欲望が、背中を押した
ホール内は、まるで霧が立ちこめたような熱気に包まれている。
人波の密度は信じがたいほどで、だが皆が真剣な表情で、目的のブースへ向かって一直線に進んでいる。
紀之はその流れに逆らい、身をよじりながら人の波を掻き分け、ようやく目当てのブースにたどり着いた。
そして、一瞬の躊躇ののち、思い切って声をかけた。
「こんにちは、noRhythmといいます。AKIさんって、いらっしゃいますか?」
かつて出したことのないほどの勇気だった。
「僕がAKIです。……もしかして、あのnoRhythmさんですか?DMではどうもですー」
AKI──個人で活動するミュージシャン。当時、ボーカロイドという音楽アプリが登場し広がりはじめた頃、現在も続くそのブーム火付け役と目される、いわゆる人気ボカロPだ。
彼の楽曲は、イラストや映像と融合させた作品形式で発表されており、その世界観に強く惹かれた紀之は、AKIの楽曲をテーマにして描き上げた作品を丁寧なメッセージを添えてDMを送った。
押しつけがましくならないよう言葉を何度も推敲し、それでも送信ボタンを押す瞬間には手が震えていた。
作品が目に止まったのか意外にもAKIから返信があり、その後、何度か短いやり取りが続いていた。
「これ、僕の本です。よかったら……」
「ありがとうございます、楽しみにしてました。今日来てくれるかなと思ってたんです」
こうしたイベント文化では、“挨拶”の際にイベントで自らが販売する品を交換するのが慣例となっている。
紀之は今回のイベントには出展者として参加しており、この本は午前中で売り切れてしまうほど売れ行きは好調だった。AKIへの挨拶はしたいと思っていたものの、”できれば”、”タイミングが合えば…”と尻込み気味の紀之だったが、その売れ行きが、思い切ってAKIに挨拶へ向かわせるだけの力を与えた。
「すごい上手いですよね、それだけじゃなく独特の雰囲気というか……。もう僕、noRhythmさんのファンですよ」
「ほんとですか!? うれしいです……AKIさんの曲、ずっと聴いてました。イメージがすごく鮮明に湧いてきて……勝手に描きたくなって」
「いやー嬉しいです。それって創作冥利に尽きるというか。noRhythmさんの作品、線の強さっていうか、構図の意志みたいなものを感じるんですよね」
AKIの何気ない言葉に、紀之の内心は高揚していた。
それがお世辞かどうかなど、考えもしない。
紀之のなかで何かがものすごい勢いで満たされていく一方、自分もこの界隈ではそれなりの評価を受けている自負からか、それを悟られないように振る舞いに気を付ける紀之。
「製図の仕事してるんで、線とかパースとか、自然とそっち寄りになるんですよね。だからちょっと“カチッとした感じ”に見えるのかもです。応用というか、流用というか……」
「なるほど、それって仕事のスキルを趣味に転用するってことですよね。普通にすごいっすよ」
「でもやっぱ最終的には構成が大事というか、全体のバランス感ですよね。あとは分析力……ですかね。色にも結構気を遣ってて。あ、でも僕の使ってるモニターが発色イマイチで、今回の売り上げで新しいの買おうと思ってます。あとは……」
聞かれてもいないことを言葉多めに、かつ自信ありげに話す紀之。自分の良さを伝えたい、できる作家だと思ってもらいたい。
紀之にはその自覚はなかったが、その口調は、そんな欲求の裏返しのようだった。
「……まあとにかく、クオリティめっちゃ高いっすよ。noRhythmさんの作品。今度、一緒になんかやりません?」
AKIの言葉は本気か嘘かはわからない程度の軽いものだったが、紀之にとってはそれで充分だった。
「これ、今回の売り物です。よかったらもらってください。またDMしますね」
「あっ、ありがとうございます!あとで感想送ります!」
もう少し話していたかった。
だが、紀之の背後にはすでに別の来訪者たちが並びはじめており、その圧に抗うことはできなかった。
名残惜しさを押し隠すように、紀之はひとつ頷いてその場を譲った。
胸のなかは、熱と高揚で満ちていた。