其の陸
漆黒の少女と梔子の姫。
彼女等の間に芽生えるのは――
ただの道案内とは言え、不慣れな仕事という物はやはり疲れるものらしい。
妖怪退治とやらの一行を再び自分の主人の家へと送り届けた後、少女は自らの住まいである小屋へと向かっていた。
少女の家は主人の屋敷から少し離れた場所にある。女の一人暮らしは物騒だからと主人は住み込みを強く勧めてくれたが、さすがに申し訳ないと断り、代わりに貸りた物だ。大分古い上に、粗末な作りだったが、主人のはからいでいくらか手直しを入れてくれたため、住むには全く困らなかった。
夜の帳はとうに降りきっている。借りてきた提灯の灯りが少しばかりの闇を払い、少女の足元を朧気に照らしていた。
なんだか今日は、とんだ一日であった気がする。
少女は短い帰路の中で、不思議な、異様とすら感じる彼らを思い返した。
彼らは一体何者なのだろうか。何処か異端と感じる節はないとは言えないが、それでも仲間内で話している様子は賑やかで楽しげで、とても人間らしく見えた。
なのに、あの少年は自分を鬼児だと言った。皆が皆、訳有りなのだと、そう言った。自らをそう言わせてしまう程の秘密が、彼らにはあるというのだろうか。
「…………」
少女はそっと顔を上げ、暗闇の彼方を見つめた。
一つ頭を振って、邪魔な前髪を振り分ける。連日の事件のせいで誰もが家に引きこもっている夜、めったに晒されることのない少女の顔を見る者は誰もいない。
秘密なら少女にもある。
それはとてもとても大きい、償えない罪を伴う秘密だ。
そろそろ、潮時なのかもしれない。
少女は声には出さずに、自らに向けて呟いた。
流れるままに流れて、この村に受け入れて貰って二年。その平和にも、終わりが近づいている。直感でそう感じていた。
まぁいい。その時は、その時だ。
少女は自分に言い聞かせ、最悪の想像を無理矢理打ち消す。再び頭を振り、前髪を元のように戻した。そして考え込んでいるうちにいつのまにか止まっていた歩を進め、家路を急ぐ。
しかし、その歩みは再び止まった。
「…………?」
今、背後から足音が聞こえなかっただろうか。
少女は振り返り、聴覚を研ぎ澄ます。手にもった提灯の灯りでは、この闇の奥までは見通せない。
ひたり、と今度は確実に、足音が聞こえた。とても軽い、素足で土を踏む音だ。それも、少しずつこちらに近づいてくる。
少女の体に緊張が走った。まさか、とは思いつつ、明け方に見た幼子の悲惨な光景が頭に浮かぶ。この視界の中当然ながら彼女には身を守る術はない。
ひたり、ひたりと、足音が大きく響く。
少女の背中を冷たい汗が流れた。どくどくと胸の中で心臓が暴れる。
「……なにしてるの?」
暗闇から現れたそれは、そんな少女の様子にきょとんと首を傾げた。高い位置で結われた黒く長い髪が、動物の尾のように揺れる。
白い肌に、闇に紛れるような袖が絶たれた墨染の衣。そして、それよりもなお暗い、漆黒の瞳。
その身とよく似た色の玉の名を冠する、妖怪退治屋の一人である黒曜が、そこにいた。
ひとまず二人分の茶を入れ、少女はその一つを差し出す。
差し出された黒曜は少しの間きょとんとそれを見ていたが、少女と茶とを見比べて、おずおずと手に取った。恐る恐るというように微かに口を付けるが、どうやら彼女には熱すぎたらしい。すぐにびくりと跳ねて口を離し、再び床に置いてしまった。
無言で口元を押さえて顔を歪める黒曜。よく見れば若干涙目である。
「…………熱い」
そりゃあ、淹れたてなのだから当たり前だろう。
内心でそんなことを言いながら、あまりに幼い黒曜の行動に思わず少女は微笑んだ。普段は人形のような感情の伺えない彼女だが、どうやらその中身は割りと子供であるらしい。
まさかそのまま追い返すわけにもいかず、結局少女は黒曜を家に招き入れてしまっていた。
何故ここに来たのか、キリ達は心配していないかなど、聞きたいことは山程あるのだが、そんな内心を知ってか知らずか、黒曜はいまだに熱い茶と格闘している。
そういえば自分の家で他人に茶を振る舞うのも久しい。そもそも、人を家に上げること自体が少女にとって稀なのだ。
「主様には、許可は貰ってる。夜はここに置いて欲しい」
とりあえず茶を飲むことは諦めたらしい黒曜が、唐突に話題を切り出した。
あまりの前置きの無さに少女は一瞬なんのことだか分からず、混乱する。とにかく筆談を、とつねに懐にある紙と小さな硯箱を取り出した。
しかしそこに割り込む、黒曜の一言。
「黒曜は、字は読めない」
「…………」
ならば一体どうしろというのか。というかそもそも、会話が成り立たないということが分かっていならわざわざ来ないで欲しい。
