noRhythmという盾
「藤田くん、どうしちゃったの?……説明した内容をちゃんと把握してないというか……」
直属の上司は困ったように眉をひそめて言った。
紀之はそれに対して、特に弁解するでもなく、ただ申し訳なさそうにうつむいた。 だが、その頭の中では、帰宅後に描く予定の構図が何パターンも浮かんでは消えていた。
初めての投稿からおよそ半年。紀之のハンドルネーム“noRhythm”は、掲示板のなかでも知られた名前になっていた。 同時期に開設したSNSのアカウントにも着実にフォロワーが増え、“noRhythm”の作品について語るツイートも散見されるようになっていた。
一方社内では、彼に対する苦情が少しずつ増えていた。
「このところ期日とか守ってもらった試しが無いです……仕事の質とか以前に、そもそも仕事してるように見えないんですよね」
そんな声は、直接本人に向けて発されることはなかったが、周囲の空気に重たく染み込んでいた。
ただ紀之はそれを“知っていた”。 ただ、それを“知らない”ことにしていた。あるいは、“知らなかった”と言っても、本人の感覚としては誤りではないのかもしれない。
紀之の母は、とにかく口うるさい人だった。 最初のうちは、彼なりに反論をしていた。 だが、母親は内容に耳を傾けることなく、自分の正しさを一方的に押し付けてきた。
やがて紀之は、正面から言い返すのをやめ、ただ“受け流す”という手段を身につけた。 火に油を注ぐだけだとわかっていても、心を守るにはその方法しかなかった。
そんな紀之の態度を見て、父は言った。
「母さんは口うるさいけど、間違ったこと言ってるわけじゃないよ。ここまで来ると、お前の方が悪い」
兄も言った。
「母さんと紀之って、ほんとそっくりだよな。二人とも、人の話をまったく聞かない」
だが、紀之はそれすらも、受け流した。
自分の態度が正しいとは思っていなかった。ただ、仕方がないと感じていた。
心の中には少なからず嫌悪感が残ったが、それも他者からの承認が生みだす自己肯定感で上塗りしてしまえば、見えなくすることができた。
幼い頃、紀之が最初に得た“承認”は、他の子より成績が良いという事実だった。
受け流しによって残るストレスを相殺するには、それを上回る自己肯定感が必要だった。 だからこそ、常に良い成績を取り続ける必要があった。
結果として、それが紀之の学業成績を押し上げることになり、本人にとってはある種の“成功体験”となっていた。
さらに、絵を描くことが上手いと周囲に褒められた経験も間違いなく彼の心を支えていた。
そして大人になっても、彼はその“受け流し”を変わらず使い続けた。
今、紀之を支えているのは、ネットに投稿したイラストへの評価、 “noRhythm”という名前が人気投稿者として扱われる事実が、彼に絶大なストレスリセット効果を与えていた。
苦言は、都合よく脳内PCのゴミ箱に移される。 申し訳なさも、大幅に軽減された形で処理される。
やがて、「自分は正しいことをしている」という感覚すら芽生えるようになっていた。
周囲からの不満が増えれば増えるほど、より強い肯定が必要になる。 そのために創作へより深く没頭する。
その結果、社内での存在感は急速に希薄になっていった。
当然のように無断欠勤が増えていき、当初は体調を気遣ってくれた同僚たちも、次第にその口を閉ざしていった。
会社から心療内科の受診を勧められたこともあったが、紀之はそれすらも受け流した。
気づけば誰も、彼に何も言わなくなっていた。