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掌の上の劇場  作者: マイク密


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39/39

境界の手前で

三神さんが指定してきた店は、神楽坂のイタリアンバルだった。

表通りから一本入った路地。看板は控えめで、知らなければ通り過ぎてしまいそうな場所にある。

扉を開けると、柔らかな灯りと、低く抑えられたざわめきが広がっていた。


落ち着いた雰囲気。けれど、静かすぎるわけではない。

会話は交わされているのに、音として前に出てこない。

誰もが、それぞれの時間を崩さない距離で過ごしている。

無理に気を遣う必要もなく、かといって気を抜きすぎることもない。

(居心地がいい)

自然と、そう思った。


私は三神さんに「会いたい」と送った。

今の関係からすれば、かなりいきなりの内容だ。

どんな返事が来るのか、正直想像もつかなかった。


三神さんからの返信は、早かった。

——「了解です。いつでも大丈夫ですよ。」

あまりにも、あっさりしている。

でも、それが三神さんらしいと思った。

私は三神さんに引っ張られるように、ただ要件に答えるかたちで、いくつか候補の日程を送った。

するとすぐに、確定した日程と一緒に、この店の情報が返ってきた。

場所も、時間も、迷いがない。

店の選び方ひとつで、それがわかる。

やっぱり、三神さんは慣れている。


名前を告げると、奥の席に案内された。

まだ、三神さんの姿はない。

椅子に腰を下ろす。テーブルの木目に、指先を軽くなぞる。

深呼吸をひとつ。


不安ではない。これは、これから始まるかもしれない未来に対する覚悟だ。

私たちは、“泥棒猫”と“前科者”。未来がないとわかっている未来に、足を踏み入れようとしている。

覚悟があったからといって、許されるわけではない。

私はこれから、決して許されないことをしようとしている。


スマートフォンを取り出す。

noRhythm(ノリズム)とのトーク画面が、目に入る。

先日送った「頑張ってください」のスタンプに、長々とした返信が返ってきていた。

思わず、ため息がこぼれる。

そのタイミングを見計らったかのように、三神さんが現れた。


「お待たせしました。またノリ君から、何かLINE来てました?」

「個展やりますっていう連絡だけだったんですけど……さっき見たら、これも来てました」

私はスマートフォンを差し出す。

三神さんはスマートフォンを受け取りながら席につき、画面に目を落とした。

「ああ……。まあ、とりあえず注文しましょうか。並木さんもビールでいいですか?」

「大丈夫です」

三神さんは軽く手を挙げてウェイターを呼び、ビールを二つ注文した。


「素敵なお店ですね。よく来るんですか?」

「よくってほどじゃないけど、半年に一回くらいかな。ここ、高そうに見えて意外と安いんですよ。ちゃんと美味しいし。好きなもの頼んでください。今日はこっちで持ちますから」