少女は黒曜がいるのも構わずに思わず頭を抱えたくなった。
「唇……」
黒曜が再び前振りもなく言う。少女が問うように見返すと、今度は自らの口を指し、黒曜は続けた。
「唇の動きで、何を言っているかはある程度分かる」
どうやら、さすがに文字無しで会話は無理だということは分かっていたらしい。それでもここに来たのは、その手段があったからか。それならばと試しに、少女は唇の動きだけで言葉を紡いだ。なるべくゆっくりと、黒曜に分かりやすいように。
『――――』
「『じゃあ試してみましょうか』」
女子は目を見開く。まさか本当に、ここまではっきりわかるとは。
「当たった?」
黒曜がにこりと無邪気に笑った。
『ええ、当たってるわ』
再び少女は声を出さず、口の動きだけで伝える。それも難なく読み取ったらしく、黒曜はさらに笑みを深くした。
「よかった」
『早速で悪いけど、いくつか質問していい?』
「黒曜で答えられることなら、話すよ」
何が嬉しいのか、黒曜はくすくすと笑ながら答えた。少女と会話が成立することがそんなに楽しいのだろうか。
たしかに少女とて、ここまで簡単に会話が進むのが嫌なわけはない。慣れてはいるとはいえ、いちいち文字にして意思を伝えるのは面倒ではあるのだ。
『とりあえず、どうして貴女は今晩ここにいたいの?』
「黒曜はあまり大きな屋敷にいることに慣れていない。夜でも人が動くし、落ち着かない」
『じゃあ、どうやってここに?』
「屋敷の人に言ったら、教えてくれた。黒曜は夜目が利くから、灯りが無くても出歩ける」
『そう……』
「……だめ?」
黒曜は少女の様子を伺うように上目遣いに見上げてくる。断られると困る、そう全身で言っているようだった。
少女は溜め息をついた。これで断りなどすれば、まるで自分が血も涙も無い悪人になるようではないか。
『……許可があるなら好きにしなさい』
ぱぁっと、黒曜の顔が晴れる。
「ありがとう!」
にっこりと、本当に嬉しそうに黒曜は笑った。その笑顔にはなんの裏も見えず、少女は何故かそれが酷く暖かいもののように感じる。
普段の表情があまりにも人間味の無いために、その表情が意外に感じた少女だが、直ぐにその考えを自らで否定した。
きっと、彼女は本当に感情が動いた時にしか顔に出てこないのだ。媚びることもせず、取り繕うこともしない。ただ自分が感じたことに従って、ありのままに笑い、ありのままに動く。
まるで、自由奔放で気まぐれな猫のようだ、少女はそう思った。
同時に、どうしてそんな彼女が自分を慕うのだろうかという疑問も浮かんだ。自分と、彼女や彼女の仲間達との初対面はあまり良いものではなかったことは自覚している。普通、ああいった頑なな態度を取られれば誰しもが近づくのを避けるはず。実際、今まで少女はそうすることで過度な人との触れ合いから逃げてきたのだ。
なのに、どうして彼女はこんな自分に無遠慮に、無邪気に、純粋な好意のみで近づいてくるのだろうか。
「…………黒曜は梔子の秘密の一つ、知ってる」
黒曜の口調が不意に大人びたものになる。まるで心を見透かしたかのようなその一言に少女は瞠目する。
今、彼女はなんと言っただろうか。
すると黒曜は静かに手を上げ、少女を指差した。正確に言えば、少女の前髪に隠された、目を。
「初めて会った時に目があった。その時、梔子の目が、少し見えた」
「……っ!?」
少女は内心の驚きを隠すために強く唇を噛んだ。やはりあの時、間に合わなかったのか。
普段俯くいていることの多い少女は、たしかにあの時だけは彼女を真っ直ぐに見てしまった。目が合ったのにも気付いていた。それはやはり少女にとって致命的な失敗であったのだ。
「大丈夫、村の人には言わない」
動揺している少女を宥めるように、黒曜が言った。
けれど少女は首を横に振り、拒絶の意を示す。
その言葉に一体どれだけの信用性があるというのだろうか。口先だけの言葉に騙されて、裏切られたことなど数えきれないほどある。ましてや彼女は一つのところに留まることのない流れ者。もしも、もしも彼女が少女の秘密をあちこちで吹聴したりなどしたら。
「梔子……」
黒曜が見るからにしゅんとした様子で覗き込んでくる。たまらずに少女は顔を反らした。
「ごめんなさい……梔子は、誰にも知られたくなかったんだね」
「…………っ」
まるで今にも泣き出してしまいそうな黒曜の声に、少女の心が揺れる。この娘に、本当に悪意と言うものが存在するのだろうか。この娘はただ、自分に気を許して欲しかっただけではないのか。
気まずい雰囲気が辺りを漂う。黒曜は未だ、俯いて黙ったままだ。
「……っ」
