noRhythmとして生きる
無断欠勤をするようになってからしばらくして、紀之は会社を退職していた。
見かねた上司からの電話に、「はい」と答えるだけで、退職は決定した。
後日、辞表を提出するよう求められていたが、まだ出していない。
しばらくは作品作りに没頭していた紀之だったが、減り続ける貯金残高という現実だけは、得意の“受け流し”能力でもどうすることもできなかった。
「あと2ヶ月で……ギリギリかな」
インターネットを高スキルで使いこなしていた紀之は、さまざまな情報をネットから手に入れていた。そんな中で目を留めたのが「コミックマーケット」だった。
年に2回、東京で開催される国内最大級の同人即売イベント。
毎回数十万人の来場者を誇り、個人の創作作家が集う場としては唯一無二の規模を持つ。
ブースの出展者はもちろん、ファンやクリエイター同士の交流の場としても機能しており、この世界における“最大の舞台”だ。
出展者の中には、サラリーマンでは考えられないほどの収益を得る者も多く、成功すれば大きな見返りを得られるという魅力もあった。
しかし、北陸−東京という距離の問題、そして何より未知の世界、それもネットではない現実の空間に、単身で足を踏み入れなくれはならない抵抗感は相当に強いものだった。
それでも、自分の作品がネット上で一定の評価を受けていることからくる期待、AKIとDMでやり取りをしているという自負が、そのためらいを押し流し、イベント参加へと背中を押すことになる。
◇
この頃には、活動の場は掲示板からSNSへと移り変わっていた。
掲示板ではイラストに機能的な制限が多く、自由な表現には限界があった。
だがSNSへ移行して以降、紀之は多様なツールを使いこなし、より自在な表現に挑むようになる。
その結果、ネット上での評価はさらに高まり、フォロワーの数も順調に増えていった。
満を持して臨んだイベントでは、紀之の予想を遥かに超える反響があった。
イベント後にはフォロワー数が倍以上に増え、ネットでの“noRhythm”の名は、さらに広がっていった。
この頃、AKIをはじめとしたネットから人気に火がついたクリエイターたちが次々と注目を集めはじめていた。
プロとして活動しているイラストレーターも少しずつ目立ち始め、そうした人物たちはSNS上でも“一段上”の存在として扱われるようになっていた。
紀之もまた、彼らのようになりたいと願っていた。
だが、そこに至る道は明確に示されておらず、どれだけ探しても“答え”はネット上に見つけることができない。
AKIと繋がれたことは、たしかに大きな前進だった。
しかし、もともと人一倍奥手な紀之にとって、自分を売り込むという行為──いわゆる“営業”には強い抵抗があった。
「お仕事ください」と連絡を取ることにどこか格好悪さを感じていたし、そもそも誰にコンタクトを取ればいいのか、その情報すら持ち合わせていなかった。
そうした迷いのなかで、イラストを投稿するだけでなく、自身を“すごい存在”に見せるための投稿を繰り返すようになっていた。
そうして作り上げた虚像を、自らも信じ込むように取り込み、次第に現実との境界が曖昧になっていく。
自分は、皆が憧れる人気イラストレーター“noRhythm”である──。
◇
そんなある日。
TwitterのDMに、新着の通知が届いた。
「少々ご無沙汰です。お元気ですか?最近作った新曲のイラスト、描いていただけたりします?」「そんなにたくさんは出せませんが、ギャラもお支払いしますよー」
「――きた!!」
紀之は思わず声を上げた。
すぐにでも「やります!!」と返したかったが、紀之はグッと気持ちを抑え込み、"人気イラストレーター・noRhythm"らしい返信を脳内でシミュレーションする、そして、しばらく時が過ぎるのを待ったのちようやく、慎重に返信を打った。
「AKIさん、こんにちは!お仕事のご依頼、光栄です!!」
「ぜひお引き受けさせていただければと思うのですが、現在少し案件が立て込んでおりまして……納期はいつ頃をお考えでしょうか?(もちろん、どんな状況だろうとAKIさんの依頼を断るつもりはありませんが、念のため)」
「それと、曲の世界観やご希望の方向性などあれば、ぜひ教えていただきたいです!!」
数分も経たないうちに、返信が届いた。
「念のためって言いながら、前のめりすぎ(笑)」
「納期はちょっと急なんですが、2週間後くらいでお願いできればと思ってます」
「お引き受けいただけるってことでいいですかね?」
――もちろんだ。断る理由があるわけない。
だが、ここでもう一度、少しだけタメを作って返す。
「もちろんです!」
「よかったー!」
「では曲のデータを後で送りますね」
「世界観は特に指定ないです。むしろ、noRhythmさんのフィルター通してもらったほうがいいと思ってて(^^)」
「ありがとうございます!まずは曲、拝聴させていただきます!!」「ありがとうございます!!」
「“ありがとうございます”の二連発(笑)」
ウィンドウを閉じたあと、紀之はしばらく机に突っ伏したまま、じんわりと込み上げてくる感情に浸っていた。