めつける。今の風雅の言葉が極めつけだった。
「……おかしーな……」
視界がボヤける。
抑えきれない涙が数滴、芽榴の膝にポツポツと落ちた。
きっとあれ以上あの場にいたら、こらきれなかった。
「嬉しいなぁ……」
――やっと楠原さんと対等になれた気がします――
――お前いねーと始まんない――
――会いたかったぁ……――
誰かに必要とされていることがこんなにも嬉しいなんて知らなかった。
涙で声が震える。
自分は翔太郎に言えないくらい、不器用だ。芽榴は実感する。
芽榴は誰にも聞こえないように、誰にも見られないように、うまく言葉にできないこの喜びを一人噛み締めていた。