「いえ、誘ったのは私なので、支払いはこちらで持ちます」

「いやいや、多分俺、並木さんより二十個くらい上ですよ。さすがにそれはダサいでしょ」

そう言って、少しだけ笑う。

「……まあ、なんて言いながら、実はこれで払うんですけどね」

三神さんはスマートフォンケースのポケットから一枚のカードを取り出し、軽く振って見せた。

「この店だと経費にもできちゃうから。ほんとはダメなんだけど、佐々木社長、優しい人だからね」

「じゃあ。ごちになります」

「あはは、相変わらずいいね並木さん」


私たちは一緒にメニューを開いた。

私が少し悩んでいると、三神さんが聞いてくる。

「何か、食べられないものとか苦手なものあります?」

「ないです」

「じゃあ、最初は適当にいくつか頼みますね。あとから好きなもの、追加してもらえれば」

そう言って、三神さんは再びウェイターを呼び、いくつか料理を注文した。


店に入ったときは、まだいくつか空席があった。

けれど、少し経つだけで、いつの間にか店内はすっかり埋まっていた。

やっぱり、人気の店なんだ。届く料理に、自然と期待が高まる。


「今日は誘ってくれてありがとうね。ノリ君の件かな?」

「いえ、単に連絡が来てるだけですので。特に理由とかはないんですけど……迷惑でしたか?」

「え、そうなの? 迷惑どころか、そっちの方が嬉しいですよ」

三神さんは軽く笑う。

「今日の格好もよく似合ってるし。相当可愛いですよ。周りから見たら、どこかのアイドルとマネージャーとか思われてるんじゃないかな」

「それはないですって(笑)」


まずはお礼。それから、相手が気持ちよくなる言葉を自然に添える。

私は一度家に帰って、服を着替えてきた。要するに、勝負服だ。そこを的確に突いてくる。

やっぱり、三神さんは慣れている。

同時に、少しだけ拍子抜けした気持ちもあった。

三神さんの、軽く前のめりなテンション。

私の意気込みを見透かしたうえで、あえてそうしているようにも思えた。


「ここ、ワインがすごくいいんですよ。ワインいけます?」

「大好きです。キャンプのときのワインも、とても美味しかったです」

「それはよかった。じゃあ、後半はワインいきましょう」

軽く料理の話をしながら、場の空気がほぐれていく。

三神さんがグラスに口をつけてから、ふと思い出したように言った。

「……キャンプといえばノリ君か。さっきのLINEだよね。あれ、頑張ってくださいのスタンプ以外、返しようがないよね」

「そうなんですよね」

「たぶん、何か決まるたびに送ってくると思うけど……基本、無視でいいですよ」

少しだけ肩をすくめる。

「もし何か返すなら、『それって社外秘情報じゃないんですか?』って言えば、たぶん止まりますよ」

「それいいですね」

「現時点だと、社外秘どころか、開催すら決まってない段階なんだけどね」

「えっ?『個展をやることになりました!』って来てましたけど……」

「それがノリ君なんだよ。まだ何も決まってないことはわかってるはずなんだけど、自分の中ではもう決定になってるんだろうね。だとすると、本来はリリースまで外出ししちゃいけない情報なんだけどさ」

「ああ……。noRhythmノリズムさんって、面白いですね」

「そう。面白いの。生き物観察としては、絶好の対象」

思わず、笑いがこぼれる。

「そういえば、最初の合コンのとき、私もそんな感じでnoRhythmノリズムさん見てました」

「あー、並木さん、あのときひどかったね。ノリ君、持ち上げるだけ持ち上げて」

三神さんは少し笑いながら続ける。

「それが理由での、今ですよ」

「ほんと、すみません。反省してます。でも、個人的にはサインの件が最高でしたね」

「同人誌とマイペン持参ってやつでしょ」

「そうです。あれって、皆さんそうなんですか? 作家さん的には常識とか」

「いやいや、ないない(笑)。一度、ダサいからやめろって言ったんだけど、軽くキレられての結果アレですから」

「キレるって……何が理由で?」

「『三神さんは、そうやって人のテンション下げることばっかり言う』みたいな感じかな。さらに、なんだかそれっぽい理由を持ち出してきて、自分は間違ってないって」

「子供ですか(笑)」

「そうそう。子供のままなんだよ、ノリ君」

「キャンプのときの長靴の理由も、まさにですよね」

「そうそう。『これはブーツだ、火に強い』ってやつでしょ。そうかもしれないけど、そうじゃないって感じだよね」

noRhythmノリズムさん構文ですか?」

「まさにだね。全部メモってまとめたら、本一冊くらい出せるかもな。……ほんとにやろっかな」

「出してください。絶対買います」

「ほんとに出たら、献本しますって(笑)」


店内のざわめきは、相変わらず心地よかった。

二人の声は重ならず、けれど途切れることもない。

ふと会話が止まっても、気まずさを感じることもない。

料理が運ばれてくる。どれも見た目以上に軽やかで、つい手が伸びてしまう。

気づけば、いくつか追加で注文していた。

三杯目から、ワインに切り替える。三神さんおすすめのものを頼んでもらったのだが、とても美味しい。


「これ、とても美味しいですね。正直、ワインの味なんてたいしてわからないんですけど、はっきりと美味しいって感じます」

「飲みやすいでしょ。実はこれ、女性を酔わせるには絶好のワインなんです」

「えー、そうなんですか。私、酔わされたらどうなっちゃうんですかね(笑)」

「気がついたら箱根の温泉宿とかにいたりして」

「えっ。温泉宿だったら、いいかも」

「あはは、もちろん冗談ですよ(笑)。ちゃんと家まで送り届けます。そこら辺の分別はちゃんとありますから」


——そこら辺の分別はちゃんとありますから。

私の意気込みに、静かに釘を刺された気がした。

拒まれたわけではない。けれど、その先に進むつもりはないと、やんわり示された気がする。


ワインのボトルが空いたタイミングで、なんとなく終わりの空気になる。

特別な区切りがあったわけでもない。


店を出て、少しだけ夜の空気に触れる。

さっきまでの店内の温度が、ゆっくりと抜けていく。

軽く挨拶を交わし、少しだけ丁寧にお礼を言う。

三神さんはいつもの調子で、「こちらこそありがとう。気をつけて」と言った。

私は見送られながら、坂を下り、駅へ向かう。


結局、何も起きなかった。

起こせなかった。

三神さんを諦めた感覚があるわけでもない。

もちろん、好きでなくなったわけでもない。

それなのに、どこかに満足感が残っているのは、なぜだろう。

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