何か言わなければと思う。けれど、何を伝えればいいのかわからなかった。いや、そもそも、少女には言うという行為すらできない。自分の思いを伝えるということは、果たしてこんなにももどかしくて辛いものだったろうか。
なにか、なにか。
せめて、俯いている彼女が一度でもこちらを見てくれたら。
『応え(いらえ)』
その声が頭に響いたのは、丁度その時だった。
『応え』
「…………っ」
再び、声は少女の頭の中で重く響く。ともすれば思考の全てを塗り潰されそうな感覚に、少女は思わず片手で頭を押さえた。気を抜けば反射的に応えてしまいそうになるその声は、耳を介して聞こえてくる物ではない。直接頭へと伝わってくる、常人には聞くことのできない魔性の声だ。そしてそれ故に、この声を防ぐ手立てはない。
異形の呼び掛けには応えてはいけない。言葉には力がある。一度応えてしまえば力を持った言葉ば楔となり、その者は異形の爪に、牙にかけられてしまう。
それは少女がまだ何も知らない、平和であった頃。大切だった人々繰り返し言われてきた、約束だ。
これがあったから少女は耐えていられた。今は会えない人から教えてもらった、大切な言いつけであったから。だから、毎夜叩きつけられるこの言葉にも返さないでいられたのだ。
たとえそれにいつか限界がくるものだと分かっていても。
たとえそのせいで他の誰かが犠牲になると、分かっていても。
『我が声を聞かば応え。力ある者は応え』
応え、と、声は繰り返し響く。そのあまりの重圧に、小さく呻く。あちら側も業を煮やしているのか、今夜はいつにもまして呼び掛けが強い。
「梔子……?」
名を呼ばれ、少女ははっとして顔を上げた。見れば黒曜は片耳を押さえ、困惑した顔をしている。
彼女がいることをすっかり忘れていた。おそらく黒曜から見れば少女はいきなり頭を押さえ、呻きだしたのだ。さぞかし不審に見えたことだろう。
とりあえずは何か取り繕わなくてはと口を開きかけ、しかし黒曜が顔を歪めて続けた言葉に少女は絶句した。
「この声……何?」
少女は目を見開いた。彼女もまた、この声を聞くことができるのか。
『返してはだめ』
何かを返そうと黒曜に、少女はとっさに伝えた。それを正確に読み取った彼女は訝しげな視線を向けてくる。
『声に応えれば心を捕らわれる。そうしておびきだされて、喰われるのよ』
そうやって死んでいく子供を、少女は何度も見てきた。子供特有な勘の良さ故に、声が聞こえてしまうのだ。声の主の目的は彼らではないのに、彼らには何の罪も無いのに、そうやって死んでいったのだ。
「なんで……梔子はそのことを知っているの?」
黒曜の問いに、少女は視線を反らした。言えばきっと、全てを晒さなければならなくなる。他人を犠牲にしてまで生き延びた、自分の愚かさを。
少女が黙っていると、黒曜は深くは追及してこなかった。もしかしたらそんな余裕がなくなっているのかもしれない。魔の呼び声は、ますます激しいものとなっていた。自分はまだ耐えられるが、はたして彼女にそれが可能だろうか。
「……この声、普通の人には聞こえない?」
唐突に黒曜が顔を上げて少女を見た。少女はいきなりなにかと驚きながらもそれに頷く。
『よほど勘がいい人か、多分だけど何かしらの力がある人にしか聞こえないわ』
「……それじゃあ、きっと主様にも聞こえてる」
ぽつりと、黒曜がそう呟き、いきなり立ち上がった。その顔は必死だった。
『……何をするつもり?』
「このままだときっと主様が捕まる。だから黒曜がなんとかする」
その名と同じ色の眼でしかと壁の向こう側を見据え、黒曜がきっぱりと言った。
一体どうやってと少女が尋ねる前に、黒曜は凛とした声で叫ぶ。
「声の主よ! 我はここにいる! 用件があれば呼ぶのではなく、ここに参れ!」
『……よかろう』
笑みを含んだ声音が響き、それきりあんなに喧しく呼んでいた声がふつりと止んだ。
その代わりに響いたのは、轟音。
ばきばきと、木で作られた壁が壊れる音がする。粗末な小屋の壁から、丸太ほどもある黒い剛腕が突き出た。
「……っ!」
少女は思わず息を呑んだ。その腕は闇を押し固めたかのように黒い。指先には歪で鋭い爪が伸びている。
形はどうみても人のものであるのに、この肌は、この爪は、この腕は――。
ばきばきととまるで紙を破くかのような容易さで、壁が剥がされていく。
か弱い月明かりに照らされて見えたその姿は、一丈はあろうかという程の巨体。漆黒に塗られた逞しい肉体に、ぼさぼさの髪。いやに長い腕と、鋭利に伸びた爪。口元から見えるのは太い牙。そして頭から生える、二本の角。
それは誰がどう見ても、鬼の姿であった――。